遠き日の愛し君へ
ふぎゃあ、ふぎゃあ ・ ・ ・ ・ ・ ・。
壁越しに聞こえる赤ん坊の泣き声で、彼女は我に返った。
そして、はっとしたところで、自分が転寝をしていたことに気が付いた。
眠るつもりはなかったんだけど、と、ソファから身を起こして小さな欠伸。
もたれかかるうちに乱れた髪を手櫛で直す。
癖のない銀の髪は、軽く梳いただけですぐ元通りになった。
立ち上がると、背に流れる長い髪が、すらりとした長身を強調する。
彼女の名前はクリス。
騎士、しかも騎士団長という、女性には珍しい肩書きを持っている。
だが、今の彼女は肩書きとは無関係に、赤ん坊を生んだばかりの母親として自宅にいた。
少し休みなさい、という夫の言葉に従って、居間のソファに身を沈めていたのだ。
赤ん坊の声はもう聞こえない。
隣室から、早足の聞き慣れた足音と、子どもをあやすような声が聞こえた後、すぐに止んだ。
立ち上がった拍子に膝から落ちたストールを拾い、いつの間にかかけられていたそれに苦笑しながら、 クリスは部屋を出た。
ドアの向こうには、こちらに背を向けて赤ん坊を抱いた男性の後姿がある。
目は腕の中の赤ん坊に向けられたまま、物音のした方に振り返った。
「起こしてしまいましたか。」
幼い我が子を抱いたクリスの夫、名はパーシヴァル。
彼女と同じ騎士であり、今は頼もしい主夫・父親として家を取り仕切っている。
この夫婦は二人とも、誉れ高き六騎士、という仰々しい呼び名の六人に数えられる、名の知れた騎士。
騎士団のトップとそれに近い騎士が、揃って産休・育休中とは、平時とはいえ前代未聞のことだった。
皆が支えてくれるおかげだ、迷惑をかけてすまない、とクリスは部下でもある仲間達に深々と頭を下げた。
その頃にはだいぶお腹が大きくなっていた彼女の行為は、却って彼らを慌てさせるばかりだったのだが。
ともあれ、娘は無事に生まれ、母子共に健康なことこの上ない。
今は、些か過剰なお祝いも落ち着き、新しい生活が板について疲労も表れ始める時期、といったところか。
とはいっても、この家では夫の方が家事も育児も器用にこなすものだから、クリスにとっては疲れる理由も見つからないくらいだった。
生真面目な彼女は、当然のように申し訳ない気分を味わっている。
それでも寛いで過ごしていられるのは、当のパーシヴァルがそれらを全く苦にせず、むしろ嬉々としてこなしているためだろう。
つくづく器用でまめな男だと、クリスは呆れ半分に感心していた。
「ごめん。いつの間にか寝てしまったみたい。」
「かまいませんよ。お姫様も夢の中ですからね。」
パーシヴァルに抱かれた幼い娘は、もう穏やかに寝息をたてていた。
クリスが小さな頭に触れると、握った手をむずむずと動かす。
柔らかな髪の色はまだ薄いが、長じれば父親譲りに黒髪になりそうだ
細くてふわふわして、絹糸というより真綿のような手触り。
小さな拳を指でつつくと、ふくふくした指が開いて、差し出したクリスの指をぎゅっと握った。
どこにこんな力があるんだろう、と不思議なくらいに、小さな手は見た目以上にしっかりと、母親の指を握って放さない。
新米パパとママの顔も自然と綻んでしまう。
「怖い夢でも見たのかな。」
「もう大丈夫でしょう。まだしばらく休んでいて大丈夫ですよ。」
「疲れてないから、平気。」
「貴女のそういう自覚が当てにならないことは証明済みです。
そうでなくても、普段無理してばかりなんですから。」
疲労で倒れたことも、心労でバランスを崩したことも一度でないクリスには、反論の余地がない。
娘に掴まれている指を動かし、柔らかなほっぺをつつきながら誤魔化してみる。
小さな手がふにゃふにゃと指を放したので、クリスは夫の腕から娘を抱き取った。
危なっかしかった抱き方も、今ではすっかり慣れたもの。
パーシヴァルに勧められるまま、クリスは傍らの椅子に腰掛けた。
ふわりと漂う甘い匂い。
左腕に伝わってくるのは、大人のそれより高い体温と、心地よい柔らかさ。
少しずつ、確実に増していく重みは、愛おしさに比例していくようだ、とは、 とろけそうな顔をした父親の言である。
「首が据わったら、『高い高い』、たくさんしてあげるからね。」
「じゃあ、俺は丘の上で肩車して、村一番の景色を見せましょう。 貴女の隣でね。」
「ふふ、素敵。」
朧気な記憶の中で、幼い自分が嬉しかったことに通じているのかもしれない。
たぶん、親の手から与えられたもの。
不意に、クリスがぽつりと零した。
「この子にも、いつか、追い越されてしまうのかな。」
その言葉の意味を、腕の中の幼い娘はまだ知らない。
知っているパーシヴァルの手は、ぴたりと止まった。
クリスはその身に人とは違う力を宿している。
望んだかどうかは別にしても、彼女自身が選んで得た力だ。
それは、世界を司る根源的な力の一部であるという、途方もないもの。
真の紋章という名で知られるその力は、持ち主に大きな力と永い時を与えると言われている。
不老不死。老いることも、死ぬこともないこと。
夢物語でしかないと思われたそれを、クリスは手にしてしまったのだ。
紋章を得て10年にも満たず、また生まれて30年にも満たないクリスには、やはり途方もない話ではあったが。
クリスは思う。
10年後。20年後。
娘は成長し、彼女を囲む人々は相応に年を経ていくだろう。
けれど自分は。
30年後、50年後、100年後。
その時自分は。
そして、娘は。 ・ ・ ・パーシヴァルは。
「クリス ・ ・ ・。」
「大丈夫。
ちょっとだけ、痛いけど。」
クリスの腕の中で、娘は静かな寝息をたてていた。
平気を装っても、母親のちょっとした心の乱れを感じ取って、泣き止まなくなる娘が。
その寝顔を見て、クリスは穏やかに微笑した。
クリスの右手に宿る真の水の紋章。
彼女の前の持ち主は、クリスの実の父親だった。
それを彼女が知ったのは、そう遠い昔のことではない。
幼い頃に亡くなったと聞かされていた父。
実は別の場所で生きて、長じて再会した父は、そうと知った途端、今度はクリスの目の前で永遠に消えてしまった。
二度、失った父。
クリスが生まれる前から年をとることもなく、百年近い月日を生きていた父。
紋章は、力に見合うだけの苦悩をクリスに与えた。
だが、父親の記憶、彼女が知りたいと望み続けてきたことを、伝えてくれた。
共に歩むことはできないと判っていても愛したひと。愛した家族。
判っていたからこそ、愛してやまなかった一人娘 ・ ・ ・ ・ ・ ・クリス自身。
言葉にならない想いがこみ上げてくる。
親になった自分の想いと重なっていく。
「痛みは消えないと思う。 泣いても叫んでも。 ・ ・ ・どんなに時が経っても。
でも、喜びだって消えない。」
そうだよね?
見上げたクリスの視線は、目を見開いて彼女を見つめていたパーシヴァルの視線とまっすぐに向き合った。
二人が共に生きると誓った時。
お互いに口にしなかったことがある。
それは、クリスが今の姿のまま、一人で永い時を生きるということ。
言えなかったわけではない。
口にする必要もなかったのだ。
この相手が誓ってくれたということは、全てを受け入れる覚悟が、とうにできているということなのだから。
遠い未来が現在を閉ざす何の理由になるだろう。
パーシヴァルは何も言わず、クリスの頭を抱き寄せた。
左の肩に娘の温もり。右の頬には夫の温かさ。
クリスは、じんわりこみ上げるものを、瞼の奥に仕舞いこんだ。
「また、悩んだりすると思う。
きっとまた泣く。 ・ ・ ・そのときは、よろしくね。」
手を放した後、パーシヴァルは珍しく照れたように言った。
「貴女には驚かされます。いつも美しくて。
でも、どの瞬間より、今が一番綺麗です。」
貴方がいてくれるから、とは、クリスは言わなかった。
なにしろ照れ屋のクリスなのだから。
黙って、もう一度、彼の胸に頭をもたれかけた。
パーシヴァルはその髪を優しく撫でる。
その時、娘が小さく声を上げた。
むずかる素振りを見せたが、すぐにおとなしくなる。
母親譲りの菫色の瞳に、覗き込む二人の顔が映っていた。
「ゆっくり、大きくおなり。」
クリスの腕の中で、幼い娘はふにゃりと笑った。
まるで御伽噺のように流れていく時。
優しさだけでなく、悲しさも厳しさも寂しさも抱いて、流れていく。
御伽噺でない物語は、たぶん、『めでたしめでたし』の一言では括れない。
けれど、それは誰の物語だって同じ筈。
クリスは思う。
ずっと続けばいいと思える時間がこんなにもあるなら、永遠というのも悪くはないかもしれない、と。

「パークリ祭・HARVEST」に出品させて頂きました。
そしてアップするのが非常に遅くなってすみません。
(日付を見て一番驚いたのはたぶん私です・・・)
2005.6.18