山河に遊ぶ(その三)最終章

山河の怪異

陶 山汀

・夜の暗闇には
・三つ目
・暗闇からの声
・甚之助避難小屋のこと
狐につままれる (第二部)
・虫の知らせ
・尻斑
・霊と術

 夜の暗闇には


 暗闇への恐怖や闇そのものへの神秘性や畏怖を、幼い子供のころから、心に焼きついているという人が意外に多いものです、その観念は大人になっても克服されることもなく、生涯にわたってもち続ける人もいます。
私は幸いにしてか、それほどの怖いことに遭遇することもなく育ったためか、愚鈍であったがためか、恐怖心を植えつけないで育ったようです。
 今から半世紀以上も昔になる子供のころは、夜道を歩くのであれば手提げの提灯を使っていた時代です。父親が、時に、夜になるとお寺の方丈さんと囲碁を打つための、使い走りを子供達に命じるのでした。兄も弟も暗い夜道を歩くことを嫌がって、その使いには行こうとはしなかった。私は別段なんの躊躇もすることなく、親の言いつけに従って使いに出掛けていた。いつしか、夜の使いは私の受け持ちの仕事となっていた。
 当時のことですから各家庭に電気は来ていても街灯などは無論なくて、あってもせいぜいが門灯程度であった。六軒ほどの家屋敷の前を通り過ぎれば、その先は明かりの全くない暗黒の世界です。お寺の境内は両脇に巨木の茂る暗い長い石段を登りきったところに山門があって、さらに石畳を奥に進んで、頭上の巨木が覆いかぶさる暗黒のなかの土蔵の前で右手にとり、その奥のもうひとつの山門を潜ってから、土塀に沿った長い石畳みを辿れば大きな空間に出て、突き当たりには本堂があって、その前まで歩けばやっと右手の庫裡からの弱い明かりが見えてくるのであった。それでも、その使いには一度も提灯を使ったことはなかったと記憶している。

 「夜目が利く」(よめがきく)という言葉さえ使うことが少なくなった現在では、夜間の暗い闇の中でも見る・見分ける能力があることは、さほど顧みることのない能力のひとつに成り下がった感が、否めないのです。しかし、野遊びや野外活動においては照明器具を用いなくても夜目が利くという能力はとても重宝にして、必要なものです。
大昔から人類は、現在ほど手軽に照明器具類を用いる方策もないところから、月の明かりや星明かり、暗闇のなかでも夜目を利かせての活動を、当たり前のこととして行ってきたことでしょう。
現代の世代に生きる我々は様々な照明器具に囲まれて。昼夜の区別がつかないほどの明るさのなかでの生活を、至極当たり前のこととしています。ほんの少しの照度不足の環境でさえ、当たり前のこととして照明を求めて依存する生活です。暗闇の中では照明器具を用いない活動など考えられないほど、夜の暗闇とは全く縁遠い生活になっています。
しかし、現代に生きている我々にも「夜目が利く」という能力を、先祖たちから当然に引きついでいます。暗闇の中に我が身をしばらく置いてみれば、夜目が利くという能力は復活してくるものであることが解ります。
 試みに、照明器具を一切用いずに暗闇のなかの林道などを歩いてみることです。
歩きだしの数歩は覚束無いものの、一分経ち十分経ち、二十分経ちと時間が経つごとに夜目が利いてきて、三十分もすれば何ら支障なく、速度をあげて歩くことができるはずです。
要は目の慣れには一定の時間が必要であるということです。
それに、今までに明かりばかりに頼ってきたがために、明るさの届く範囲内の狭い視野に意識が集中し視覚が働いていたものが、無灯火では見ようとするものが局限されることなく全体視するとともに、視覚だけにこだわらないで他の感覚器官にも働きかけて総動員して、暗闇の中の全体を把握しようという気持ちが自然と湧いてくるものです。
暗闇の中での活動は人間本来の五感を取り戻してくれる、感覚器官を活性化させる絶好の機会でもあります。
 「夜目が利く」という先祖から引き継いだ能力を眠らせてしまうことなく、十分に発揮させ、必要な能力として活用するようにしたいと思っています。夜間の行動中に突然にライトの球切れや予備乾電池の忘れ物であわてふためくことはままあることで、文明の利器を当たり前のようにして、頼り切って使ってしまうことの陥穽に気づくべきです。
 野遊びや野外活動においては、原則的には無灯火での夜目を利かしての活動が前提で、常に照明器具の携帯はしていても(心強い利器をもっていることの安心感とその機能性は十分に信頼できる)必要最小限に使用するというのが良いと、私は考えています。


 三つ目


 九月の下旬に、京都府の北東部に位置する由良川水系の上流域にある佐々里川の山女魚釣りに入ったときのことです。
 これまでに幾度も釣りに入ったことがあるこの佐々里渓谷は、左岸側に林道が奥深く延長されている。林道から渓谷までの落差も距離もさほどなく敷設されていて、どこからでも入渓し易く、悪場も少なく川通しのしやすい渓谷です。ただ両岸からの張り出した樹木の枝下をくぐるように蛇行して流れる水域も多くあり、河原が広い割りには竿を出せない場所もあって、その渓相が渓流魚の棲息域を守っているといった渓谷でもある。
 日没までこの渓谷を釣りのぼって、釣り場で真っ暗になってしまっても林道までの急斜面を這い上って脱出すれば、あとは足元の安全な林道を半時間余りも歩けば駐車地点まで戻ってこれる、という安心感があって、夕闇が迫っていても慌てることなく、ヤマメが餌を追うにまかせて夢中になって釣っていた。それに来月の十月になれば渓流釣りは禁漁期間に入ることであるから、今シーズン最後の渓流釣りだという意識があってのことでもあった。
 ところが秋の夕陽はまさに釣瓶落としで、そのうえ山峡の谷底にいるため、「あっ」という間に暗くなって、釣り仕掛けや竿を仕舞う手元さえ見えなくなった。いつも用意しているヘッド・ランプを取り出して、その明かりのなかで納竿し、釣り用具をリュックに納めた。
 そこで、ヘッド・ランプを消し、夜目が利いてくるまでしばらくは岩場に腰掛けて休憩をすることにした。
真っ暗闇のなか、私の背後の山中で、距離はさほどもないような接近のしかたで、山の斜面を運ぶ動物の足音が伝わってくる。野鹿の母子連れである。
私がここで腰掛けていることは先刻ご承知の筈である。「ピイッッ」という警戒音を発して子鹿を誘導しつつも、渓谷の際まで降りて来た。もう、この暗闇のなかでは我々野鹿の世界である、と言わんばかりの大胆な動きである。私の存在を決して無視しているのではないということは「ピィッッ」という警戒音を欠かさないのでわかる。草を喰んでいる音も間こえてくる。

 ようやく夜目が利きだした。あたりの様子がわかってきたので行動を再開し、荒れ地肌の林道側の急斜面に取り付いた。松の木の根元や剥き出しになった根っこなどをつかみながら、林道に這い上がった。林道に上がれば頭上が開けた大きな空間に出て、あたりの様子もさらによく分かった。月も星もない空からは冷気が降りてくる。なにか虚を突くような静まりかえった林道は車の轍の跡をうっすら白く見せていて、なだらかに曲線を描きながら下っていく。
 いくつかの張り出した支尾根を巻ながら下ってきた。林道の左手の平地の奥、大木の下の真っ暗なあたりで、何かがいるような気配がした。
かすかな音か・・・なにかの気配を感じた。
(一体? ・・・何者だろうか?・・・)
歩みを止め、立ち止まった。
静かに・・・気配のした方向に三四歩も近づいてから・・・ここぞと思うあたりにヘッド・ランプを向け、スイッチを入れ照射した。
手前の、地面から五十センチほどの草丈が当てた光りに反射している。その上の奥の方の真っ暗闇のなかで・・・
「あっ! … 」
真っ暗闇の中で蛍光色の澄んだ小さな光が・・・鮮やかに反射している。
「えっ? ・・・はあっ・・・?三っつの光りやあ!・・・」
真っ暗闇の中に、三っつ・・・目玉のようなものが光っている。
「はあっ! ・・・これは一体!・・・何者だ! ・・・」
瞬きして目を凝らす。
「・・・?・・・!?」
「三っつ目やっ!・・・」
「・・・!―・・・?!」
それが三つの目玉だと確認して、心臓が「ドッキン!」と、ひとつ波打った。
「・・・? ・・・?」
しばらくそのまま照射していると、二つ横に並んだ目玉の、その右下にある三つ目の目玉が左に動いて、もうひとつ目玉が現れた。
「びっくりするやないかあっ! ・・・もうっ!・・・」
やっと安堵した。それが何者なのか、理解できたのであった。
二頭の野鹿であった。
照射したとき、木の幹か葉っぱの蔭で片方の目玉が隠れていたのが、しばらくして野鹿が顔を動かしたために、全部で四つの目王が現れたのであった。ライトが当たったのは野鹿の首から上の部分だけで胴体などは手前の草丈に遮られて見えなかったのである。二頭連れの鹿が餌を喰んでいたのだが、私が通りかかったので、頭を挙げて私の方を二頭で注視していたのであった。
「おうっ! ・・・君らか!・・・一瞬はドキッとしたでえっ・・・よし!よし!」
大きく息をして、気を取り直して歩きだした。二頭の野鹿は逃げ出すこともなく、餌を喰んでいるようであった。
 「考えてもみろよ! ・・・この世に三っつ目王の生き物なんて・・・いるわけがないやろう?・・・三つ目の生き物がいたら、それこそ魑魅魍魎やあ!・・・化け物の類いやあ!・・・」
林道を歩きながら、ひとりでぼやいた。
確かにそうではある。大型の野生動物は皆が皆、二つ目である。
「・・・それに小型の野生動物も・・・鳥類も・・・魚類も両生類も・・・小さな昆虫類だって・・・皆が皆、二つ目ではないか! 一つ目や三つ目という目王をもつ生き物はこの世にはいないから!」
「もし居たとしたら?・・・一つ目で一本足はタタラか?・・・三つ目は・・・それは大昔から、妖怪変化かものの怪やあ・・・百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)の化け物の世界やぁ・・・さもなくば、それこそ魑魅魍魎の類いやあ・・・」
自分に言い聞かせながら車まで戻った。


 暗闇からの声


 初夏の頃、深い山中での孤泊で、野宿をしているときに夜半にふっと目が覚めて、(あれは一体! ・・・何の声なんだろう? ・・・)
「ヒイーッ・・・・・トーッ・・・・・」
「ヒイーッ・・・・・トーッ・・・・・」
弱々しく静かに、間合いのある澄んだ声で、悲しい泣き声のように聞こえてくる。
「ヒイーッ・・・・・トーッ・・・・・」
「ヒイーッ・・・・・トーッ・・・・・」
目覚めた真っ暗闇の天幕の中で、その声に聴き耳を立てていると・・・気持ちが沈んできて・・・その奇怪な声は、私を深刻な孤独感に苛んでくる。
「トーッ」と「ヒイーッ」は少し離れたところから出ているようにも聴こえる。
「トーッ」が先なのか「ヒイーッ」が先なのかは解らない。
相手に呼応して声を出しているのか、それとも声の出所はひとつなのか。
細々とした悲痛な叫び声のようでもあり・・・、弱々しく忍び泣く悲しい泣き声のようでもある。天幕の上の木の技から、木の葉一枚舞落ちてきても、その音が聴き取れるほどの風もない静寂な夜である。
その声は乱れることもなく、静かに続く・・・その異様な声の寂しさには驚いた。

 この声の主は、ヒタキ科の野鳥でトラツグミといい、昔は「ぬえ(鵺)」と呼ばれていた。昔から、夜に啼くので凶鳥とされていて、凶兆に繋がるためか、その鳴き声は不吉なことの起こる前触れではないかと・・・いやがられていたという。
 ぬえは『平家物語』や『太平記』の世界では、存在そのものが怪物扱いで不吉な妖鳥とみなされ、その鳴き声を大層恐ろしいものと聴いたという。
 また、『山家集』には、
   さらぬだに 世のはかなさを 思う身に
   ぬえなきわたる あけぼののそら
と、歌われている。
そうでなくてさえ世の中のはかなさを身に染みて思うのに、そのうえに、ぬえに嘆き悲しんで鳴かれては・・・と、世のはかなさを嘆いているうえに、さらに不安や不吉をかきたてられては・・・と、ぬえの鳴き声に相応しい扱いであった。

 ぬえが鳴くのとほぼ同じ時季に
「ジュウイチッ・・・ジュウイチッ・・・ジュウイチッ・・・ジユウイチッ・・・」
と、昼間も夜間も一日中、鳴き通す野鳥がいます。昼間のほうが鳴き声が途切れることがあるように思われるのですが、静かな夜間に元気よく鳴き続けられては困惑の極みです。
「ジュ」と「チッ」に強いアクセントで、「ジュウイチッ・・・ジュウイチッ・・・」と、二拍子で鳴き続ける。
渓谷の河原で野宿していて寝床につくと、谷間を挟んだ両方の高い峰の木に止まって、こちらの峰から「ジュウイチッ」と鳴けば向こうの峰から「ジュウイチッ」と必ず応えて鳴く。片方が鳴けば必ず相手が几帳面に鳴き返す。際限の無い鳴き合いを一晩中やってくれます。そのしつこさにはほとほと閉口させられます。安眠妨害もひどいもので対策のできない彼らの鳴きにはほとほと降参で、翌日の山女魚釣りは寝不足から集中力を欠いて釣りにならなかったことがあります。
 四六時中鳴いていたのでは、一体いつの間に餌を採ったり、睡眠をとったりしているのだろうか。不思議で不可解な野鳥です。ものの本によると、この野鳥は他の野鳥に託卵して育児も委託してしまうと書いてある。そんな有閑鳥に野宿の一夜を夜通しにつきあわされたら耐えられません。この夏鳥はホトトギス科で野鳩よりも大きくて、繁殖期には夜間も鳴く、「ジュウイチ」という名の野鳥だと言います。鳴き声を聞きなしのままに鳥の名前にされている「十一」君には野宿の一夜を、徹夜でのお付き合いは遠慮させていただきたいものです。


 奈良県十津川村大字滝川の集落から、滝川沿いの村道を遡ると有名な笹の滝の手前で、左岸側から栃小屋谷が合流するところに小さな広場がある。アメノウオ(十津川村ではアマゴのことをアメまたはアメノウオと呼ぶ)釣りにきて野宿をしていたときのことである。夕食の後片付けも終わって静かに椅子に座って、灯火を用いずに暗黒の深い渓谷の風情を楽しんでいた。足下の切り立った渓谷の岩を噛む水音は両岸の垂直に立つ岩壁に反響して、時には強弱をつけて心地よく聴かせてくれる。見上げる狭い空からは冷気が降りてきて、月はまだだが星の輝きが大きく美しい。
 そこへ、何の前触れもなく、空から固まりのようなものが落ちてきた。私からほんの五メートルと離れてはいない。
「ギョッ・・ギョギョッ・・・キョッキョキヨッ・・・キョキョギョッ・・・」
空から落ちて来たモノは奇妙な声で鳴き出した。
ョタカ(夜鷹)であった。
二本の足はあるのだが着地のしかたは何とも無様な鳥である。そのうちに、私が居ることに気づいたのであろう。急に鳴き止んで、飛び去って行った。
突然に、暗闇の中から何の前触れもなく羽音もなく空からモノが落ちてきたとしか表現のしようがない着地であり、着地したあとも二本の足は使っていないのか、へたりこんだままで鳴き出したのであった。
 トラツグミやジュウイチ、ヨタカのように夜間に暗闇のなかで活動するこれらの野鳥類は、どうしてこうも奇妙奇異な鳴き声の主ばかりなのだろうか。ここでは取り上げなかったが夜間も活動するゴイサギやミミズク・フクロウの類なども同様で、奇妙奇異な声の主が解ってしまえば異様さは感じても怪異なるものの範疇からは除外されることは当然なことです。
 しかし、その正体がわかるまでの私にとって初体験の過程では、山中深く一人寝の夜の体験ですから恐怖感は持たなかったものの、やはり奇妙奇異な怪異なものとして聴き、その異様さに怪しみを抱いたり、困惑させられたモノたちだったのです。


 また、夜間の暗闇のなかで活動するのではなく、昼間に活動する野鳥のなかで、ヤマドリ(山鳥)の飛び立ちには、いくら慣れ知っていても、一瞬に「ドキッ」と驚かされるものです。近郊の山でも静かに一人歩きを楽しんでいると、突然!いきなりに、度肝を抜かれる大音声で
「ドオッドドドッ・ドオッドドドッ・ドオッドッドッドッ・・・・・・・」
大きな羽音を立てて、足元から飛び立ちます。
ヤマドリは人間が近づいてくることを承知していても、察知すれば早めに対処し逃げることは決してしない習性をもっています。身に危険が迫っていてもとことん潜んでいてやり過ごそうとするのだろうが・・・それがいよいよ叶わないと分かってから・・・とどのつまりの人間の足元から、突然に何事が起こったかとその場を仰天びっくりの修羅場に陥れて・・・大音声の羽音を立てて飛び立ちます。
突然に大音声を出して、無警戒で接近してきた相手の度肝を抜いて恐怖を与えているスキに自己防衛のために飛翔をするという、相手の機先を制することの優位さを知っての戦略をもっています。
 羽音の大音声はほぼ同じくらいなのですが、ヤマドリと同じキジ科のキジ(雉)は人間が接近してくることを察知すると、先ずは速足で歩いて逃げ出します。
遠ざかって距離を置いた場所からの飛び立ちをする習性から、飛び立ちの羽音の次には、「ケエーン・ケエーン」
の鳴き声と飛翔するその雄姿には、鑑賞に値する余裕を与えてくれます。


 甚之助避難小屋のこと


 92年の7月上旬に、白山山麓の渓流河川での岩魚釣りと山歩きを目的に車を走らせて来た。大阪を早朝に発ち、石川県側の砂防新道と呼ばれる白山登山の登山口になっている別当出合休憩舎についたのが昼ごろで、今日は中途半端な時刻であるから白山(標高亭2702m)には登らずに、白山山頂へのほぼ中間点にある甚之助避難小屋(標高1970m)に泊まる予定である。一泊分の食料や寝袋などの装備を背にして、ゆっくりと写真を撮りながら散策し、夕刻に山小屋に着いた。まだ、夏休み前の平日ということもあって誰一人の登山者に出合うこともなく静かな山歩きを楽しんだ。
 甚之助避難小屋はオオシラビソなどの針葉樹林の大きな森に囲まれて、重力感のある木材を使っての無人の避難小屋で、重い木の戸を引いて中に入ると土間の奥には十五人ほども泊まれる板の間が設けられていた。
小屋の前の椅子に座って、森の暮色を楽しんだ。
白いガスがオオシラビソ林のなかに流れ来て漂い、とんがった木の頂上あたりにいるのだろう野鳥がしきりに鳴いている。鳴き声はいままでに聴いたことも無い、知らない小鳥である。実に美しい気品のある鳴き声である。白い霧のようなガスはいつの間にやら小屋と森をすっぼりと包み込んでいて、ゆっくりと暗さが増してくる。美しい幻想的な小鳥たちの鳴き声の競演が夕闇のなかで静かに終わるまで椅子に座っていた。深山の醸す霊気に浸るおもいでこの地の暮色を楽しんだ。

 蝋燭の明かりのなかでただ一人の夕食を済ませた。
寝袋のなかで、今夕の、この山小屋の置かれている環境が醸しだす雰囲気が、深山の霊気をともなって厳粛さと幻想に包まれたものであることに感動し、これこそ、自分が求めている山登りの良さの骨頂であるという思いに満足して、眠りに就いた。

「ゴオロッ・・・ゴロッ・ゴロッ・・・ゴロッゴオロッ・・・ゴオロッ!」
山小屋の入り口の重い木戸が開いた。
ぐっすり眠っていたが・・・木の戸が引かれる音で目が覚めた。
(こんな真夜中に・・・誰なんだろう?・・・?・・・)
もちろん、登山者には違いないだろう!・・・
「・・・・・・・・・・・・」
重い木の戸は引かれて開いた。・・・だが誰も中には入ってはこない。
「・・・・・・・・・・・・」
小屋の入り口を注視していても全く動きがない・・・確かに入り口の重い木戸は引かれていっばいに開いている。
だが、・・・ライトの明かりも登山者の人影も現れない。なんの物音もしない。
山小屋の外は、眠っている間に雨が降っている。
「・・・・・・・・・・・・」
(一体なにを? ・・・なぜ小屋に入ることを戸惑っているのだろうか?・・・)
「・・・・・・・・・・・・」
(先客の私が寝ているので、小屋の中に入るのを・・・戸惑っているのだろうか?)
引き戸は引かれて開いたものの・・・なんの物音もしない。・・・なんの動きもない。

「・・・・・・・・・・・・」
静寂そのものである。
(おかしいな? ・・・)
(こちらから、なにか声をかけてみようか? ・・・)
と、思ったそのときであった。
「ゴオロッ・ゴロッ・・・ゴロゴロッ・・・ゴロゴロオッ!・・・」
引き戸が閉まった。ゆっくりと引き戸が引かれて、完全に閉まった。
引き戸が引かれたそのときには人の影もその気配もなかった。
(人影も見せないように・・・引き戸を閉めたのだろうか? ・・・)
「・・・・・・・・・・・・」
(おかしい!!・・・足音も、何の物音もしない!!・・・)
「・・・・・・・・・・・・」
聴き耳を立てていたが・・・立ち去る足音もしない・・・何の物音もしない・・・。
(おかしいなあ?!・・・そもそも、人やモノの気配が全く無いではないか!・・・)
そうなのだ!モノの気配が全くないのである・・・。 
腕時計を見ると三時過ぎである。
しばらくは、聞き耳を立て引き戸のあたりを注目していたが・・・立ち去る音もしないし・・・何の動きもない。
神経を集中して研ぎ澄まし、感覚器官を総動員して、そのなにか!を探ろうとしたが、雨垂れの音だけで・・・なにも察知はできない。
(不思議なことが起こるものだ・・・いや、しかし・・・確かに引き戸は開けられたし・・・それを、・・・しっかりとこの目で見たのだ!・・・その後、引き戸は閉められた・・・それもはっきりと確実に見ていたのだ!!・・・)
自分が寝ぼけているのではない。意識ははっきりしている。
重い木製の引き戸である。分厚い材が枠取りされた頑丈そのものの引き戸である。
(人間でなければ・・・重い木戸の開け締めができるわけがないではないか?・・・そんなことが勝手に・・・自然に動く筈もないし・・・)

山小屋の外は静かな雨が降っている。静寂を破るものは雨垂れの音だけである。
(全く、摩訶不思議なことがおこるものだ!・・・)
(それにしても・・・なんで? ・・・人やモノの気配がしないのか!!・・・)
事件が生起した、顛末の事実だけを忠実になぞり、見聞きした事実の範囲だけをもとに考えてみた・・・事実の顛末は簡単なことである。・・・避難小屋で深夜に木戸が引かれて開いた・・・そして、しばらくして引き戸は閉められた。・・・それだけである。
 一体に、誰が、何者が、なぜ、なんのために、そんな行為を行ったのか・・・その、なぞが解けない。
 背筋に悪寒を覚え、寝袋を頭からすっぽりとかぶり・・・鼻孔だけを寝袋の外に出して暗闇をみつめる視野を塞いで、瞼を閉じた。
事の顛末の事実だけを考え・・・余分な想定は無視して・・・考えないようにして・・・
再び眠りについた。


 翌朝、明るくなるのを待って、一番に山小屋の外に出て調べてみた。
雨は止んでいたが山小屋の前を通る登山道の表土は雨水をたっぶり含んで柔らかくなっている。所どころに水溜まりもできている。
「おかしいではないか!?・・・足跡がない!・・・」
「なんで!? ・・・足跡がないんだろう?・・・」
登山道も山小屋の回りも、徹底的に調べ歩いたが足跡がない。人の足跡もなければ獣の足跡もない。足跡も残さないで歩くことなど、全く不可能である。
重い木戸が引かれる音で目が覚めた今朝の三時過ぎには、既に雨は降っていたのであるから登山者や獣たちが通ったのであれば必ず足跡や痕跡は残るはずである。しかも、重い木戸を引いて一旦は山小屋の中に入いろうとしたのである・・・そのモノの痕跡や足跡は残る筈である。
意地になって、登山道を調べ歩いたが・・・重い木戸を開け閉めしたモノの痕跡はどこにも見つけることができなかった。

「それでは・・・山小屋の重い木戸を引いて開け放ち・・・その後、引き閉めたのは・・・・・・・・・一体!!・・・ナニモノの仕業であったのか?! ・・・・・・」
いまだに、謎のままである。


 狐につままれる


 渓流釣りでは渓谷を釣りながら遡行していくのが一般的です。渓谷に沿うように林道が敷設されているところでは、早朝から林道脇の余地に車を止めて、谷に降りて釣り始め、無我の境地に渓流魚と対峙して熱中し、やがて空腹と疲れを覚えて我に返り、持ってきた弁当をつかい、暖かい時期なら二時間ほども食後の休息や昼寝をして英気を養い、さらに釣りながら渓流を遡行して行くという行動になります。
 過去に一度でも釣行したことのある渓流の区間であれば、帰り道にはどの地点から上部にある林道を目指して仙道を、それがないところではここぞと思う山斜面を這いのほればいいのが分かっているので、問題はなく林道にたどり着けるわけです。
 ところが、はじめて釣りに入る渓谷では、納竿して、さて・・・帰り道は歩きにくい渓谷を戻ることをなるべく避けて・・・林道がある側の山斜面に取り付くことになります。数キロもの距離を歩きやすい林道を歩いて下るほうがいいからです。その近くの山斜面に運よく杣道やけもの道などの踏み後が見つかればそれを辿ればいいのですが、いつもそううまく見つかるという保証はありません。
 渓谷と林道の間に距離があり、その間の高度差が著しい場所ほど脱出には困難が伴うものです。それは林道の敷設時に傾斜が緩くて施工し易い、林道の維持管理上も安全で経費も節約できるルートを選定するためです。渓谷沿いのルートには断崖絶壁や急斜面で適地がなければ、当然に渓谷からはるか遠くに見上げなければならないような場所に敷設されることになります。渓谷と林道の間に落差と距離があるということは、長年の経験則から言っても、それなりのこのような根拠があるというのが法則です。
 また、けものみちを辿るといっても、辿れるけものみちと辿れないけものみちがあるので、けものみちをつけている獣は何かを見極める必要があります。見極めるには、彼らの足跡だけでの判定では慣れなければ見極めが困難なときもあります。落とし物の糞があれば一目瞭然です。猪は牛に近いものの小型で、鹿と羚羊はうさぎの糞のようなどんぐり型で、あたりに散らばって落ちていれば鹿、一カ所にかたまって落ちていれば羚羊ということになります。それに、急斜面に突き当たったときに直滑降的(直登攀)につけているのが猪と羚羊で、斜滑降的に長い斜面であればジグザグと折り返しでつけているのが鹿ということになります。従って、辿っていいのは鹿道であり、猪道や羚羊道は危険が件い、途中で引き返さざるを得ないことになり人間には無理です。

 さて、初めての渓谷で、釣りを終えて、杣道や鹿道などのないときの林道への脱出です。林道がある側の山斜面に取り付くにしても断崖絶壁や急斜面などは当然に避けて、樹木の生い茂るできるだけ緩い斜面を求めて登り始めることになります。
そのまま脱出できればいいのですが、時にはその樹木の生い茂る斜面の上に想像もしなかった断崖絶壁や急斜面が現れて進行を妨げられたり、折角に林道直下にまで苦労して登って来たのに何十メートルも続く垂直の林道のコンクリート壅壁に阻まれ、しかもトラバースもままならず、結局は元の登り始の位置に引き返すことになったり、ということもあります。そこで、渓谷をくだりながら別の脱出ルートを探すことになる。
二三度も脱出ルートの探索で失敗すれば疲労も相当なものとなり、あきらめて、それならば朝の入渓地点まで渓谷をくだり、数キロも距離はあるものの戻ればいいやということになる。ところが、そこにも問題が待ち受けている。
 確かに、朝の入渓地点まで戻ってきたと思うのだが、このあたりにその辿ったあとがあると思うのだがわからない。もっとも、今朝の、杣道を辿って渓谷に降り立ったとは言うもののほんの踏み跡程度のもので、注意深く観察してやっとそれらしいという程度のものてあり、急な岩斜面を避けての隘路であった。
今朝、渓谷に降りてきたときは、早く竿を出したい、早く釣りたいの一心であたりの景色を良く観察し記憶していなかった。早朝に山斜面を下ってきて渓谷の河原に降り立ったときの景色と、夕刻に渓谷の河原側から木々の生い茂る山斜面を見上げるのではまるで違う景色なのです。今朝に、木々の生い茂る山斜面から河原に降り立ったときに、振り返り、河原側からの自分が抜け出た地点の様子や周囲の状況を克明に記憶しておく必要があったわけです。特徴のない見分けのつかない場所であれば、二三の石ころを目立つ場所に積み上げて置くなどと、なんらかの目印を残して置くことも有効な手段であったはずなのですが、それも怠っていた。
 明るいうちは冷静に落ち着いて、朝の自分の行動を思い起こしてみようと努める。ここでリュックを降ろして釣り仕掛けを取り出したとか、竿を握っての第一投目はこの瀬のこの場所であったとか・・・今朝のこのあたりでの自分の行動の何かを思い出せば、そこを根拠にして・・・《そのとき、うっかり、ぼんやりしていなければ》・・・記境を冷静に溯れば、次々と思い起こすことができるわけです。

 日暮れが迫ってきて、疲労困憊のなか冷静沈着にことが運ばれればいいわけですが、・・・だんだん暗くなってくるなか気持ちが焦って・・・暗闇のなかではヘッド・ランプなどの用意があったとしても、冷静に対処できたとしてもかなりの困難がともなうことになります。
 人間は往々にして、あまりひとつのことに夢中になりすぎて意識を集中すると、その場のほかの肝心なことに気が回らなくて、見落とし、普段ならきちんと記憶しているはずのことが・・・ぼんやりしていた。記憶がない・・・うっかりしていた。記憶が飛んでいる・・・ということが起こり得るわけです。
疲労困憊の状態では記憶を冷静に呼び返す気力も萎えてくる。
林道へ脱出する杣道の在り処を思い出せればいいのですが、思い出せなければ気が焦ってきて・・・思い出せなければそこらあたりを片端から探せばいいや・・・と、ついにはバニック状態の寸前の行動に移る。
そのときは気が動転していて、自分を見失っていた。
陽は暮れて暗くなるは・・・杣道は見つからないは・・・疲労困憊で・・・気持ちばかりが焦ってしまって・・・。
あとから冷静に考えれば、どうしてもっと慎重に行動をしなかったのか・・・と、多少の反省と後悔はする。
 自分自身の行動に対して軽率と不甲斐の無さ、不注意に苛立つが・・・それにしてもそのときは、事の成り行きがどうも悪い方へ悪い方へ運び、追い込まれてしまって、なにかあやつられ導かれていたようで・・・しかも、最後には記憶の不確かなところで杣道を探すことになってしまって・・・まるで狐につままれたようなものだった・・・と。
 帰宅が遅くなってしまって、家人への言い訳を・・・正直に語るのも不甲斐ない、情けないことだし・・・そうだいっそ、狐につままれたことにしたら・・・。
そうだ、狐につままれたことにすると・・・自分自身の不甲斐の無さや不注意は話さなくて済むし・・・自分自身にとって、これは都合がよいぞ!・・・。ということで、自分の不注意をそっくり棚にあげておいて・・・ついには狐につままれたことにしてしまう。

 昔から狐につままれた話は、個人の一身上の出来事で、うっかりしていた・失敗した・無様な不始末をしでかした・不行跡などを取り繕ろうとして目論んでのことであろう。
そのしでかした行為の原因を自己の責任に求めず、他のものに転嫁する意図をもってのこで、そこに世俗に言う”狐狸の通力”を持ち出してきて、恰好な口実を与えてくれるものとして、多分に都合よく使われてきたのであろう。人間の身勝手さが、多分にそう、言わしめてきたものだろう、と、私は思うのです。


 虫の知らせ


 2003年の渓流釣りは、奈良県天川村漁業協同組合の管轄する天の川(てんのかわ)や川迫川(こうせいがわ)、山上川(さんじょうがわ)の本流や支流を・・・熊野川水系十津川の上流域、すなわち熊野川水系の源流域・・・集中して釣る予定で遊漁証も年鑑札を受けた。
村の名前も川の名前も能野川水系の最源流域に位置するにふさわしく、はるか太平洋の熊野灘の河口からは、まさしく天の川や山上の川から流れ下ってくる水なのである。
 国中(くんなか・奈良盆地内の地域をいう)では爛漫の春を迎えている、四月八日から十日まての二泊三日の釣り三昧の予定で、あまごと岩魚を求めて天川村にやってきた。
 ここ数日の天候は、寒暖晴雨の短い周期で目まぐるしく変化する春特有の気候で推移している。熊野川も天川村あたりまで溯れば標高も高くなり、豪壮な山地渓谷の様相を呈していて、そこに遅い春が訪れてきたという渓谷の流水がざわめき、峻険な山斜面の木々も萌えの兆しが見てとれる。
 この地は、山岳信仰を原点とする修験道の、霊や神々が蟠踞する大峰山(山上ケ岳・標高1719m)を中心とした霊域で、弥山(みせん)や八経ケ岳(標高1915m)などの近畿地方での最高峰の山岳を従えた大峰山脈の核心部を構成している地域である。その峰々に降り積もった、雪解けの水も加わって、この時期は水量豊かに渓谷を潤して、あまごや岩魚を育んでいる。国中の染井吉野が開花してから二週間ほども遅れて咲く、ここらの山里は標高の高さゆえの寒冷地でもある。
 以下については手元にある釣り日記により、そのときの顛末を書いていきます。

 四月八日の早朝に激しく雨の降るなか天川村川合の地に車を走らせてきた。
この川合の地は、国道309号線が大阪府から奈良県下に入り、御所市・下市町・黒滝村を経てきての天川村の玄関口である。渓流釣りの場合もこの川合の地で、三方向に分れていて天の川を釣るのであれば右折で下流方面へ、川迫川を釣るのであればこのまま国道を、山上川を釣るのであれば左分岐をとる選択を迫られる地でもある。
川迫川を釣る予定なので国道をそのまま走り、ミタライ渓谷と呼ばれる川迫川と山上川の合流する地点までくると、どちらの川も一昨日の大雨と今朝からの雨のため大増水であった。川迫川はそのうえ濁水が入っていて、これでは釣りにならない状況で、ー方の山上川には濁りがない。方針変更で山上川を釣ることにした。
 山上川の釣りは、修験道の聖地大峰山への"山上まいり"の基地である洞川(どろがわ)の旅館街を通りすぎた、その上流から竿を出した。短時間の釣りではあったが魚影はそこそこで、良型のあまごと岩魚だけを戴いた。寒い雨は降り止まず、身体も冷えきったので洞川温泉につかり、昼過ぎには観音峰休憩舎(登山者や遊客用の村立施設)に避難した。

 翌九日は曇ってはいるが長い雨が止んだ。観音峰休憩舎下の山上川に降り、今日の釣り餌の川虫(水生昆虫:カワゲラ科の幼虫)を採捕した。当初の目的の川である川迫川の奥の神童子谷(じんどうじ)へと車を走らせた。大増水の水況であったが濁りは収まっていて、渓流魚も活発に餌を喰わえて走る。短時間での大満足の釣果であった。
早々に釣り餌の川虫を使い切ってしまった。
川虫の採捕をしたが採れない。川の流れの下流側に手網を受けておいてウエーダーの靴底で川底の石をころがして川虫を受ける方法である。大増水のためどうしても捕れない。普段の水況ならいくらでも捕れる場所には、深くなっていて近づけないのである。しかし、大増水時は川虫だって浅い場所へ避難の移動をするのが常であるし、膝ぐらいの水深でも小石底であれば捕れるはずである。
 一体川虫はどこへ隠れたのだろうか。不思議である。
 川虫餌が手に入らなければ魚釣りにはならない。時間もまだ朝の十時前である。ここらで捕れなければ下流部は水位がもっと高くて、さらに困難だろう。
しかたがない、身体も冷えきったことだし天の川温泉(天川村大字坪内)に浸かって暖まることにした。技谷の坪内谷に入って川虫を捕ってから、ここに戻ってくることにした。
どうせ今夜は神童子谷の狼横手と呼ばれるあたりの林道脇の広場で野宿をする予定である。午後の一時頃に戻って来た。枝谷の坪内谷での川虫の採捕は、わずかであった。不足分を補うために、川虫がいそうな場所があると採捕しながら釣りのぼった。
だが、川虫はただの一匹も捕れない。
川虫は一体、どこへ雲隠れしたのだろうか?
 三時半ごろから激しい雨が降りだした。急いで川をあがり車に避難をした。冷たい雨は激しく降り続け止みそうにない。もう、このうえの雨にはうんざりである。
 車のなかでしばらく様子をみたが、叩きつける雨は益々激しくなる一方である。この降り方は尋常ではない。渓谷は一気に濁流となって水嵩を上げ、叩きつけるように降る豪雨に視界もほとんど効かない。ここでは危ない!・・・身の危険を感じた。
この豪雨では万が一のことを考えて・・・山を降りることにした。今夜も山上川河畔の高台にある観音峰休憩舎で避難の野宿をすることにした。


 翌日の十日は晴れた。雲の動きは早いが久しぶりの青空である。
山上川で、一日にたっぷりと使える量の川虫を採捕した。
逸る気持ちをおさえて川迫川の上流をめざした。
川迫川が神童子谷と布引谷に川名が変わる合流点(大川口・おおこぐち)あたりに駐車して、国道に沿うほうの布引谷を釣る予定で、車を走らせた。昨日は冷たい豪雨が降ったが弥山や稲村ケ岳などは真っ白に冠雪して朝の光りのなかに輝いている。
国道は布引谷の左岸を走り、上北山村へと抜けて行く山岳道路であるが、その大川口橋を渡ったところから先は四月十五日までは冬季通行止めとなっている。渓流釣師の習性として道路が通行止めであるということは、その奥の布引谷や小坪谷は入渓が容易ではなく脚力勝負の桃源郷であろうと、考えるのは至極当然のことである。
 今日は布引谷の奥まで入ろう・・・大川口の手前まで走ってきた。
ゆるいカーブを曲がり切ったとき、突然に目の前の道路がない!
道路の上を巨大な山壁が・・・視界を完全に塞いでいるではないか!
急ブレーキを踏んで衝突はすんでのことで避けることができた。
左手側の急峻な山斜面が大崩落の山抜けをして、その岩石や山土はうづ高く道路の上を覆い、さらにその上を乗っ越した土石流は右手の川迫川の広い河原を埋め、水際までにも達している。膨大な山土や岩石の量である。
 昨夕はこの奥の神童子谷で野宿するつもりであったが、激しい豪雨に見舞われて身の危険を感じて避難することにし、引き揚げるときには大崩落の山抜けはしていなかったのであるから、それからのちの今朝七時までの間の出来事である。

 「助かった!!!・・・・避難していて良かった!・・・」
もし、昨夕・・・この奥の神童子谷の狼横手での野宿をあきらめて観音峰休憩舎に避難していなければ・・・この奥に車ごと閉じ込められていたのである。帰る道は大崩落の山土石で塞がれ、神童子谷林道は行き止まりで、国道の上北山村方面は冬季通行止めである。
完全にこの山奥で車ごと閉じ込められて・・・まさに袋の中の鼠ではないか。車を置いて脱出するにしても、川合の地まで二時間半はたっぷりかかる道のりである。
 「助かった!!・・・良かった!!・・・」
まさに、それが実感であった。
この壁のように車の前面に立ち塞がる膨大な山土石をみつめながら・・・安堵した。

 それにしてもである、昨夕の土砂降りの豪雨で身の危険を感じて、安全策を執ったのが難を逃れた直接の要因ではあるが・・・ここ川迫川では、川虫餌がどうしても捕れなかった。昨日はなぜか川虫が雲隠れしていて・・・何度も採捕を試みたがどうしても捕れなかったことが・・・私に躊躇することなく避難の判断をさせたことの強力な後押しとなって・・・川虫が大きな間接的な要因であったのだ。
「そうだ!!・・・これがまさに!!虫の知らせ!・・・というものだ!」
川虫類もここ数日の異常な豪雨で、出水や水況の異常な変化に機敏に反応するものがあって、安全な場所に雲隠れの避難をしていたのだろう。ひょっとしたら、この地で大崩落の山抜けなどの天変地異が起こることを予知していての行動だった・・・のだろうか?
それが・・・私にも・・・避難をさせてくれたのだ。
 川虫が知らせてくれたのだった。

 翌日の、朝日新聞の朝刊の奈良県版には、国道309号線が天川村北角地先で土砂崩れ発生による通行止めとなり、復旧工事には約一カ月を要するものと見込まれている旨が、報じられた。
その後の復旧工事は約三カ月を要し、七月十八日になって、やっと国道は開通した。


 尻斑


 地名に「迫」という字が用いられているところがある。
その土地の地形が特有の形状をしているところを拠り所として、地名として名付けられたものであろう。
「迫」の字の音は「ハク」であるが、訓は「せま(る)」と訓むのが一般的である。
「迫」の字が地形を表現する場合の意味としては「(間が)せまる・ちかづく・せばまる」の意味合いを持ち、山尾根の間の谷あいの地をさしていて、山のへっこみの小さい谷あいのような土地をいうのであろう。谷といえば両側の尾根のせまる境界を表現しているが「迫」という場合は、単なる谷ではなく両側の尾根が空間的に間(ま)がせまっていてぴったりと尾根と尾根がつながったような、その間のへこんだ広がりのある土地を意味しているのだという。
「さこ・せこ・せい」とも訓まれることもある。

 奈良県十津川村大字旭小字迫の地は、小字名「迫」の場合は「せ一」と呼称されていたらしいのである。
迫が「せー」と呼称されていたらしい、というのは、小字迫(せー)と呼ばれた集落はかつては五戸で構成されていたが、今はダム湖底に消えて存在しないからである。
十津川村に国道が開かれる以前の、小字迫の地は「迫(せ—)と背中は見ずに死ぬ」と言われていて紀伊山地の秘境の村、十津川村の人々でさえ迫の集落は生涯に一度も訪れることもない秘境のなかの秘境の地であったという。

[参考:『林宏 十津川郷採訪録』民俗二 十津川村教育委員会]
引用が少し長くなるが、そのあたりの事情を的確に説明している、今から三十数年前の朝日新聞の記事から一部を抜粋してみると、

~ [奈良県十津川村を訪ねて」~

十津川村は、日本の秘境といわれ、民俗資料の宝庫と注目されていた。・・・略・・・十津川村は、紀伊半島の中央山地にある全国でも屈指の大村だ。奈良県の六分の一を占め、琵琶湖をしのぐ面積に人口一万人足らず。98%までが山林で耕地は1%弱しかない。奈良市を出た特急バスは四時間かかってやっと村の中心部にたどりつく。同村の北端を東から西に流れて十津川に合流する旭川。その上流に52年完成を目指し、発電用ダム建設が進められている。旭地区のうち迫集落が湖底に消え、下流の中谷、栂の本の計二十余戸の生活環境も大きく変化を受けることになった。

[昭和四十九年五月二十二日付朝日新聞]


 日本一広大な村域をもつ十津川村の、ほぼ中央部を北から南に流れる熊野川水系十津川本流に沿って国道168号線(昭和三十四年全通)が走り、国道の旭口(同村の北端・大字旭)から旭ノ川治いの村道を東に八キロほども溯れば、旭発電用ダム湖畔に奥吉野発電所施設と公園や駐車場などが設けられている。その地区が小字迫である。
発電所の諸施設や巨大な高圧線の鉄塔などが林立していて、奥深い山中に忽然とその姿を現し、訪れた者の目を奪う、現代社会の異郷なのである。
 その立地条件を観察すると、ダム湖面を正面にすると背後の高い山からの二つの尾根が扇子を開いたように両翼に開いて、高度を下げてきて湖面に突き出し、その間のいくぶん低くなった扇型の平坦地・・・即ち、この地の特徴は迫の地形そのものであることが見て取れる・・・が、かつての小字迫の集落の跡地であったのだろう。
 この地に立ってみて、先の新聞記事や『十津川郷採訪録』に書かれている「迫集落が湖底に消え・・・」と記述されているものの・・・ダム湖底に消えたと伝えられる五戸の集落の家屋敷や田畑の跡地は、この発電所施設と公園が設けられているあたりが集落の中心地であったのではなかったのだろうか・・・と、書かれている内容に強い疑念を抱くのであった。その理由は、このあたりはどこを見ても急峻な山岳地ばかりであり、この地を除いては人間の生活が成り立つような土地が皆無であるからである。
 そのほんの一部の土地が湖底や湖岸に消えたと仮定しても、この迫の平坦地が発電用ダム建設に伴う発電所諸施設の用地として好適地であり、迫集落の立ち退きを強いられたというのが本当のところではないのだろうか。減水でダム湖面が下がったときに見られる急斜面が連続する湖底を見ると、かつては家屋敷のほかに田畑が六町歩もあったという記録が残っているのであるから、とてもじゃないがこの迫の地以外では立地が全く無く考えられないのである。

 一方、『十津川郷採訪録』にはダム建設以前の田畑や家屋敷の様子が地形図のうえに描かれて残されている。それによると、ダム湖底に水没した土地は集落から遠く離れた河岸の狭い畑地であったことが記録されている。「ダム湖底に消えた集落」といっても、そのほんの一部の土地が湖底や湖岸に消えたのであって集落の本体部分の家屋敷と田畑は現在の湖岸よりも上部の迫の地に立地していたのである。皮肉にも自らの認めた書面上で、その嘘を証拠立てしているのである。
このことを、人間の履物に譬えて言えば、靴底の一部が路面の水たまりを踏んだとしても靴(すなわち集落)は水没したとは・・・誰も言わないのは自明の理である。
 どうも、ダムを建設する側も、それを報道する側も、行政当局も「ダム湖底に消える集落」という安易な口実を駆使して、惻隠の情をもてあそび・・・等々に括られて、ことの本質を糊塗し、当時の電力需要の逼迫の前に嘘も方便とし・・・そのことの顛末は・・・決着をみたのではないのだろうか。
 これは、この紀伊山地の山深い秘境の地、民俗資料の宝庫と持ち上げられた小字迫の集落は山河の怪異ならぬ、現代の人間社会における「怪」異なる現象に遭遇して、父祖伝来の墳墓の地を奪い取られ、小字迫の集落と山里の暮らしは葬り去られたのであろう。
ことの事実を事実として見ない、書かない、伝えない現代社会の権力側の論理の「怪異」さにも、私は驚きをもつのである。

 前置きが長くなったが、この小字迫の地から約一キロほども村道をのぼったところに、私が好んで野宿する場所がある。
村道は奥吉野発電所を過ぎたところから急に勾配を上げいき、旭ダムの左岸側の峻険な山斜面に抱きつくように取り付けられ登りついたところが支尾根の乗っこしで、そこから先は別世界のような小さな窪地が現れる。杉の大木が点在するゆるやかで鍋底のような道を辿れば、次ぎの右手からの支尾根の末端と左手の小さは独立峰(標高601m)の山裾の間の切り通しを抜けていくことになり、この村道は遠く釈迦ケ岳(標高1799m)への登山口に至る。
この地も規模は小さいがまさに迫と言われるような地形をしているところである。
 その切り通しの村道の脇に広場がある。切り通しの小さな広場に立てば、足下には垂直に落ち込んで、奈落の底の百メートルほど下の空間には蛇行して流れる旭ノ川の渓谷と杣道の吊り橋が小さく見える。対岸の山々は急峻な峰や尾根を次々に上に積み上げて突き上げて海坊主のような形で天空に迫り、水墨画の世界を彷彿とさせる雄大な山岳の展望は見事である。
 あしたには沸き立つ彩雲のなかに遅い朝の陽光が高い位置から山の端の影を見せ、タベには西日をまともに浴びた山々は峻険さを際立てて、棚引く赤い夕雲を山影のなかに仕舞い込んで行く。
 この場所からの展望が特に気に入っていて、旭ノ川での渓流釣りや釈迦ケ岳あたりでの秋の山歩きの野宿には決まってここに来る。朝餉夕餉にはたっぷりと時間をかけて、それを楽しむのである。

 2007年の四月中旬に野宿したときは、ゆっくり時間をかけて暮色を楽しんだ夕食のあとに弱い雨が降り出したので、天幕は張らずに車中で寝ることにした。
日没の暗闇とともに眠り込んだ。渓流釣りの心地よい疲労で熟睡していて、ふと目が覚めたのは午前二時ごろのことだったと思う。
 目の直前にある車窓のガラス越しの向こうに、暗闇の中に白いモノが浮かび、ゆっくりと揺れ動いている。
「あっ!消えた!」
眼鏡を手探りで取り寄せて、白いモノが消え失せたあたりの暗闇を注視した。
杉の大木か空を覆う暗闇のなかではあるが、そのあたりは一段と暗さが勝っていて何も見えない。
「何だったのだろうか!?」
しばらく見つめていると、その一段と暗さが勝っているあたりのものがゆっくりと大きくなってくるようにも感じられる。
「あっ!・・・!」
白いモノが突然に現れた。
車密からほんの三四メートルの距離である。地面から五十センチほどのところに楕円の白いモノが浮かんでいるように見える。
その白いモノはゆっくりと揺れながら小さくなっていく。
「あっ!消えた!!」
私の目もだんだんに夜目が利くようになってきた。白いモノが消えたあたりに一段と暗さを増したかたまりのようなものがあることが分かった。
(一体!何ものなんや?・・・)
その黒いかたまり様のものはゆっくりと大きくなってくる。私のほうに近づいているのだろう。
(熊だろうか?・・・熊にしては少し小さいが・・・)
黒いかたまりのモノが三メートルほどのところまで近づいてきた。頭部を地面にこするように下げて、猫科の動物が獲物を狙うようなしぐさである。
(野犬だろうか?・・・野犬にしては少し大きいのではないか)
突然に!その黒いかたまりのモノが白いモノに入れ替わった。
その白いモノはゆっくりと揺れながら小さくなっていく。
「あっ!そうか!鹿やあ!・・・」
そのモノは一歳か二歳ぐらいの子鹿であった。
その白いモノは鹿の尻斑(きゅうはん=鹿の臀部にある白い斑紋)であった。
 子鹿は私の車に興味をもって抜き足差し足で近づいてくるのだが、三メートル程までも近づいたところで急に恐れをなして、踵をかえして白い尻斑を見せて引き返していき、また、近づいてくるという行動を何度も繰り返すのであった。
そのたびに白い尻斑は突然に「現れては揺らしては消える」のを繰り返すのであった。
推測では、母子連れの野鹿ではあっても、この時期は母親鹿はお産の時期であろうから、子鹿はかまってはもらえずに、ひとりで遊びにでた先の行動で、でもあったろうか。

 暗闇のなかで、なぜ?こうもはっきりと、浮かび上がるように白い尻斑が目立つのだろうか。そののち、特に尻斑に関心をもって観察してみた。
普段の無警戒の行動では尻斑は臀部に仕舞い込むょうにしていて、すぼんで目立たないのだが、いったん警戒や緊張が走ったときには尻斑を大きく開いて白い毛を一層白く目立つようにして逃避行動に移る。群れでいる鹿の皆が皆一斉に尻斑を開いて大きくし、尻斑の回りには黒い毛で縁取られたなかで真っ白の毛がぱっと開いたように鮮やかに見せて、逃げ出す後ろ姿は、回りの環境が暗ければ暗いほど、白い尻斑が際立って目立つのであった。
それに体は茶褐色系の体毛に覆われているが、この色彩は暗闇のなかでは暗色を増すように黒く見えるものでもある。
尻斑の鮮やかな白色は野鹿たちの、要警戒の注意信号や危険が切迫するときの逃避行動の目印として仲間うちの重要な通信手段として使っている。
 子鹿の何ともかわいらしい一途なこの行動には感動した。
若い鹿自身の置かれている環境のなかで、先入観のない自由さで、あらゆるものに対して示す関心や興味をもった結果、自らの対処する初体験の行為に一途に没入していて、人間社会のなかでの若者たちの常軌を外れた行動をも是認して、ダブらせて見ている自分自身に気付いて、ほっ!とするのであった。
そんな行為こそが、新しいものを生み出す好機なのであろう・・・若者の破天荒な行為こそ既存の殻を破り、芸術や文化を進展させ、社会の進歩につながるのではないのだろうか・・・という思いで見ていたのであった。


 霊と術


 もしも、たった独りで、深夜の山中に踏み込んで行かなければならないという状況に置かれたとしたら・・・その暗闇のなかでどんな怪異や恐ろしいものに遭遇するかもしれない・・という不安な、心細い気持ちになることは、だれしもが抱く観念ではないだろうか?気丈な男でも一抹のためらいはもつのではないだろうか?
 高い山や深い森の、そのものがもつ神秘性や畏怖する心は、たった独りで踏み込むとしたら明るい昼間でさえ一目も二目も置く存在である。況してや暗黒の深夜の山中に一歩を踏み出すとしたら、暗い闇への不安や恐怖心が、それらに加わって心中おだやかならざるものがある。暗闇から、我が身に襲いかかるかもしれない怪異への恐怖や、魑魅魍魎にいつ遭遇するかもしれないという不安な気持ちを募らせ抱きつつも、悲壮な覚悟を決めて行かざるを得ないから・・・と、踏み込んでいくのではないただろうか?
 しかし、冷静に考えてみると、怪異や魑魅魍魎とは一体に、何なのか?
果たして実在在するものなのだろうか?
その実体を具体的に説明し解明して、実物・実態を人目に曝して、呈示し列挙できるようなものは、何ひとつもないではないか?
だが、しかし、山河における怪異や魑魅魍魎の存在を具体的に解明し列挙できるようなものがないから、存在そのものを否定すると、果たして言い切れるものなのだろうか?
 長い歴史的過程を経て、我々の先人たちによってその存在を具体的に把握や解明がなされて白日のもとに公然化されてきたモノたちは、その結果、怪異や魑魅魍魎の世界から切り離されていて、娑婆即ち人間界に認知・確認されたモノの世界へ遷移・移行されてきたのである。もはや、それらは径異や魑魅魍魎とは呼ばれることはないのである。従って、それら以外の怪異や魑魅魍魎の世界に属するものの存在や因果関係が具体的に説明や解明できない摩訶不思議なモノ・現象・(神・心)霊的な事象などは、まだまだ未確認・未解明の範疇のものであり、それら相互の境界は漠としてはいても厳然と存在する。と言えるのではないだろうか。人間界に未だ解明や認知がなされていないモノ、実在の検証や再現性の確認などがなされていないモノ、霊的(心霊・神霊)なモノ、そのほかの怪異や魑魅魍魎の世界に入る範疇のモノなどの存在は決して否定できないのではないだろうか。
 厄介なのは、それらの怪異や魑魅魍魎の世界に入る範疇のモノへの恐れと、山岳や深い森がもつ神秘性や畏怖する心、暗闇や暗夜に対する不安や恐怖心が、この三者が区別できないで渾然一体となって、概念として我々の心性に迫ってくることであろう。ここでは、未知の怪異や魑魅魍魎たちの存在とは明確に区別をし切り離した形で考えてみても、山岳や深い森・暗闇がもつ神秘性に対して畏怖する心や不安で強迫観念を抱くことには、個人差があるものの誰しもの、自然な観念や心情であることを見てとれる。

 それらの観念の根底では、山や森、夜の暗闇に対して畏怖するという観念を多くの人々が、今日もなお、もち続けてきたのは一体どうしてなのだろうか?
これはどうも、近・現代に生きた我々の先祖の世代間だけの時間を経て構築されてきた観念であるというようなものではなく、さらに大昔からそのような概念や通念が社会的に深く根を張っていて、蓄積し醸成されてきたものを継承している側面に注目すべきなのではないのだろうか。その根拠としての一例を挙げれば、山や森、夜の暗闇は神霊や山の神の住処として崇められ、妖怪変化や魑魅魍魎が跋扈するところとして恐れられ、崇められて、
崇ることのないように儀礼と節度をもって付き合ってきたのが、山や森に対する態度や通念であったのではなかったのか。
 それは、親から子供へ、子から孫へと子々孫々、年ごとの季節季節に巡ってくる郷土の年中行事の祭礼と一体のもので、おそれあがめ、神霊を祀り山の神を慰めて山や森に対する里人の種々の行為に許しを乞い願い、豊かな恵みに感謝と誠心な気持ちを表象する行為でもあったのだろう。
また、山や森に住む妖怪変化に対しても、里人に認知や解明されないものの存在を恐れ・禁忌・畏敬などの対象として、世代から世代へと犯すことのないように語り継がれてきたものでもあろう。
 さらには現代の知識の発達や科学技術の分野で飛躍的な進展はみたものの、これらの旧来の通念や観念は根深くして盤石にしていて、いまだ覆るところまでには程遠い存在である。現代の多くの者が都市に集中して住むようになり、山岳や森とは縁遠い日常生活を営んでいるものが多いなかで、時に休日などに一部の者が山岳や森に親しむ程度では、そのような概念や観念は容易に覆されることもなく、今後も益々抱き続けて、その通念を継承されていくことになるのだろう。
 昔の人々は、多くの人々が生活の場とする里から仰ぎ見る山や森は、里人にとって生活に欠かせない水や灌漑用水・木材や燃料・山菜や薬草・鉱物や獲物などの豊かな恵みをもたらしてくれるありがたい存在であり、生活をしていくうえでどうしても立ち入る必要のあるまさに宝の山であった。人々は山や森に対してどんな思いで、どのような考えに依拠していて、山や森に入り込んで行き生活に必要な物を得ていたのだろうか。
それらを知るための、手掛かりとなるであろう書物から見てみよう。


 古代の我が国に仏教や道教がもたらされる以前の、現代から溯ること約千七百年前の古
人中国の呉の人で、思想家・哲学者の葛洪(かつこう・284年・・・363年)という
人が山に登る方法について、次のように書いています。


  登渉 山に登るには

  山には、大きな山、小さな山を問わず、神霊が宿っている。山が大きければ神も大
 きい。山が小さければ神も小さい。山に入るのに術を心得ないと、必ず害に遭う。
 病気にかかったり怪我をしたり、驚き・恐れ・不安に襲われたり。時には光や影を見
 る。時には奇妙な声を聞く。時には大木が風もないのにひとりでに折れる。時には岩
 石が原因もないのに自然に落下して人を打ち殺す。時には登山者か心迷って、狂った
 ように走り出し、谷に落ちる。時には虎・狼に遭い、毒蛇に噛まれる。だから軽々し
 く山に入ってはいけない。

 [ 『抱朴子・内篇』葛洪 著 本田済 訳注 平凡社・東洋文庫]


驚くことには、現代に生きる我々が山に対して今ももち続けている概念や通念と言ってもいいぐらいに、生き生きとして具体的な例を示して、見事に言い当てています。「虎・狼に遭い」のところを今日の日本では「熊・猪に遭い」とでも読み替えたり、「山に入るのに術を心得」のところは知識や科学技術の進展に件って、例えば地形図を使うなどの術、当時の人々が考える術とは大きく変化していても、術を心得て山に入ることは必須であることには変わりがないのです。これが、実に遥かな昔、千七百年も前の人々が山に対して抱いていた観念と現代の我々が抱いている観念とにどれほどの差があると言えるのでしょうか。
 山に登るには、山には神霊が宿っている。一方、山に登る側の人間には山に入る「術」の心得が必要である。山の「霊」の存在を認識し、山に登る「術」の心得で、「霊」には「術」で双方の折り合いをつけて山に登るというのである。術の心得で、「怪我をしたり、驚き・恐れ・不安に襲われたり」を克服できると書いている。
葛洪は、山に登る「術」の心得の各論のなかで、次のように述べている。

   山中にいる山の精は、小児のような体で一本足。足が後ろを向いている。好んで人
  に悪戯(わるさ)をしかけて来る。人が山に入って、もし夜に人が大声でしゃべる声
  を聞いたら、それはキという名の精である。この名を知っていてそう呼んでやれば、
  悪戯はしてこない。・・・略・・・またこういう山の精もいる。・・・略・・・
  これらの者を見掛けたら、その名を呼んでやること。そうすれば害を加えてくること
  はない。山中には大樹がある。中には口の利(き)ける樹もある。樹がしゃべってい
  るのではない。樹の精が・・・略・・・しゃべるのだ。その名を呼んでやれば無事に
  済む。

山中にいる山の精や樹の精に遭遇したら、その名を知っていてそれらの名を呼んでやれば悪戯はしてこないので無事に済む、という部分を紹介した。それ以外の各論は長くなるので省略した。

   大蛇・幽霊・虎・狼・狸・兎・鹿・龍・魚・蟹・亀・猿・雉・狐・猪・・・略・・
  に出会ったら、その名を呼んでやれば悪戯はしてこないので無事に済む。

と葛洪は説いている。

 山に入ったら、知っているものに出遭ったら、その名を呼んでやる。見知らぬものに遭遇しても話しかけてやる。すなわち、山に入る者の心掛けとして、山や森に棲むけものたち、山や森に蟠踞するモノたちや不可思議な霊現象などに遭遇したら、それらのものたちの棲息域や支配地域に入れて頂くのだという謙虚な態度で、それらのものたちとの友好を心掛けて、やさしく話しかけることが大事である。山に入る者の側に敵対する心が全く無くて、あらゆるものに友好的に親しく接しようという心を、声掛けや動作に、静かに穏やかに表現していけば、必ずや相手にその心は伝わる・・・すなわち、それが葛洪が説く術のひとつである。・・・ものである。そうすれば害を加えてくることはない、と説いている。
 私自身の体験を通しても、一番にいけないのは、殺気立つことである。見知らぬけものや未知の摩訶不思議な現象やモノに遭遇したら・・・その実は、自分自身が知らなかっただけのことで、すでに先人たちによって認知済みのモノがほとんどであったという経験に基づいての記述でもある・・・恐れ、びっくりし、あわてふためいて興奮し、恐怖心から荒ぶり、ついには狂気になり・・・すなわち気弱の裏返しと知識の無さに起因・・・そのように殺気立つ気が相手に伝わってしまうことが一番に不味い。・・・相手も即刻にその殺気を察知して、当然に攻撃態勢なり防御のために身構えることになる。
犬や猫、小鳥などを家で飼っていて日常的に接している人には十分に理解してもらえることである。接していて痛いほどに伝わってくるのが、その呼び掛けや声掛け、親しく接する行為に対して忠実に応えてくれることであり、その友好的な優しい心は鏡に写るように確実に相手に届いていて、信頼関係も育まれていくということであろう。犬嫌いの人が犬に出会ってびくびくしたり、犬に居丈高な振る舞いをして吠えられたり噛まれたりするのは、その接する態度や気が確実に恐怖として相手に届いているがためであり、人に慣れた家獣や家禽でさえそうなのですから、山や森に棲むけものたちへの殺気や心ない行為などは彼らの野生本能に緊切に触れるのは当然なことです。

 次にいけないのは、彼らの棲み処に近づくときの態度であり、彼らとの突然の山中での出遭いには決して怖怖(おどおど)しないことである。
そうは言っても怖いものは怖いのではある。が、山や森に棲むけものたちに早く慣れてしまい、彼らの性質や行動を知り友好関係を築く心掛けをもって、山や森の中での出会いや遭遇が心待ちするほどに楽しくなってしまうことである。
 獣類の例で言えば、鹿・羚羊・狸・穴熊・貂などのように遭遇しても極めて人間に興味を示す友好的な行動をとるものもいるが、それもお互いの領域を侵さないうえでのことになる。お互いの存在と遭遇は確認していてもさりげなく見る程度にして、立ち止まってジロジロと見つめ目と目を会わすという直接的な行動はいきなりにはしないで、平常心で今までやっていた行動を続けるなかで自然な振る舞いをするのが良い。動物も人間も目と目を会わすと眼力による霊力が働いて本能的に身構えることになる。その行為はいそがなくても良いのである。動物のなかには遭遇しても敵対心をもたないで、お互いに干渉せずに無視し無碍の境地にいるような行動を好むもののほうが多い。しかし、それも敵対しない不干渉という性質に起因するもので、ひとつの友好関係であると理解する。
 そうなるための早道は、常に単独で山や森に入り、単独で野営し、遭遇時に恐怖を与えないよう静かに行動することで、彼らとの遭遇・接触する機会を多くつくります。即ち、そういった場数を多く踏むことで彼らから学んでいくことである。そうすれば見知らぬけものたちがなくなり、あとに残るのは霊的な現象やそのほかの怪異や魑魅魍魎たちが残るだけとなる。

 このものたちはめったに遵遇するものではなくても、驚き・恐れ・不安に襲われたりする気弱な心根を見抜かれて、近づいてくる類いのものが多い・・・わたしの信念として、常々そのように思っている。・・・ため、怖怖しないで毅然としていて常に友好的な心を表に出すように心掛け、先入観や偏見に惑わされないで、清新で謙虚な心で自然やあらゆるものに親しむようにしていることで、それが彼らの出番を挫くことになり、・・・悪戯をしかけてくることはまずないであろう。
わたしもそう、思うのです。
 この、殺気立たないこと・怖怖しないことの、二つのことは葛洪が教え説く術を信念として実践するときに最も留意すべきことで、山や森のなかに入れてもらうときの謙虚な態度や心構えとして最も大切なことと考えています。




「山河に遊ぶ(その三)」最終章web版
著者:陶 山汀(上原 濶)
掲載:2020/3/30(令和2年)
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