水の庭   celestial garden 8




しゃらん。
凪いだ水面に波紋が広がる。
全身に染み渡る透明な水。
温かさが広がる。
闇は夜に還る。
夜が朝へと明けゆき、風が草の匂いを運んだ。



「大丈夫か・・・?」
降ってきたのは天上の声か。
ゆっくりと、置かれている状況を把握する。
横たわっているのは草の上。たぶん、森の中。
まだ薄暗いが、木々の間の空が白んでいる。
朝の空気を思い切り吸い込む。
清清しい『外』の匂いは大きな安堵感をもたらした。
そして、ようやく焦点のあった目の前。
幾分青ざめて見下ろしている、クリスの顔があった。
大丈夫か、ともう一度繰り返す。
「・・・生きている、みたいですね。」
自分の声に、ようやく現実感を取り戻す。
パーシヴァルは横たわったまま、大きく深呼吸した。

「気分は?・・・どこかおかしいか?」
「大丈夫のようです。」
答えてから、パーシヴァルははっとして右手を見た。
押し潰され貫かれた筈の右腕を持ち上げ、指を握り、開いてみる。
指は滑らかに動き、痛みも違和感もないようだった。
その様子を、クリスは少々苦そうに見やっている。
「怪我はない、と思う。あったかもしれないけど、たぶん治せた。」
そう言って、自分の右手をパーシヴァルの目の前にかざす。
何の変哲もない、白い手。
だが二人は、今は見えない、そこに宿っているものを見つめていた。
「・・・真の水の・・・・・・。」
パーシヴァルの言葉に頷く代わりに、クリスは少し顔を歪めた。
本人は笑ったつもりらしかった。
「これは父のものだった。
 私に宿ったんだ・・・父が死んだとき。どうしてか、判らないけど。」

パーシヴァルは、ぼんやりとその理由を思う。
恐らく、その紋章が持ち主の思いを受け継いだから。
以前の持ち主の思いが向かった先。
それとも父を呼ぶ彼女に答えたのか。
いずれにしろ、紋章はクリスを選び、主の意識を超えるほどに、クリスを包み護っていた。


突然で何が起こったのか判らなかった、とクリスは続ける。
唐突に走った衝撃。
一瞬のうちに流れ込んできた膨大な記憶――そこから、父が真の紋章の持ち主だったことを知る。
そして、記憶が父の死を告げたとき。
止まってしまった。
受け入れられなかった。
拒否した心に、紋章が感応して。
たぶん、そのせい。
クリスは弱々しくそう結んだ。


「・・・すまない・・・。」
膝枕で横たわっているパーシヴァルにも見えないくらい、顔を伏せて。
クリスは消え入りそうな言葉を漏らす。
「そんな顔、しないでください。」
俯いた顔は影に沈んでいる。
震える肩から、銀糸が滑り落ち、流れた。
「お前の方がひどい顔だった・・・・・・真っ青で、冷たくて。
 ・・・お前まで死んでしまったかと。」
ぎゅっと唇を噛んだところで、パーシヴァルの視界が覆われた。
震えが伝わってくる。
「私は、独りだったんだな。」
目元を覆った手に、パーシヴァルはそっと自分の手を重ねた。
その温かさで、自分の体が冷え切っていたことに気づく。
「母はあそこにはいなかった。父が帰ってくる筈もなかった。
 あの庭は私が創った幻。
 ・・・私はずっと独りだったんだ。」
視界を閉ざされたままに聞く震える声。
それは、パーシヴァルが夢現で何度も聞いた声によく似ていた。
導いてくれた、優しい光の。
「怖かった。 探すものも、待つものもなくなったら。
 私にはもう誰もいない。何もないから。」


パーシヴァルは、視界を覆うクリスの手をそっと退けた。
そのまま手を伸ばし、頬にそっと触れる。
「お母様は傍にいらっしゃいましたよ。あの中でお会いしました。
 ずっと、貴女の身を案じていらっしゃったんですね。」
濡れた菫の瞳が、大きく見開かれた。

現実を拒んだことで一緒に封じ込めたものが、クリスを満たしていく。
病床の母が、最期には残していく娘だけを見、案じていたこと。
望まず受け継いだ紋章に、はっきりと刻まれていた、父の、家族を愛しむ記憶。
想いは温かい涙となって溢れ、零れた。

「・・・判っていた・・・判っていたんだ・・・ずっと・・・・・・。」



                『ごめんな』 と 『ごめんね』。
               父と母、最期の言葉は同じだった。
               ずっと。
               謝ってほしくなんかなかった。
               謝ることなんかなかったのに。
               お父様。お母様。
               ごめんなさい。
               本当は、ずっと、ありがとうって言いたかった。 






霞んでいた朝日が、くっきりと斜めに差し込んだ。
木々の黒い影の間、照らし出された涙が煌々と光る。
眩しそうに目を細め、クリスは微笑んだ。
触れていたパーシヴァルの手に頬を押し当てる。
「この手だ。目を覚ませって。
 迎えに来てくれた。・・・見つかった。ようやく。」
もう一度頬をすり寄せて、クリスは手を離した。
照れ隠しのように、やや乱暴に目元を拭う。
赤くなってしまった目。
こすった勢いで乱れた彼女の前髪を、パーシヴァルは指先で梳いた。
「私も見つけた気がします。」
「何を?」
黙って笑んで、パーシヴァルは身体を起こした。
そのまま立ち上がり、軽く全身を払う。
見上げるクリスの前で、髪と服を簡単に調えた。
そして、ぺたりと座り込んだ彼女の前に膝を折る。

天上の庭から抜け出た女神は、ごく普通の、旅慣れた衣服をまとっていた。
動きやすい皮の上下に、ブーツ、ベルト。腰には短剣。草色と土色基調とした旅装。
目元は赤く、少しだけ腫れていた。
それでも変わらず貴やかな、銀を背負う姫君。

「お待たせして申し訳ありません。お迎えにあがりました。
 貴女をお連れする栄誉を、どうぞ私にお与えください。」

出会ったときと同じように差し出された手。
もう一つの右手が、そこに重なった。
「喜んで。」
押し戴いた右手への、恭しい口付け。
手を預けたまま、クリスは立ち上がった。
流れる風。
暁の光に、パーシヴァルのよろう銀と、クリスの銀糸が輝いた。


「では、参りましょう。」
姫君の手をとって、騎士は愛馬の嘶きの元へと、歩んだ。






                               Fin.



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2004.12.31 書庫へ。