昨夜の客人

 優しい夫と愛らしい妻という風勢の二人でした。よく酒を飲む人らしく注文する肴が当意即妙、酒と料理のバランスを心得ている。ただ、時折、うーろん茶の注文がありました。よく飲み、よく食べ、よく語り合う二人でした。ところが、しばしの後、その愛らしい妻が、がっくりとコウベを垂れ、力のぬけた体をその夫に支えられるほどに酔ってしまったのです。『大丈夫ですか』とたずねたら、その優しい夫は『いつものことですから。』とさらりと返してきた。夫には酔って様子がなかった。
 勘定を済まし、優しい夫と愛らしい妻は仲良く帰っていきました。話はこれからである。その二人の隣で呑んでいたある高名なバァオリニストの証言によると、あの優しい夫は酒を一滴も呑まず、ひたすらウーロン茶を飲んでいたという。愛らしい妻の語りを受け止め、妻の酒に酔った体をささえ、支払いを済まし、『いつもの事ですから、』と涼しい顔の夫。
 人につくす、己を捨てるということは言うは易く行うは難しです。あまりにも自分にこだわる了見のせまさ、すぐに己れを語ろうする我執。 優しい夫の後姿を見送りながら、バァオリニストと私は沈黙でした。
 己れを虚しくして女につくす、女に惚れるということの何たるかを改めて考える夜になりました。 女に尽くしてもらうなど夢々おもうな。 と言い切れる男になりたい。

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