サラエボの花

 子供の頃、近所に黒人の子供がいた。学校からの帰り道、3人で歩いているところに、その黒人の子供が犬を連れて散歩しているのに出会った。
3対1という数の有利だけで、俺達子供は残酷な質問をしてしまった。

「ねぇ、お前は何人なんだよ。」と、その黒人の子供はうつむいたまま、何も語ろうとはしなかった。
俺はその嫌な、いたたまれない沈黙に耐えられず、みんなを促して逃げるように全速力でなるべく遠くまで、走れるだけ走って、自分のした事を恥じた。
人は己の出生を知っているが、知りたくない事実に直面した時、それを受け入れることは出来ない。

 1992年、旧ユーゴスラビアが解体していくなかで、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの内戦が起こる。ボスニアはイスラム教徒、セルビアはセルビア正教徒、そしてクロアチアはカトリック教徒という人々が混在している。
映画は、セルビア人勢力に暴行され、身ごもり、出産した母親とその娘の物語である。

 娘は自分の父親がセルビア勢力との戦いで死んでいったシャヒード(殉教者)だと思っている。母親はセルビア兵士の暴行の忌まわしい過去を越えられないでいる。当たり前だ。暴行され、出産した娘がいつも目の前に生きているのである。貧しくも、娘との暮らしは平穏に流れている。格別な事件もなく、それ故に些細なことから事実が忍び寄ってくるのである。

 中学の修学旅行の旅費がシャヒードの父親の戦死の証明書があれば免除されるのだが、娘の再三の要求に母親は口を濁すばかりで応じない。
そして、母親が旅費全額を学校に届けに来た時、娘は自分がシャヒードの子ではないことを予感するのである。
学校の廊下で、教師と母親と娘のちぐはぐなやり取りを眺めていた、同級生三人の女の子に詰問される。

娘は虚しく叫ぶ。「パパはセルビア兵に殺されたシャヒードよ。」
その激しい叫びにおびえ、三人の女の子は一目散に走り逃げ出した。

 やがて映画は、母親と娘がともに事実と向かい合い、それを踏みこえ生きようとする予感をにじませて終わる。

 子供の頃、学校の帰り道に会った黒人の少年とは、それっきり会うことはなかった。彼もきっと出生の苦難に悩んだかも知れぬが、その後の人生の好運を祈るとともに、子供とはいえ、己の姑息な偏見を恥じる。

<追記>
 ホームページのこの項を読んでいただいた方には是非、サラエボの花を観ていただきたい。



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