深川どぜう

 その昔、武田泰淳という作家が夫人の百合子さんを口説いたきっかけを、「うまい饅頭を食わせる店があるから一緒に行かないか」というふうに切り出したという。 だから俺も真似をして「うまいドジョウを食わせる店があるから一緒に行かないか」と誘った。
 その女は素っ頓狂な顔をしたが、傍若無人な誘いを受け入れた。
それは俺に魅力があったからではなく、ドジョウという未知なる食べ物を経験したい知的好奇心だけだと言った。 なんでもよい。 その女と二人きりになれるなら、ウナギでもドジョウでもスッポンでもよかった。 ただ、若い女にウナギは仕掛けが弱い。 スッポンはあまりにも刺激的で露骨だったからドジョウに落ち着いた。

 俺は深川、森下の伊せ喜という店を選んだ。 古い民家風のたたずまいの店は、個室ではないが昭和初期の風情をかもし、小さな膳が置かれている10畳ほどの畳の部屋に通された。
 店では「マル」と呼ばれている最も基本的なドジョウ鍋から入る。 ドジョウがそのままの姿をさらして鍋に並べられているのを、たっぷりのネギをのせて煮るのである。 
 目の前の女は、美しく白い指先を見事な箸さばきで、熱々のふっくらとした丸のまんまのドジョウをつまみ上げる。 ツルリと口の中にほうり込む。 続けて、二匹三匹と間髪を入れずに楽しんでいる。 「これは、美味しいわ。私にぴったり」と言う。

 その潔い、スピード感のある食べっぷりに、いささか俺は面喰った。 少しは恐れとおののきの仕草などと期待したのが甘かった。
 待てよ、この女の先祖はと、急にめくるめく深い闇に葬られた落人伝説に現れる女が浮かんだ。 透き通る白い肌、鋭い眼光、きりっとした目鼻立ち、それらは市井の民のものではない異質な野性が漂っていた。

 俺はひるんだ。 気力が萎えていた。 女を口説くというリビドーが働かない。蛇ににらまれたカエルは女のただならぬ食べっぷりにやられた。
 それでも女は妖しかった。 カムイ伝の中に現れた、山野を自由奔放に駆けめぐる女の姿が重なった。 「もう一皿、食べましょうよ」と言う女の声で我に返った。 マル鍋とヒライたドジョウ鍋を一つずつ食べ尽くし、しこたま酒を飲んで、店を出た。 深川の夜はとっぷりと暮れていた。

 その後の、女との話はいずれの機会にするとしよう。 唯、ドジョウをツルツル食べるような女と付き合うのなら、相当な覚悟をしろということだ。

写真は丸鍋と、ヒラキ鍋であります。


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