夕暮れ時、レストランに向かおうとしていたボルスの耳に、ピアノの旋律が届いた。
ピアノなどどこにあったかというと、つい先日倉庫の奥から発掘されたのである。
何代も前の城主が使っていたものらしい。
城主が変わって手入れされなくなって以来、楽器というより骨董品に近い状態でしまいこまれていた。
ようやく閑古鳥から解放された城主のはからいで、調律もされて日の目を見ることになったのだ。

ゼクセンの上流階級では一般的な楽器だが、グラスランドではあまり知られていない。
弾ける人間は城内でもかなり限られていた。
ボルスはその一人である。
ピアノは、幼い頃から良家の子弟の嗜みとしてこなしてきた、数々の習い事の一つだった。
育ちのよさではクリスも負けていないが、黙って苦笑する彼女の顔を見れば、敢えて問いかける人間はいない。
他にはアラニスなどがその腕前を披露していたが、今聞こえてくるのは明らかに別人の手になるものだ。
弾き方にも曲調にも聞き覚えがなかった。
しかもかなり上手い。
興味を覚えて、ボルスはピアノの置かれた部屋に向かった。



扉を開けて、思わず立ち尽くす。
夕日に染められた部屋、ひとりピアノに向かっていたのはリリィだった。
いつもの勝気な面影はどこへやら、伏せた睫毛が物憂げな影を落としている。
手袋を外した華奢な手が鍵盤の上を踊る。
紡ぎだされる旋律は繊細で、どこか郷愁をさせる優しいものだった。

一通り曲を弾き終わった後、リリィはようやくボルスの方を見やった。
「なに?」
「いや・・・弾けたんだな。」
「当然の嗜みよ。大統領令嬢ですもの。」
いつもの高飛車な物言い。
普段どおりの彼女に、ボルスはどこか安堵感を覚えていた。
知ってか知らずかリリィは得意げに胸を張る。
「久しぶりだからイマイチ勘がつかめないわね。それでもなかなかのものでしょ?」
「俺だってそのくらい弾ける。」
「知ってるわ。クリスのために弾いたんでしょ、聞いたわよ。」
「う、うううるさい。」
顔を赤くするボルスを無視して、リリィは鍵盤の上に指を滑らせる。
先程の旋律がまた流れ始めた。
「聞いたことのない曲だ。」
「こっちのとは雰囲気が違うわね。ティントでは有名なんだけど。」
和音の響きからしてゼクセンとは違う。
ボルスがその手をしげしげ見ていると、突然指が止まった。
ふいにリリィは立ち上がり、壁際の棚に手を伸ばす。
「そうだわ。あんたはこっちを弾いてよ。」
差し出されたのはヴァイオリンだった。

「・・・どこにあったんだ、これ。」
「これも倉庫にあったみたい。だいぶひどい状態だったのを、一緒に直したんですって。」
ボルスはそのヴァイオリンを手に取る。
こちらも、ピアノ同様かなり年季が入っていた。
「何? 弾けないの?」
「・・・弾けるさ。これでちゃんと鳴るのか?」
「確かめたらいいじゃない。」
リリィの言葉に、ボルスはヴァイオリンを構えた。
弓で弦を撫でると、澄んだ音色がするりと流れる。
「・・・・・・あまりいい音じゃないな。」
「とりあえずは十分よ。はい、これ楽譜ね。さっき見つけたの。」
同じく戸棚から古い楽譜を取り出す。
日に焼けてところどころかすれているが、読めないほどでもない。
楽譜を渡すと、リリィはさっさと椅子に戻った。
もう一部の方を譜面台に乗せ、前触れもなくピアノパートを弾き始める。
ボルスも慌ててその後に続いた。


ピアノのソロに始まって、静かにヴァイオリンが加わる。
鍵盤が軽やかに、弦が優美に音楽を紡いでいく。
じゃれあうような掛け合いから、二つの音色が絶妙に絡み合っていく二重奏。
激しく優しく夕暮れに溶け込んでいく。
近くにいた者たちはしばし手や足を止め、うっとりとその音色に聞き入った。


「なかなかやるじゃない。」
演奏が終わると、リリィはボルスに笑いかけた。
思いのほか良い出来に、いたく満足した様子だ。
ボルスはふいと横を向いたが、もちろん不機嫌のためなどではない。

なんともいいい雰囲気の中、突然、ぐるるると間の抜けた音が響いた。
ボルスの腹の虫。
途端にリリィが顔をしかめる。
「・・・あんたってほんとに、デリカシーのかけらもないわね。」
「仕方ないだろう!夕飯に行く途中だったんだ!」
「別に責めてないわよ。呆れてるだけ。」
リリィが吹き出して笑う。
「私もお腹空いてきちゃったわ。」

ボルスは楽譜を棚に戻しながら、さりげない風を装って言った。
「・・・一緒に行かないか?」
「ついでみたいな誘い方は気に食わないけど、いいわ、付き合ってあげる。」
ピアノの蓋を閉じて、リリィも立ち上がる。
二人は連れ立って部屋を出た。
たまには、こういうのも悪くない。


「またやりましょ?」
「ああ。今度、実家から楽譜を送らせる。」
「あら、気が利くじゃない。今度はもう少し速さが合うといいわよね。」
「それはお前が合わせようとしないからだろう。」
「そんなことないわよ、あんたが休符を無視するからいけないんでしょ。」
「あれは一回間違えただけだ!お前はいつでも息を合わせるとか考えないだろう!」
「それじゃ私がわがままみたいじゃない。あんたこそ熱中してくると周りが見えなくなるくせに!」
「なんだと!お前こそ・・・・・・」
「何よ!さっきだってあんたは・・・・・・」

こういうのも悪くはない、と思う。




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