いつかロロサエの森で

 かって、水戸の御老公は常々、「人はなりかたちではない。見かけで人を、わけへだててはならぬ」と おっしゃっていました。
が、俺は常々、人は見かけであると、強く思っている。悪事を企て、悪事を働く者で福相の者はいない。 金銀、宝飾でその身を覆うものに、もののふ(武士)はいない。

 酒と女にうつつをぬかす者に、うちのような酒場は似合わない。
たわけ者はどこか顔がゆるんでいる。そのゆるみが、いとおしくなるから女にもてるのかも知れぬが、女にもてる男という者はたいがいが、ずるがしこい眼先をしている。 なぜなら、スキのある女をいつも、いつも物色しているから、落ち着きのない、姑息な顔になってしまうのである。俺はそのような者から、なるべく眼をそらすようにしている。 朱に交われば云々のたとえではないが、落ち着きの悪い眼先で見据えられると、身を固くして構えてしまう。 が、穏やかで優しい顔の人の前では誰だって、体の力を抜いて胸襟を開いてしまうものである。

 ある日、吉祥寺の古本屋で探し物をしていた時に、手の届くところから一冊の本を取った。 ペラペラと心なくページをめくり、本の帯の写真を眺めた。 男の顔があった。 細面の目のほそいスマートな都会的な顔と捉えた。 見覚えのある、その男はアイツだった。 アイツはジャーナリストだったのだ。 アイツは報道写真家だったのだ。 俺は絶句した。 アイツは週末のたそがれ時にいつもやって来る。 美しい、物静かな女が隣に座って、寄り添っている。 夕日が沈む頃で外はじゅうぶんに明るい。 酒がある。 美しい女がいる。 うまい酒菜がある。 何にも欠けることのない幸せなひとときが、その男を包んでいる。 俺は仕事をしながらも、ねたましかった。 意地悪な心がわいてきた。

 「あの本、本当にあなたが書いたのですか」
 「えっ、何んのことですか」
 「ロロサエの森ですよ。」
その男はとぼけた。俺は追撃を加えた。

 「インドネシア政府に情報を流してみましょうかね」
しばしの沈黙の後、男は観念した。

 「ありがとうございます。本、読んでいただき、うれしいです。」
と顔をほころばせた。

 インドネシアからの分離独立の戦いは1975年頃か世界が知るところとなった。 その東ティモールの独立運動の内側を取材したのがこの本なのである。 学生活動家の中に潜入して、スパイ活動の実態を見る。 山岳ゲリラの要塞に入り、熱帯の密林の中で寝食をともにし、ゲリラの日常を撮りまくっている。 ヘビ、トカゲ、ネズミ、喰えるもの何でも口にして来た。 野生たっぷりの山岳ゲリラの日常が、鬼気せまる勢いで読むものをとらえる。 独立運動という政治性を考慮しなくても、この本は冒険小説のようにワクワク、ドキドキしてくる。 どうして、こんな本が書けたのか。

 それにしても、この男、どう見ても都会の片隅でウロウロするナンパな優男にしか見えぬのは、俺のねたみなのか。

 「ジャングルのヘビと、バサラのモツ焼、どちらがうまいですかねぇー」
 「それは、比べちゃいけないですよ」
と、軽くいなされてしまった。

 人は見かけによらないとは、この男には屈した。
しかし、俺は頑なに「人は見た眼なのである」と、今も、これからも信ずる者であります。

   いつかロロサエの森で
     − 東ティモール、ゼロからの出発 −
       南風島 渉(はえじま わたる)
                本名ではない
       コモンズ


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