水の庭 celestial garden 1
方向感覚はそう悪い方ではない。
見知らぬ土地に来たからとて、地図を持って迷うこともあるまい。
そう高を括って近道を試みたのがいけなかった。
少し横切るつもりで入り込んだ森は思いの外深く、細い道が草の中に消えてから大分歩いた。
騎乗したままもう一度地図を広げ、溜め息とともに閉じる。
完全に迷ったらしい。
森はますます鬱蒼と茂り、木漏れ日も心許なくなる。
愛馬が不安げに嘶き、足を止めようとする。
進むのを嫌がっているようだ。
首を撫でて宥めても、足取りは覚束ない。
木の間に小さな泉を見つけ、そこで馬を降りた。
近くの木に綱を結び、水を飲ませてやる。
自分でも草の上に膝をつき、泉の水で顔を洗った。
冷たい水が乾いた肌に心地よい。
変に緊張していた心がほぐれていく。
そのまま草の上に腰を下ろす。
ふと目をやると、すぐ傍の泉のほとり、丈高い草に隠れるようにして、白っぽいものが立っていた。
滑らかな石で出来た、小さな祠のようなもの。
ほんの気まぐれで手を伸ばした。
触れた瞬間、
「!」
伝わってきたのは溢れる水のイメージ。
驚いて手を離すと、その画像はふいに消えた。
「なんだ ・ ・ ・?」
思わず触れた右手を眺めてみるが、いつもどおりに水の紋章が宿っているばかり。
これに反応したのだろうか。
と、微かに水の流れる音が聞こえたような気がした。
森の、更に奥の方だろうか。
誘われるように立ち上がった。
馬はここに繋いでおけば大丈夫だろう。
「ここで待っていてくれ。」
そう声をかけ、不安げな愛馬を残して更に奥へと分け入ることにした。
草を踏み分ける音の向こうに、やはりせせらぎが聞こえる。
進むごとにその音は確かなものとなっていく。
清浄な響きに誘われて進んでいくと、突然視界が開けた。
光が溢れている。
その先は森ではなく、唐突に開けた庭園だった。
地面には白い石が平らに敷き詰められ、縦横無尽に水路が張り巡らされている。
水路にはところどころに段差や滝が設けられ、石と水路の間には色とりどりの花が咲き誇っていた。
明らかに人工のものながら、木々や草花が豊かに溶け込んでいる。
小鳥がさえずり、せせらぎに光が乱反射する。
緑、翠、碧の中の白。花の紅、朱、橙、黄。
輝く光、煌く水、目映いばかりの大気。
この世のものとも思えぬ景色の中に。
女神が立っていた。
背に流れる銀の髪。
纏っているのも、神話の女神のような流れるひだの白い衣。
すらりと伸びた腕、銀に縁取られた首筋も抜けるように白い。
長い裳裾を左手でつまみ上げ、右手には銀の器を持っている。
中央を流れる大き目の水路の脇にかがみ、深い杯のような器を流れに浸す。
そして、ふいに顔を上げた。
輝く紫水晶。
宝石のような瞳がこちらを見つめている。
「迷い人か?」
よく通る凛とした声。
女神と思われた女性は、はっきり地上の言葉を発した。
「 ・ ・ ・はい。」
それ以上言葉がつなげなかった。
あまりに浮世離れした出来事に。
白い乙女は、そんな様子を不審がる様子もなく、器を持って立ち上がった。
「私は神でも妖精でもない、ただの人間だ。とって食ったりしないから入ってくるといい。」
思考を見透かしたような言葉に戸惑いながらも、森の下生から白い石床に踏み出した。
足元の硬い感触。
乙女は相変わらずそこに佇んでいる。
夢、ではないらしい。
「 ・ ・ ・ここに迷い込んで来る者は、よくそんな顔をして固まっているんだ。こんなところにいるから怪の類と思うらしい。」
慣れた様子で乙女は言う。
近づいてみても、その乙女は非の打ちどころなく美しかった。
本当に女神かと見紛う。
「天上に迷い込んだかと思いました。」
けれど乙女は地上の言葉を喋り、大地の上に立っている。
無粋な来訪者が傍らに立つことも拒まない。
「ここが天上なら、なるほど、怪だな。」
「女神でしょう。いと貴く美しき存在と。」
「 ・ ・ ・ ・ ・ ・真顔でよく言う。」
乙女は呆れたように眉根を寄せる。
凛とした表情が、感情を宿して人間味を増した。
ずっと愛らしい顔になる。
「まあ、特殊な場所ではあるのだが。 ・ ・ ・その出で立ち、騎士どのと見受けるが?」
「これは失礼を。私はパーシヴァルと申します。」
乙女の前に膝を折り、片手を胸に当てて首を垂れた。
騎士として、高貴な女性に送る完璧な礼。
「貴女の庭に迷い込んだ非礼をお許し下さい。改めて、お招きを請うてもよろしいですか?」
そのまま右手を差し出す。
半ば芝居がかった仕草。
だが、乙女は微笑んだ。
「私はクリスだ。貴方を客として迎えよう。」
細い右手が差し出される。
その手を押し戴き、白い甲に恭しく口付けた。
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2003.2.12