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わたしが生きているので、あなたがたも
生きることになる(ヨハネ14:19)
タイトル

教会報「智も手も」抜粋記事 No303  ’12年5月号より
坂上 彰助祭
ようこそ春日部教会へ!!
                       N.M
 初めて坂上助祭にお目にかかったのは聖木曜日の夕刻、主の晩餐のミサの準備中でした。早速マルコ神父様より紹介していただき、二言三言お話を交わしただけでしたが、これから一年間ご一緒できる幸せを感じました。
また、昨年度に引き続き、お二人の聖職者でミサ聖祭が執り行われますことは、共同体にとってこの上ない喜びです。
司祭になられる前の大切な期間を、マルコ神父様のご指導のもと、春日部教会に来てよかったと思っていただける一年になりますよう、お祈りしています。
ミサの後には、どうぞコーヒーを!!


復活祭パーティー
 4月8日、「復活の主日」のミサが終わった後には、多数の皆さんの参加を得て、和やかに、そして賑やかに、パーティが行なわれた。遠くイタリアから送られて来た、マルコ神父のお母様お心づくしののケーキも振舞われ、大いに盛り上がった。各地区の皆さんが工夫を凝らして調えてくださった色とりどりのイースター・エッグも、例年通り配られた。

ロウソクの灯―復活節に参加して
                       S.Y
 最近の聖土曜日徹夜祭は参加する信徒の数も増え信仰の深さを感じます。
 聖土曜日徹夜祭の進行は、教会の玄関前でマルコ神父様が坂上助祭のもつ復活ロウソクに聖なる火を灯し、その炎で信徒が各々ロウソクに火を灯し、復活ロウソクを先頭に聖堂の中へと行進。聖堂の中は聖なるロウソクの炎で幻想的です。
 復活徹夜祭を体験したことのない信徒の方は来年こそ参加して下さい。当日は女性1名の洗礼式もあり素晴らしい聖土曜日でした。
 翌日の復活祭も、いつも以上に、春日部教会ならではの盛り上がりでした。聖木曜日から復活祭までマルコ神父様、坂上助祭様ご苦労さまでした。
聖霊の祝福がこの春日部教会共同体の上にありますように。神に感謝。


いろはかるた(41)
(み) 身から出た錆(江戸)
                     S.T
 わが国では1150年頃の源平時代に武家社会が確立されました。丁度NHKの大河ドラマと同じ頃ですね。武士が合戦の時に必要な武器は鎧兜(よろいかぶと)のほか刀槍、弓矢でした。特に丈夫で切れ味のよい刀が珍重されました。古くから大和(奈良県)、山城(京都府)、備前(岡山県)、相模(神奈川県)、美濃(岐阜県)は刀の中心的な生産地として知られ、有名な刀匠がおります。中でも備前は名高い名工、刀匠を輩出しました。武将や身分の高い武士達はこれ等の刀匠が鍛えた名刀を求め、それを自慢にもし大切にしました。また刀は「武士の魂」とも言われ、大事な約束事をする時には、身命に賭しても違反しない事を誓う為に、お互いの刀身を打つ金打(きんちょう)と言う儀式もありました。今の政治家諸氏にもマニフェストは国民に対しての公約として、キチンと守ってほしいものですね。
 ところが江戸時代の中期以降太平の世が続くようになると、武士道がすたれ、重くて頑丈な刀は無用の長物となり、軽くて優美な刀が好まれるようになりました。そして大商人が経済的優位に立つようになると、武士の生活はますます苦しくなるばかりで、先祖代々の刀を売却したり、手入れを怠ったりする武士が多くなりました。当然の事ながら湿気などで刀身に錆が生えて来ます。表題の意味は、「刀身からしみ出た錆の事で、武士の魂が腐敗した結果自業自得でもある、自分の犯した悪行や過失の報いで災厄や苦しみを受ける事」ですね。
 ルカ福音書16章19節以降に、金持ちとラザロの例え話が記述されていますが、私達も自分を顧みて、魂に錆が出ないように精進しなければなりませんね。従ってカトリック的には、「身から出ぬ錆愛の業」と言い換えるのも一興ですね。


こんにゃく物語(71)
〜エマオの旅人。クレオパのはなし〜
                      S.M
 よろこびの復活祭を送って間もないのに、我が家の窓外は若い緑一色!おどろく程の風景の変わり様です。
 あまりのめざましい緑に、窓辺の机の前に坐ってボーっと読書する事が多くなった。そして、ふとルカ福音書のエマオの旅人の一節がうかんで、イスラエルの地は当時どの様な風景だったのかと思ったり、日本の様に四季の移り変わりがはっきりしている地とは違っているだろうと思ったり、夕暮れの一本の道をポクポクと話しながら歩いているクレオパともう一人、2人に寄り添っていられるキリスト!『画家ルオーの3人物のいる風景』がポッカリ脳裏に浮かんだり―
 きわめて散文的な気持ちになり、まぶしいばかりの新緑の只中に憂愁が漂う昨今です。
 ―行く春や鳥啼き魚の目は泪―芭蕉
 生かされている日々、大切に生きなければと思うばかり。私も21世紀に生きているエマオの旅人の一人に!!


奄美大島のカトリック―
受難の歴史(11)

                       N.F
 この教書は更に、「一旦緩急あらば、二つと無き命をも喜び勇んで君国のために捧げる」こと、「カトリック教徒の愛国の至情を表す一助として愛国機を献上する」ことを、信者たちに促している。それに先立ち、長崎教区では3月に既に愛国機献納の取り組みが開始されていた。
 当時の教会当局がこのような方策をとったことについては、第2次大戦終結後、その戦争責任を追及する論議が教会内でもあったようだが、そのような苦しい立場に置かれたことのない現代の我々に、それを裁く資格があろうとは思えない。できるのは、そこから教訓を得ることくらいであろう。
 それはさておき、教会当局がこのような姿勢を示したにも拘らず、奄美大島の事態は一向に変らず、邦人神父を派遣する計画も進捗しなかった。同年7月に奄美の信徒たちが教皇使節に送った嘆願書に対しても、既に述べた(No.8)ように、「耐えて待て」という回答がなされただけだった。9月にはエジト・ロア鹿児島教区長が陸軍の山下奉文少将と会談する機会を得 たが、事態の改善は見られなかった。
 そのような状況の中で、1936(昭和11)年1月に日本はロンドン軍縮会議から脱退し、2月には2・26事件が発生し、3月には衆議院が「国体明徴決議」を可決して、軍部主導の全体主義国家への道が決定的となり、いよいよ第2次世界大戦へとひた走り始めた。
 3月に奄美大島では、前年6月に定年退役して予備役少将となっていた元奄美要塞司令官笠蔵次が、町議会に推戴されて名瀬町長に就任した。その彼が主導したわけではないが、6月26日夜、名瀬の聖心教会に侵入した何者かによって祭壇周りの器物が破壊された。
 その2日後の27日に在郷軍人会・青年団・国防協会の主催で開催された名瀬町の町民大会では、またしても「カトリック排撃」を決議しているが、その狙いは教会の土地・建物を手に入れることにあったらしい。
 7月14日夜には笠利村の大笠利教会が炎上し、付属施設も共に全焼した。放火だという噂があり、犯人の名さえ取り沙汰されたが、警察が動いた様子はない、という。
 11月のある日、名瀬聖心教会付属幼稚園の園庭で、奄美の各教会から集められていた数個の鐘が競売にかけられた。一番大きかったのは聖心教会、二番目に大きかったのが大笠利教会の鐘だったという。改宗届を出さずに頑張っていた青江清道という信者が、信者ではないが合理的な考えを持つ知己を表に立てての交渉で競売を中止させ、宮崎に住む親戚(妻の叔父)にまとめて買い取って貰うことに成功した。
 その後無事に保管されていたこれらの鐘のうち、聖心教会の鐘は、終戦後間もなく元に戻された。その他の鐘は全国各地の教会に転用されたが、大笠利教会の鐘は1984(昭和59)年にさいたま教区(当時は浦和教区)の浦和教会から返還された。そのことを報じた新聞記事のコピーを手にしたことが、私が本稿を草する機縁となったのである。
 ところで、教会の鐘が競売にかけられることになった背景に何があったのか。実は、鹿児島教区が奄美大島の全教会を手放すことを決めていたのである。

図書紹介 竹下節子 著
カトリック・サプリ 1

―人生を活性化する25錠―
                       N.F
 雑誌『カトリック生活』に連載されたエッセイに加筆・再構成したもの。「第一の処方箋/社会の中でキリスト教的に生きるために」、「第二の処方箋/信仰と理性の狭間で迷子にならないために」、「第三の処方箋/自分の生き方に自信がなくなったときに」、「第四の処方箋/祈れない夜のために」、「第五の処方箋/愛といのちの関係を実感したいあなたに」、という5部構成で、各5篇のエッセイで構成されている。日常的・時事的な話題から入って、現代社会にカトリック者として生きるために大いに役立つ「ささやかな(しかし極めて重要な)気づき」を示唆してくれている。
 第一部では、愛(カリタス)、ボランティア活動などが話題となっているが、焦点は、「キリスト教的生活とは他人の生活をより快適にするように努力することだ」という簡潔な言葉にあるようだ。
 第二部では、トリノの聖骸布、神秘家の体験、「千の風になって」の歌、ガリレイの復権、などを話題として、理性と信仰とのせめぎあいが語られるが、「信仰は、全能の神の力で理性を奪われて、有無を言わさずに押しつけられるものではなく、理性ある人間が自由に受け取ったり養ったりするものであるらしい」と述べる言葉が印象に残る。
 第三部では、原則を守ること、スピリチュアル、マリアとマルタ、偶像の問題、ルルドの不思議、という5つの話題が取り上げられるが、それぞれの末尾に明快な処方箋が太字で示されている。中でも第2話題の末尾にある、「この世でもあの世でも、あなたは、もう決して一人ではない」という言葉が、とりわけ印象に残る。
 第四部では、祈りの効用、祈りのジョーク、他人をゆるすこと、祈りの効果の証明実験、母の死と祈り、という5つの話題が取り上げられるが、最後に述べられた言葉に強い共感を覚える。「人との結びつきに向かって自分をゆだね、解き放つとき、私たちは皆、神の子になれるのかもしれない。」
 第五部では、聖ヨセフと聖マリアを手がかりとして父と子、母と子の問題を取上げている。第2話題の末尾に述べられた、「私たちはすべて神の子であり、神の子を養い守るところに家庭も父親も生まれるのだ」という言葉が、脳裏に焼き付いた。
 [付記] 読了後、図書部に寄贈しましたので、興味のある方は借りてお読みください。


短信テモテ
☆5月6日(日)、こどもの日の祝福

 連休最後の日曜日、子どもの日にちなんで祝福が行われた。子供たちのための祈祷の後、マルコ神父から思い切りたくさんの聖水を振り掛けられ、またミサ後は記念写真となった。
☆4月22日(日)・29日(日)、ジャム販売
 2週続けてジャムの販売がミサ後の聖堂内で行なわれ、試食用ビスケット付で、また当教会でしか手に入らないということもあり、好評だった。年に数回販売の予定とのこと。
☆4月29日(日)、書籍等の出張販売
 男子パウロ修道会からブラザー田中が出張してくださり、ミサ後に教会前で図書や聖具類(メダイ、CD等)、ガレット(トラピスチヌ修道院の菓子)などの販売が行なわれた。教会関係の品々はなかなか手に入れる機会がないので、直接手に取って選べる良い機会として好評だった。道を行く人々も立ち寄るほどの賑わいだった。

(「智も手も」No303 2012年5月号より)


教会報「智も手も」抜粋記事 No302  ’12年3・4月号より
短信テモテ
☆3月4日(日) 四旬節黙想会
鈴木信一神父が来てくださり、マルコ神父と2人で赦しの秘跡、さらに佐藤助祭と大人3人、子供2人の侍者が加わりミサ。鈴木神父の説教、洗礼志願式、ひな祭りにちなむ子供の祝福(写真p2)、そして黙想会(関連記事p2)と内容豊かな1日でした。
☆3月20日(火) 司祭叙階式
佐藤智宏助祭他3名が司祭に叙階
谷司教司式 大宮教会にて
参加 約800名(司祭・助祭 約90名、当教会より 約50名)
前任の鈴木神父、中村神父、ラファエル神父や当教会出身の藤田恵神父の姿も見られた。(関連記事p3-4)

四旬節の黙想
本当に大切な絆とは

                      F.W
 鈴木信一神父様を迎えて四旬節の黙想が行われた。
その日に向けて心の中で期待がふくらんでいたが、神父様が告解の前に熱く語る姿を見て心がざわつくのを感じた。しかし不思議と私の体が熱くなり自然と神父様の前に座らせ口が動き始めた。心のあかが薄くはがれるのを感じた。
 ミサの中でも自分の体が熱くなり聖霊の恵を感じた。いつも四旬節がくると「くいあらため」という言葉を考えさせられ少しだけ実行して忘れるのが普通だった。
 鈴木神父様の「絆」の言葉を聞いて、「また新しい気持ちで神に全ての栄光を奉げます。」と心の中で祈りを挙げた。
あなたにとって本当に大切な絆とは何か? どのくらい喜びになっているか? 力になっているか? いやしになっているか?
「くいあらため」、ギリシャ語で「メタノイア」、反対に読むと「アイノタメ」。何にこだわりたいのかは、あなたが決める事だ。 心の黙想会でした。


一緒に遊んでくれた佐藤助祭さん
                       K,A
 わいわいがやがやという人ごみの騒ぎの中からどたばたと今週も子供たちの声と足音が教会中に鳴り響いている。助祭さんが来られてからこれは毎週日曜の一部だった。祭壇の左側はいつも子供たちのたまり場だ。佐藤助祭さんはよく馬跳びの馬になって一緒に遊んでくれていた。
 助祭さんが来られた時、教会に少し変化があっていいなと思うくらいだったが、だんだん慣れてきて遊んでもらうようになり、寂しくなるほど親しいところまで近づくことができた。
助祭さんとお別れするまであと何日か、なんて今まで考えたこともなかったが、「お別れの日」までのタイムリミットは僕の思うように待ってはくれなかった。
 いずれお別れする日が来るのは分かっていたけれど、いざその日が来ると思うと寂しい。
僕たちみことばクラスの子供たちにとって助祭さんは決して堅苦しくなく、身近で優しいお兄さんだった。
今までどうもありがとうございます。そして司祭叙階おめでとうございます!!
 司祭になられても僕たちと春日部教会で過ごした日々を忘れないでください。

ありがとう!佐藤神父様!
ジャンプ力と中国語にびっくり!

                        M.M
 早いもので春日部教会に来られてから10ヶ月位が経ちました。サマーキャンプの時には朝のラジオ体操でその素晴らしいジャンプ力に驚きました。学生時代には体操をされていたとか・・・。登山も軽々でしたね。
 ミサ後には子ども達が足に腰に肩に頭にと乗っかり、振りまわされて大喜びでした。馬跳びも楽しい思い出です。又お説教の中でご自分自身の事を語って下さり心に沁みました。
どうぞその素晴らしいジャンプ力でこれからも大いに羽ばたいて下さい。
ありがとうございました。
 そして3月20日大宮教会にて執り行われた司祭叙階式に参加しました。春日部教会の信者さんも多く見守る中で佐藤神父様をはじめ4人の神父様が誕生されました。又、何と言っても佐藤神父様が流暢な中国語で福音を朗読されたのには大変びっくりしました。
浦和教会に赴任される事になり、又お会いできそうです。おめでとうございました。


司祭叙階式に参加して 
                        N.M
 聖堂に響く「ガリラヤの丘」の大合唱の中、司教様、司祭団そして司祭受階者4人の入場、会衆の心がひとつになり、力強い歌声に心がふるえる思いでした。
 立ち席もある中、式は厳かに進行、中盤の着衣の式では家族の手を借り真っ白な祭服をまとった4人の司祭が誕生しました。心よりおめでとうございます。!!
 イエズス様に出会えたチャンスを下さったお母様への感謝の言葉、とても立派でしたよ。又一瞬目を奪われた流暢な中国語での福音朗読、なんと心地良い響きだったでしょう。
 さあ、佐藤神父様、今日から一人立ちですね。キリストの奉仕者として、神様に守られ私達を正しい道に導いて下さい。
 いつの日か我が教会に派遣されるのを楽しみに。
マルコ神父様、信者一同、春日部教会を守って行きます。


「一粒の麦」の会 広がりはじめた麦畑
                        F.I.J
 「一粒の麦」は1996年神学生養成のために始まりました。会員は神学生のための祈りと1年間に1口(1万円)以上の会費を6年間続け、支えるというものです。
 この第一回ニュースレター「一粒の麦」に"1987年3月21日この日は何の日?"と始まるペトロ岡田司教(現東京大司教)の呼びかけは、この日が塩田泉神父が叙階された日であり、以後10年間司祭叙階式が行われてない浦和教区(現さいたま教区)に4人の神学生が誕生していること、その喜びと同時に、この若者達の司祭への歩みを支え、育てる大切な使命への協力を求めるものでした。
 この4人の1人が春日部教会に来て下さっていた藤田薫さん(現所沢教会司祭)です。
 そして2000年(大聖年)3月20日浦和教会で13年ぶりとなるガブリエル山口司祭の叙階式が行われました。翌2001年3月20日にはヤコブ藤田薫司祭の叙階式があり、春日部からも大勢の方が参列しました。
 その後も司祭への道を希望する若者が続き、私達は藤田恵さん(現松が峰教会司祭)、野田さん(レデンプトール会、現吹田教会司祭)、この3月20日に司祭叙階を受けられるアントニオ佐藤智宏助祭と、「一粒の麦」が芽生え実っていく時を共にすごし味わう恵みを頂きました。
 昨年10月10日浦和教会で「一粒の麦」感謝ミサがマルセリーノ谷司教の司祭叙階銀祝と合わせて行われ、ミサ後パーテイー会場となった庭で歓談する人々を見ていて喜びがこみあげてきました。
立派な「麦畑が広がっているではありませんか!」 神の業をみせて頂いていると思いました。
 ところが「一粒の麦」の会員数247名、スタート当初は402名。え!! 減ってるの!!

こんにゃく物語(70)
命のよみがえり

                     S.M
 十寒一温と嘆きたくなる、今年の冬の寒さ!
春大好きな私でも今年は家の中に閉じこもる事が多い気がしますが、それでもいつの間にか春咲きの草花の芽が伸びはじめ梅の便りも聞かれる弥生3月。ここかしこに命のざわめきがよみがえってきています。3月11日の大災害から早や1年、弥生3月は複雑な陰影をもって復活の喜びの日に近づいています。大災害のために心ならずも犠牲になられた方々をしのんで生き残った私達に主が復活の力を与えて下さいます様に。


奄美大島のカトリック―
受難の歴史(10)

                     N.F
 1835(昭和10)年1月25日付で出された南島漁夫(前回「南方」と誤記しました。お詫びして訂正します)の『同胞きりすと人に寄す』に呼応して、宮崎でも2月18日に、「公教信徒有志者」15人の連名で、外国人宣教師の国外退去と純日本的キリスト教会の確立を訴える文書が公にされた。当時九州では、鹿児島(沖縄を含む)はカナダのフランシスコ会、宮崎はイタリアのサレジオ会、福岡はパリ外国宣教会に委託されており、邦人による教区は長崎だけであった。「そういう状況の中で外国人宣教師を余りにも尊崇し過ぎ、その風俗までも信仰の一部と思いこんで受容してしまったために、あるいは国体に反する行動があったやも知れぬ」と反省し、「純真のキリスト信者となり、神の御国の民として、忠良なる日本臣民として生きて行きたい」という意向を表明する文書であった。
 長崎県佐世保でも、2月20日付で、「公教会信徒一同」の名で要望書が出されている。「奄美大島に直ちに邦人司祭が派遣されると期待していたのに、未だに何ら具体的な解決策が打ち出されていないのは極めて遺憾である」とし、「要塞地帯であっても邦人司祭ならば何ら違法とする理由はない。軍部の拒否のままに黙認すれば、カトリック教は非愛国的という世評を肯定する形になる。大島の教会復興のために速やかに、熱意と手腕のある邦人司祭を派遣するべきである」と訴えるばかりでなく、「一般信徒の愛国的覚醒を促し、特に皇室に対し奉る尊崇の念を鼓吹して欲しい」と要望し、「各教会に国旗掲揚柱を設け、国家の三大節(紀元節・天長節・明治節)には教会で国家のための祈願をし、国旗掲揚、君が代欽唱を慣例化するべきである」という提案さえしている。
 同じ2月20日に、長崎教区の早坂久之助司教は長崎市内と近郊の神父14人を招集して協議し、新しい司牧方針を打ち出した。@国体とカトリックの教理はその本質が異なっているから何ら矛盾はないことを明らかにする、Aわが国体の尊厳を信徒に認識させ、国民意識の高調を理解させる、B神社の団体参拝には宗教的意義はないと文部省と教会側とで相互に了解していることを信徒にも徹底させる、という趣旨であった。併せて、C祭日には国旗を掲揚することを奨励し、また、D神式・仏式の祭典が行なわれることを理由として従来参加を禁じていた招魂祭や慰霊祭にも、国に殉じた御霊を顕彰するためだから参加しても差し支えない、という判断を示した。更に、E軍人を招いて国防に関する講演会を開催する、F国防献金や慰問の金品の拠出などを積極的に行う、など、軍部への配慮を思わせる方針も打ち出している。
 4月24・25日には、東京の大司教館に全国の司教・教区長が集まって協議し、「カトリック信者は忠君愛国の大日本帝国臣民である」と宣言する共同教書を発表した。「我が国は万世一系の天皇陛下が統治し給う万邦無比の家族的国体をなしており、君に忠するは国を愛することとなり、国を愛するは君に忠となる」と説き、「特に現在の非常時局に際しては、その重大性を強く意識し、建国以来国民精神の中に含まれている皇室中心主義の精華を輝きわたらせ、振起作興を期するべきである」と諭すものであった。

★洗礼記念カードの絵
「新しいよいカードを」と思って探しても見つけられず、結局昨年と同じカードになったが、原画の所在を確認することができた。ミラノの旧市街にある旧ベネディクト会修道院付属サン・マウリツィオ(San Maurizio)聖堂である。ドゥオモ(大聖堂)と、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の絵があるサンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ聖堂との中間にあり、両者の間を徒歩、トラム、あるいはバスで移動すると、前を通ることになる。なんと、私自身2003年に訪れ、当の壁画の写真も撮っていたことが分かった。左側の最初の礼拝堂の壁面に描かれたジョヴァン・ピエトロ・ルイーニ(Giovan Pietro Luini, 16世紀)の壁画「キリストの復活」の主要部分を切り取って、カードに仕立てたものである。(N)

(「智も手も」No301 2012年3・4月号より)


教会報「智も手も」抜粋記事 No301  ’12年1・2月号より
短信テモテ
☆1月22日(日)
 定期信徒総会 開催

ミサ後聖堂がほぼ満席になる程の参加で開催された。各部報告、会計承認が行われ、新しい葬儀方式に関して、また近年の酷暑での聖堂に関して、他などの質疑応答があり2012年の活動、予算説明などが承認され閉会となった。

☆12月24日(土)・1月1日(日)
クリスマスと新年のミサとパーテイー
 昨年12月24日(土)19時降誕祭ミサ後、恒例のパーテイーが有志手作りの料理で供され200人前後の参加であった。
 1月1日(日)11時元日の、神の母聖マリアのミサ後、卓球台に並べたささやかな料理と茶菓でのパーテイーが行われた。
 
子供たちとともに捧げたクリスマス
                     D.S
 子供の目線にあわせて低くした祭壇、その後ろには子供たちがかいたアドベントカードの木々に囲まれたポーランドのニエポカラノフの修道院(昨年は丁度この修道院を創立したコルベ神父の殉教70周年に当たる)の絵をバックにしてミサは始まりました。
 子供たちの朗読の後、福音朗読のところで、イエスさまの降誕劇が子供たちによって披露されました。3回練習した子もいれば、1回しかできなかった子、又その日とびいりの子もいましたが、皆それなりに一生懸命に演じていました。
 お説教は佐藤助祭が子供たちにあわせて分かりやすく話してくれました。
 共同の祈りのところで、子供たちが自分で考えてきたお祈りを捧げてくれました。奉納のところで、お御堂を暗くして子供たちのキャンドルサービスがあり、一人一人が真剣な顔をして火のともったローソクを祭壇まで運びました。
 ミサの後子供たちが手話の歌「おめでとうメリークリスマス」と「ジングルベル」を披露しました。
 その後マルコ神父の出し物があり、まずはじめに動物の鳴き声のものまねをして下さりそのあまりの上手さに皆感心しました。この鳴き声をとりこんだ降誕劇の紙芝居をやって下さり、場面、場面で牛、羊、ロバと書かれた紙札を神父が出され、そこで皆がその鳴き声をまねする。小さい子も大きい子も大人の人もモオー、メー、ヒーホとその鳴き声をまねて降誕劇を盛り上げました。
 その後市川リーダーが祭壇の後ろの絵について世界地図を指し示し、ポーランドでのコルベ神父の殉教の話をまじえて説明してくれました。
 最後に子供たちに待ちに待ったプレゼントが配られました。これはずーと以前にやっていたプレゼント交換をやめて、代わりに-子供たちがおこずかいの中からアフリカのシエラレオネの子供たちのために献金してくれたお礼のしるしのプレゼントです。中には降誕場面のご絵と焼き菓子。小さなかわい手づくり人形も頂きました。山田さんのお姉さんが作って下さったものです。イエスの誕生の大きな喜びが沢山の人々に届きます様に!


短歌8首
                       A.T
あわれみの 深く広き 主の愛を
   身にしみしりぬ 無力となりて

歩ける日を 思いえがきて 朝ごとに
   足動かして ひと日はじまる

息切れて 歌うたえねど 胸うちで
   歌いておりぬ 詩編のしらべを

やせ細りし 体に生きる あかしごと
   鼓動はげしく 体波打つ

疲れし者 重荷負う者 招き給う
   主のみことばに すがりゆく我

思えども 動けぬ我は み手の中
   無力の極みを 生かされており

助けられ 支えられて 生きる日々
   ありがとうが 口ぐせとなる

わがのぞみ やさしき友に 支えられ
   主日の聖堂に つどうよろこび

    
いろはかるた(40)
(め)目の上の瘤(江戸)
                     S.T
 未曾有の国難と言われる今回の東日本大震災の復興が、福島第一原子力発電所の重大事故による放射能の被曝が重い足かせとなり、また国や県、市町村の長や幹部職員達が、非常時における行動指針を被災者にキチンと説明出来ずにいます。先ず何を優先し、どのようにすべきかについて、適切な対策を立て、昼夜を分かたず身命を賭して責務や責任を負う覚悟が感じられないのは誠に残念に思います。このような時に国会では菅総理の退任問題や政党間の駆け引きで、被災者の救済や復興計画に大きな支障を来しています。
 さて日本も民主主義国家になってから60年が過ぎて、物事を決定する時は多数決によることが定着しています。政界を始め官界、財界、医学界等人間の集まる所では必ずトップの座を巡って争いが起きますが、そのような時自分より実力や集票力がある者が身近にいれば、トップになるのは容易ではなく、まことに邪魔であり目障りなものですね。以前に見た韓国ドラマの「イ・サン、チャングムの誓い、宮廷医官ホ・ジュン」等にも王位やトップの座を巡って、凄まじい争いがあり陰謀や罠で邪魔な相手を引きずり下ろす場面がありますが、事ほど左様に権力の座に執着する者にとって、自分より上に立つ者や実力が勝る者は、目の上のコブのように邪魔になるのです。
 表題の意味は「自分より地位や実力が上の者がいれば大変邪魔であり、うっとうしい存在で、まさに目の上のたんこぶ」ですね。マタイ福音書18章で弟子達が天の国で一番偉い人は誰ですかと問われた主は「心を入れかえて、、、自分を低くして子供のようになる人が天の国で一番偉いのだ」とお諭しになりました。従ってカトリック的には、天の国には「目の上に瘤なし」と言い換えるのも一興ですね。


奄美大島のカトリック―
受難の歴史(9)

                     N.F
 最後のカナダ人宣教師が引き揚げて司祭不在状態に陥った奄美大島の信者たちのために企てられていたのは、日本人宣教師田口芳五郎神父(後の大阪大司教・枢機卿)の派遣である。田口神父自身が先ず、現地の陸軍を統括する熊本の第六師団司令部を訪れて奄美への渡航を申請したが、「軍部中枢の紹介状が必要である」として拒否された。そこで、駐日教皇庁使節パウロ・マレラ大司教は、広田弘毅外務大臣宛に書簡(12月18日付)を送り、「憲法によって保障されている信教の自由が、現実には現地の軍によって妨げられている」と善処を求め、更に秘書の土井辰雄神父(後の東京大司教・枢機卿)を外務省に送って交渉させた。これを受けて欧亜局第二課が陸軍省軍務局に働きかけ、軍の方針を質したところ、「奄美大島のカトリック信者に対して国体観念の普及、発揚に努めるが、カトリック信仰の自由には干渉しない」という回答であった。「第六師団が日本人宣教師の奄美渡航を禁じる権限はない」と認めながらも、「現状では、一人の宣教師が島に入っても何ら役に立たず、かえって紛糾が生じるだろう」という姿勢であった。外務省はこのことを土井神父に告げ、「今、田口神父を派遣しても、よい結果を得られるとは思えない。外国人神父であったからこそ無事に島を出ることができたが、日本人神父に対しては一層の反感を持たれるかも知れないから、しばらく様子を見る方がよいのではないか」という趣旨の助言をした。更に、広田外務大臣自身の名による書簡によって「田口神父の派遣を断念して欲しい」と申し入れたのを受けて、マレラ使節は「時期を待つ」という趣旨の返書を送った。
 一方、長崎教区から松下佐吉神父を奄美に派遣する計画が実行されたが、同神父は現地に向かう途中、鹿児島の憲兵隊から「島は騒然としており、そこへ宣教師が入ったら更に民心を刺激して、不祥の結果を招く恐れがある」と警告されて、断念したという。
 こうして、奄美大島の「司祭不在」の状態は固定的になった。
 名瀬町では、翌1935(昭和10)年2月に「奄美国防協会」・「奄美国防婦人会」が設立された。要塞司令部があった大島南部の東方村と周辺4村でも「瀬戸内国防協会」が発足した。カトリック信者が多かった北部の笠利村笠利には、新しい神社が造られ、「明治神社」と名づけられた。名瀬にあった郷社「高千穂神社」は県社に昇格された。いずれも、要塞司令部の働きかけによる陸軍の強い後押しによるものであった。
 このような状況の中で、閉鎖されていて近づくことも憚られる教会に密かに集まる人々もあったらしい。その大半は、「転宗届」を提出していた筈の人々である。また、長崎から密かに来島した萩原浩神父を囲んで、信者らが夜陰に乗じて集まる、ということもあったらしい。
 名瀬町伊津部の「南方漁夫」(偽名であろう)と名乗る信者は、『同胞きりすと人に寄す』と題する文書を作成・配布し、差別に苦しむ大島の信者たちの心情を本土の信者らに訴えた。「神国日本」のカトリック信者として、「大和民族」に同化しなかったカナダ人神父たちを非難し、そのおかげで島の信者たちまでが白眼視されて、仕事もままならない状況である、と嘆いている。


こんにゃく物語(69)
―アイ・パッドの事―                     S.M

 息子は来宅するたびにシンプルライフがいいと説教して行くのに、どういう風の吹きまわしか、次に来宅した時、「アイ・パッドを使うといいよ」と云われた。「いいよ。私は機械操作に弱いから、出来ないでタンスの肥やしにするのも馬鹿バカしいから」と云うと、彼が云うには、「ここの所パソコンのマウスを使えない八十過ぎの年寄りが『これは便利だ』と云うので申込みが殺到しているんだよ。ボケ防止にいいんだそうだ」と、まるで企業のセールスマンみたいな事を云うので、「いいよ。今年は医療介護、年金、消費税、TPP、なんだか生き苦しい世の中になりそうだから、シンプルライフで行こうと思っているんだ。だけどこれ以上骨身はけずりたくないね」というと、「いいよ、おれが買ってやるよ」と云った。まだ私は納得しないで、「毎月4、5千円使用料がかかると聞いた」と云うと、「いいよ、おれが払うよ」と云った。私は心の中で若い者も生活は大変なのだ、と思ったけれども好意は有難く受け取ろうと思い、大きな声で「アリガトウ!」といった。
 教会の広報の方々にお世話になっている話はよく息子にするので、「パソコンの出来る人はすぐアイ・パッドの使い方のわかる人だから、教会に行く時は持っていって教えてもらうといいよ」と云った。ついでながら広報の方々の取り計らいで、彼は「智も手も」に目を通しているらしい。
 広報の方々に感謝と共に今後共よろしく― 息子は「青空文庫」の使い方とミュージックの使い方を教えて、「又くる!」と云って帰った。

(「智も手も」No301 2012年1・2月号より)


  
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