婆娑羅の護摩たき

 いよいよ我等が酒場にも全面禁煙の波がせまりつつある。 タバコをすわない方々にはまったく関わりのないこと、むしろ願わしく大歓迎な事である。 禁煙はいまやいたるところで強行され、あわれなるかな喫煙者はまるで罪人のように色々な所から迫害され、居場所がなくなり世界からマッサツされようとしている。 最終亡命地の我家という安息地も、もはや喫煙は許されないという家が沢山だ。

 流浪の罪人は街中をあてどもなくハイカイしながら安息の灰皿をさがす。 公園のような空間でイップク、だがこの行為は路上喫煙という了見のせまいおせっかいにふれる。

 俺はタバコを30年前にやめた。 いや、やめさせられた。 女の手練手管にのみこまれ、「ハイ、オオセノトウリニイタシマス!」 と あっさり男の意地をすててしまった。 だからか、世の中から迫害される喫煙がいじましく あわれをさそい、なんとなくの気分に煙のようにたなびいて 「あんまり弱い者いじめするなよー。」 なのです。 それでもって、婆娑羅ではいまも店内喫煙は可能なのですが、「どうかまわりの気づかいをよろしく!」 と一言をそえて灰皿を出します。 吐き出すケムリの行方を案じるながら細くすまなそうにしている方々がまたしてもあわれをさそい、「じゃあ、外に灰皿よういしてあるからF1のエンジンみたいにうなりあげて吐き出してこいよ!」 と 店の前の植込みに立派な大きい灰皿を設置した。 提供は日本たばこ産業だ。

 少し前にはF1のマシンはケントやマルボロやラッキーストライクやJ・P・Sなどなど名だたるタバコ会社のマークが燦然と輝きその車体をかざっていた。 先日見た小津安二郎の早春という映画の中ではタバコが演技の要であるかのようにスパッ スパッと豪快にケムリを吐き出して人生を語ったりしていたのに、時代の変遷は残酷だ。 他人の吐き出すケムリが嫌だというのは当たり前だ。

 受動喫煙で体調を崩す人が 手をあげて公共の場所での禁煙をよびかけて久しい。 その波はどんどん広がって命拾いをしたという人のあることを知った。 いまや、格好よくタバコをくゆらせる時代でなくなったから役者が皆、健全でたくましく見える。 退ハイがないのである。 どっちつかずで謎めいた奇妙な間合いが人間の所作をゆたかに奥深いものにするのに。 裕次郎も小林旭もそれにいた。 勝新太郎のデカタンはタバコに支えられていた。

 さて、店の前に設置した大きな灰皿、地域の社会貢献にもなるという思いもあった。 街の美化などとガラにもないこと、ほんの少しだけだけど考えた。 店内での喫煙から外へのゆるやかな移行ねらいもあった。 だが、その思惑はみごとにはずれた。 朝・昼・夜、かかわりなく老若男女とわず喫煙者がつどい、入れかわりたちかわりだ。 近隣のオフィスからの人が次から次へとやって来る。 仕事場では許されなくなった喫煙が、ほんの少しの場所にある。 「こいつは重宝するぜ!」とばかりに、日に4、5回おとづれてくる者もいるようになった。 皆して口や鼻から煙を吐き出す。 ある者は天にむかってヤッホーと解放感たっぷりに吠えながら煙を吐く。 スマホをながめながらの喫煙がもっとも常識的なスタイルになっているから両手はいつもふさがっている。 これは今日的な特ちょうだ。 だから、たまに左手を腰にまわし、右手でタバコを口にもって行く仕草をながめたりすると、それが妙齢の女だったら不思議な心持ちになって来る。 タバコをくわえながら客待ちをする妖えんな女にみえてしまうのは、俺の邪しま!

 そしてたちのぼるケムリはますます大きくなり、それは護摩だきのようそうを呈してきた。 祈りの声もなく、経を読むうなり声もなく、一時の静かで無言のケムリがモクモクと立ちのぼるだけだ。 護摩だきのケムリは供養になるケムリだから人々の心を和ませる。 タバコのケムリは車のケムリほど毒性はないかもしれぬ。 だが嫌われものにはなる。 核のゴミや放射能のような絶対的に人類・地球によろしくない嫌われ者ならなすすべがない。 わずかな配慮、ほんの少し方策をほどこすことで喫煙者への大排斥運動に異をとなえたい。
 「あんまり、よわい者いじめするなよー。」

 追記
 店の前の灰皿はきちんと置かれ、そのワキにベンチをそなえ、ゆっくり座りながらケムリをくゆらせることができます。 近隣の人々は来なくなりました。 あまり人が集まるので、「この場所での立ちタバコまかりならぬ」 という次第であります。 市の通達。


                      2019.6.24
                       大澤 伸雄

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