女子学生と餃子

 春の嵐が吹き荒れる日曜日、海浜幕張に行った。 3年前、婆娑羅でアルバイトをしてくれた順子さんの結婚式によばれたのである。
 何人かの女子学生が店を手伝ってくれた。 結婚式にも招かれた。 学生の頃の印象などを語る。 話が料理のことになる。 
そして常套句・・・

 「今どきの女子学生は料理などしない」と。
 その通りだと思うが婆娑羅では違う。 包丁を使う。 餃子も作る。 代々の女子学生は殆んどがそれを経験していく。 この順子さんもそうだった。 その前にいた麻衣子さんも、また名古屋に帰った礼子さんも、会津なまりの愛きょうの寛子さんも、皆、それぞれに美しい餃子をこしらえてくれた。 プロではないから、迅速で無駄のない仕事ぶりとはいかない。

 ゆっくりと、確実に、丁寧で、いつくしむように、そして、きれいな刺繍を縫い上げるように餃子と向かい合うのである。
 曰く、やわらかな指先からつむぎ出される一つ一つの餃子は、彼女達の心であるように思う。 だから、餃子に精進している時に他の仕事を言いつけることが出来ない。 集中しているその背中は、俺の言いつけ事をきっぱりはねつける。

 今日も、平山なおみさんは餃子と向かい合っていた。 何も語らなくなる。 餃子だけがあり、周りから世界は消えてしまったかのようだ。 餃子の中に哲学を見る者の横顔は、深い深い沈黙におおわれ、白い指先だけがゆっくりと動いている。 “ナオちゃん、ナオミちゃん”と、耳元で呼びかける。 だが、塵芥を一瞥するように無視されてしまった。

 婆娑羅における今どきの女子学生は、一途に餃子をこしらえてくれるのである。 ゆっくりと、やさしく、ていねいに。

 やがて、何年後かに結婚式に呼ばれる。 その時、俺は餃子の事をゆっくりと、やさしく、ていねいにスピーチしたい。

 写真は平山なおみ作でありますが、誰もがこのように作りあげます。


トップページへもどる

直線上に配置