野垂れ死に

 ある日の黄昏時、 あたりは暗くなりかけている中 自転車で店にもどろうとしていた。 路地のはしを歩いていた おばあさん(75さいくらい)が いきなり後に倒れた。 力なく くずれるように、そして頭をゴツンと地面に打った。 自転車をとめ、その おばあさんの首あたりに腕をまわし 中腰でだきかかえた。 意識がない。『おばあさん おばあさん』 と体をゆすりながらよびかけた。 応答がないまま時間がたち どうしたものか思案した。 ここは救急車を呼ぶしかないと思い おばあさんの体を地面にもどした。 なぜか わからないが体を地面にもどす時 どうにもやりきれない すまなさが よぎった。 地面にもどした時、そのまま地にすいこまれてしまい、ずっと甦らないのでは という想い。
 幸い意識がもどり 部屋におくりとどけ 無事を確認して仕事にもどった。 しかし、それには おまけが ついた。 小さなおばあさんとはいえ 力のぬけた肉体というやつは やたらと重い。 ながい時間ではなかったが 中腰の態勢が よくなかった。 翌朝、起き上がれないほど 腰痛のダメージがきた。善行の結果がこれか、と 己をあきれた。
 時折、ホームレスの話としてあるが、都市生活者の我等には 行き倒れとか 野垂れ死には あまり聞かない。 それは、誰かが倒れている老人を 助け救うことが常識であるからで 無関心はほとんど犯罪である。 だが、人に知られぬうちに静に野に死ぬをよしとしている者だっているはずである。 「無法松の一生」の主人公が 桜散る大木の根元にもたれて 首をしなだれて死んでいく姿を思い出した。
 『さびしい孤独な老人の死』と あわれむが もとより 死はさびしく 孤独なのである。 だから あのおばあさんだって ひとり 路上で野垂れ死ぬことがあっても、 事、さほど悲劇ではない と考えた。 晩年、父親は老人としての 普通の痴呆があり、 夜、徘徊もあった。 冬の深夜に 家をぬけだし 3キロほどはなれた ICUの大学の構内の林の中で 発見された。 もし、発見されなければ まさに さびしい老人の孤独な凍死なのである。
 それは さほど不幸ではなく 死に行く者の ひとつの選択ではないかと考えました。 野垂れ死ぬとは 土に還ることである。 そう想うと いつでも どこでも いけるぜ という元気がわいてきました。


十月
 牡蠣 銀杏 いくら 白子 むかご 秋刀魚 などなど 秋の味覚 いっぱいの
 婆娑羅です。

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