2020Tokyo開幕

 航空自衛隊のブルーインパルスが五機 首都東京の上空に現れて巨大な雲の輪をえがいた。 とうとうオリンピックが始まるゾーという堂々たる宣言というワケだ。 令和天皇がスタンドの最上級席から上品な声でおっしゃるより何倍もの宣言力がある。 観客のいない真新しいスタジアムは色々な模様のシートが並べられて人間が着席しているように錯覚して見える。 本当にいない。 だから、人々はうらめしそうに、往生際の悪い顔をして巨大なスタジアムの周辺でたむろしている。 心は少しでもオリンピックという出来事を我物にしたい民の願いなのだ。 民の願いなど知ったことかと言わんばかりにコロナ感染者の数はウナギのぼりに2千人を超える勢いだ。

 緊急事態、まん延防止、医療現場の崩壊、それは本当の事だから物騒な文言であっても心の中できっちりかみしめて慎ましい暮しを実行したのです。 「感染コワイデスネー」 と心配顔のポーズはしているものの 「コロナあきた」 「もうすぐ二度目の接種も完了だ。」 この災厄がまるでおさまったかのように人混みも喧騒もそこかしこにある。 「そこかしこなんてもんじゃねぇ」

 災厄が長引けば、当り前に気がゆるむ。 禁止は守らない。 恋人に呼び出されれば即座に出かける。 孫にミッキーが好きなんて言われりゃ道楽を投げ出してディズニーランドに直行だ。 それぞれの家族、それぞれの人間の関係の中で日々生きているのが人間だ。 人流とは生きている証しだから方向を変えたり減らしたりをそうやすくできるものではない。 まして東京のど真ん中でオリンピックという大イベントが決行されているのだ。 相反する二つの事、災厄を沈静させること、オリンピックという大イベントを完遂させること。 この国はどえらい事やろうとしているのだ。

 一年前の八月、時短営業ではあったがバサラはしっかり営業していた。 連日忙しかった。 このままいくらかの振幅はあっても災厄は自然の輪廻のうちにくくられているのなら、ゆっくりとその勢いがそがれていくと想いえがいていた。 そして延期された2020東京オリンピックは無事に平常開催のはこびとなる。
 大方の日本人の願いであった、が、はずれた。 コロナは手を変え品を変えまるで強靭な意志をもっている生物のように人間とともに存命している。
 感染者の多少はもうよい。 仕方ない折り込み済みのことだ。 犠牲、混乱、市民生活の破綻と引きかえに国はオリンピックへと突き進んだのだ。

 そこいらの飲食店の行末などこの非常時、末尾においておこう。 いずれこの状況が健全にもどれば雨後のタケノコのように生えて来るものだ。 ああ生き残り、雨後のタケノコのしたたかな生命力が欲しい。 それを暗示していたかのように開催日の競技場で展開されたSF的大パノラマ舞踏ショーがあった。
 選手団の行列が長々と続く。 皆、一様に旗をふり、満面のニコニコ顔で、はてしなく長く、はてしなくいつまでも。
 しかし、2020Tokyoの開催式はちがった。 大袈裟な国力誇示や国家宣伝のような文化、経済の現状報告的自己紹介。 それに代えて一人一人が地に伏して祈りをこめて踊る実に素朴な表現であった。 それはコロナ禍で開催されることへのためらいがあるように思えてならなかった。 その心こそが日本であると思いたかった。

 3日目がたった今日までに日本の選手のメダルが15個だという。 色々な競技を見ながら、「俺って、こんなにスポーツ好きだったけぇ」 と不思議な高ぶりにいる。 この高ぶりは日毎に上がって行くことだろう。

 人々は拍手と喝采でアスリートを讃えるだろう。 国の勝利に熱狂する民は街に出て踊り歌い感激をだき合って歓喜する。 祭典は始まったばかりだ。 だがコロナは何んにもおわっちゃいないのだ。 それどろか、オリンピックの熱狂が静まり、平静をとりもどした頃この国のコロナ禍はいかなる変調をとげているのだろう。 この先、もっと人間世界をこらしめてあばれてやろうなんて目論見はすてていただいて、なじみになるというのはいかがか!

 ばかな、そんな荒唐無稽だれが思いをはせようか。 それよりもテレビ中継に映し出される日本選手の活躍に、しばし熱狂しよう。

 次々と人類におそいかかって来る災厄にそなえるためにも強くしなやかなアスリート達の美を心に刻みつけておくのです。 我等の力と勇気のために


                      2021.7.28

                       大澤 伸雄
                    休業中の婆娑羅から

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