海を渡る風





「私、自分の世界に帰ります」

少女がそう告げた時。


「ああ、そう。 
君が君としていられる場所は、私の腕の中ではなかったということか。
止めはしないよ、姫君。
お帰り、君が一番君らしく生きられる場所へ」


表情も変えずに、男はそう言った。





そこは眼下に瀬戸の内海を見下ろす丘の上だった。
夕刻、色を濃くした水面の上にぽつりぽつりと浮かぶ島影が、オレンジ色に染まっている。

吹き上げる海風が、潮の香りを運ぶ。
…懐かしい匂いだ…と、少女は思った。

あの不思議な出来事に否応なく巻き込まれてから、そろそろ1年が過ぎる。
それは日々の生活に取り紛れて、記憶の底に沈みかけている。
ふとした折に思い出す、静かに澄んだ翠の瞳を思い出す時にのみ、胸の奥がつきんと痛むけれど。
花梨は自分の選択を後悔してはいない。

時空を遡ったかのようなあの世界で、「龍神の神子」と呼ばれていた花梨には、月の障りがなかった。
結界を解き、「京」の気が正常に流れ出してもそれは変わらず、ただ、「神子」という器に溜められていく龍神の力を感じていた。
自分は器としての存在であり、身体も心も、その器に付随した水面に映る実体のない儚い影でしかない。
龍神の力があって初めて、実体として存在することができていたのだと。


そうして最後の戦いに終止符が打たれた時、この世界での自分の全てが失われていくのを感じた。
あのまま、あの世界に留まることも出来た。
応龍となった龍神の力で、実体として存在し続けることも可能だった。
だが、花梨は選んだ。

このまま、幻のように不確かな自分であの男の傍らに留まるより。
「高倉花梨」として、誰にも依存することなく存在できる世界へ戻ることを。






こんな時刻にこの場所へ来るのは自分くらいだと思っていた。 
が、乾いた草を踏む音と共に背後に人の気配を感じて、花梨は振り向く。
丘を登って来た人影が、先客に気付いてふと顔を上げた。

年の頃は27〜28くらいの、細身の青年だった。
短めに切った髪がさわやかな印象を見る者に与える。
少し日焼けした肌に白いシャツが似合っていた。

襟元からのぞくヘッドに緑の石をあしらったネックレスが、キラリと夕陽を反射する。
「ひすい……さん」

すれ違いざまするりと、何の抵抗もなく少女の唇がその名を紡いだ。
それは、幾度も身体を重ね心を重ねながら、お互いに「愛している」とすら言わなかった相手の名前。

けれど。
まさかそれが自分への呼びかけであるとは思いもよらないようで、青年は一瞬不思議そうな視線を花梨に向けたが、そのまま脇を通り過ぎた。

「やだ、何言ってるの、私」
思いもよらぬ自分の声に息を詰めた花梨だったが、相手の無反応にほっと息をつく。
当たり前だ。
千年も過去に置き去りにした男が、こんな場所にいるわけがない。
なによりあの翡翠が纏うものと、この青年の持つ雰囲気はまったく違う。
こんな場所に来たせいで、ちょっとセンチメンタルな気分になっているらしい…そう結論づけてひとつ頭をふると、花梨は歩きだす。

「かりん…?」

その足を、自分の名を呼ぶ声が止めた。
振り向いた先にいるのは、先ほどの青年。
無言のまま、ふたりの視線が絡む。

丘の上に吹く風が、その瞬間に…凪いだ。





「僕の家は代々貿易商で…まあ、それも曽祖父の代までの話ですが-----------
花梨の隣に立つ青年が、ゆっくりと口を開く。

「ずっと語られてきた伝説があるんです。
…天女を手に入れ損ねた男の話です。
望んだものが手に入らないことはないゆえに、物事に執着することのなかった男が、唯一手に入れたいと願った天女を、今度こそ手に入れるために千年後にもう一度生まれ変わると。
今年がその千年目で、まわりは僕がその男の生まれ変わりだと言います。

ずっと…そう聞かされて育ちました」

青年はそこで一旦言葉を切って、花梨を見詰める。
「だけど、僕は僕だ。 ……そうでしょう?」

昂ぶるでもなく淡々と語る青年の言葉に、花梨は静かに頷く。
僅かに蒼ざめたその表情を相手に悟らせぬよう、なにげなく足元に視線を投げるように少しだけ俯いて。

「千年も前の男のことなど僕は知らないし、その男が執着したという女がもし目の前に現れたとしても、今の僕には関係ない。
…でも、さっきあなたは僕を『ひすいさん』と呼んだ。
それを聞いた時、思い出したことがあるんです」





青年は語る。
ずっと幼い頃、いつの間にか自分の中に…おそらく自我が目覚めるのと共に目覚めて、何を主張するでもなくただ興味深げに世界を眺めていた、もうひとりの自分がいたことを。


ある夏。
一週間のキャンプへ出かけようという家族に、それを一番楽しみにしていたはずの自分が、絶対に行かないと駄々をこねた。
何故だかわからない。
家近くの海岸で、晴れた空を見ていたらそんな気分になった。

幼い子供の気まぐれだし行ってしまえば気分も変わるだろうと、出かけようとする両親では話を聞いてもらえず、曽祖父の元へ行った。
曽祖父はじっと自分を見詰め、頷いてくれた。
当時一族の長老的立場だった曽祖父のひとことで、キャンプは中止になった。
そんなことまで干渉するなと、両親はかんかんだったが。
気象庁の予測をあざ笑うかのように進路を変えた大型の台風が、三日後キャンプ先の地方を直撃した。

そんな出来事もあって、知らないうちにもうひとりの自分に本来の自分が感覚を支配されるような気分に捕らわれ、その存在を故意に意識しないようにしてきた。
そうして年齢が上がるにつれ世界は広がり、日々の生活に紛れてその存在すら忘れた頃。
風邪から肺炎を引き起こし、意識不明に陥った。

後で聞くと、とても危ない状態で、一時は生死も危ぶまれたという。

肉体と乖離した精神世界で、ずっと封じ込め忘れようとしていたその存在が、初めてむくりと身体を起こすのを感じた。
圧倒的なその存在感に打ち倒され…とうとうこの時が来たのだと自覚する。
もうひとりの自分と本来の自分が、入れ替わる時が来たのだと。

『…ここまでか。 しかたがないね…ひとつの身体にふたつの魂を存在させるのは、かなり無理があると陰陽師殿も言っていたことだしね…』
そう言うと、もうひとりの自分だったそのひとはゆったりと歩を進め、何事もなかったかのように身体から出て行った。
どこかで嗅ぎ慣れた香りが、ふぅわりと後を追う。
あっけにとられる自分に、微かな声だけが届いた。

『花梨の育った世界を見られた。 それだけでも充分だ…感謝しているよ』

青年は言葉を切る。
傍らの少女がいつの間にか顔を上げ、零れそうな涙を堪えるように真直ぐに海を見つめていた。






「生死の境をさまよった記憶はあるのに、そのことだけは今の今まで忘れていました」
不思議ですね…と青年が言う。

「あの香り…今思うと、曽祖父が好んで焚いていた香と同じでした。 
侍従、というらしいです」
ご存知ですか…?と問われて、花梨は頷く。
その途端ぽろりと零れた涙を、青年は黙ったまま見ていた。





彼は海原を渡る、自由な風のようなひとで。
なにものにも囚われずに生きている、そんな彼が好きだったから。
本当に大好きだったから…かりそめの自分で彼を愛することが許せなかった。

風は…捕らえた瞬間に風でなくなる。
いつも…どこまでも、自由に吹き渡っていって欲しかったから。
そんな自分に囚われて欲しくなかった。

だから、愛していると言えなかった。
そんな花梨を知ってか知らずか、翡翠も口にしなかった。





そうして、千年の時空を越えた風が、花梨の元へ届く。

「……ばかだなぁ…翡翠さんてば。
あなたを捨てた女なんか、忘れてしまえばよかったのに」
低く優しい懐かしい声が、どこからか応えるような気がした。
『私もそう思ったんだけれどね…どうやら駄目だったようだよ』

「……翡翠さんなんかより素敵な恋人、作っちゃうんだから」

『構わないよ。 私も娶ったしね…もちろん君に逢うための手段ではないよ? 
情熱というものを…君が教えてくれたから、ね』

「……そんなに好きになれるひとに、めぐり逢えたんだ」
『ああ。 …でも、君を忘れられなかった』

「……私は忘れるよ。 生きていかなくちゃ」
『…ああ。 君が君でいられるその場所で、君が幸せならば…構わないよ』

「……翡翠さん」
『なんだい、姫君』

「……だれよりも、なによりも…あなたを愛してる」
『知っていたよ、花梨。
私も君を愛している』

「……さよなら」
『いつも君の幸せだけを、願っているよ』





花梨に届いた、あえかな風を追うように。
ゆるりと、止まっていた丘の上の風が動きはじめる。
今度は陸から海へ向かって。





夕闇が辺りを包み始めている。
送りましょうと申し出る青年に向かい、大丈夫だからと応えて花梨は深く頭を下げた。
はからずしも巻き込んでしまい、多少なりともその人格形成に影響を及ぼしてしまったことが心苦しくて。

頭を下げた少女に、青年は、あなたのせいではないでしょう?と笑った。
「僕はずっと、あのひとが天女に執着しているんだと思っていた。
だから、その天女とやらに出逢ったら…きっと身体をとられてしまうと恐れていたんです。
でも、違ったんですね。

あのひとは、あなたが千年の昔に置き忘れた心を、届けに来たんだ」


かりそめの身体と心。
あの世界に置いてきたものなんか、何もないと思っていたのに。
「ばかだなぁ、ホントに。
ちゃんと好きなひとができたって…言ってたくせに」
手をあげて前髪をいじりながら、苦笑まじりに花梨が呟く。

その手を、大きな掌が捕らえたと思うと、顔の前に影が落ちた。
状況を把握する前に、つ、と顎を軽く持ち上げられて、温かくて湿ったものが止まることを知らない花梨の涙を拭っていく。

驚く花梨の目前で、青年が照れたように笑った。
「僕の中に、もうあのひとはいないけれど…今のあなたを見たら、きっとこうするんじゃないかなと思って」
内心で、さすが翡翠さんの子孫だなぁ…と思うがそれは口にせず、苦笑を小さな笑顔に変える。
そうして、遙かな世界で龍神の神子と呼ばれた少女はゆっくりと顔を上げた。

青年に軽く頭を下げ、一年で肩先よりも伸びた明るい色の髪を、吹き始めた風に遊ばせながら歩き出す。
「もしまた会うことがあったなら…その時は『翡翠』のことを、教えてください。
…僕の、遠いご先祖さまのことを」

風に向かって歩き出した花梨の後を、そんな声が追って来た。





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いやはや、やってしまいました。
ごめんなさい(笑)。

思いっきり白状しますと、わたしがしょっちゅうお邪魔するサイトさまで、現代に帰ってしまった神子を千年の間待ち続けた友雅さんのお話を拝読いたしまして、さて、じゃあ翡翠さんならばどうするだろう…と、ずうっと考えていたものです。

そちらの友雅さんと神子は、ちゃんとハッピーエンドでございましたが…ウチのひとたちは…うーーん、これはやっぱりハッピーエンドとは言わないですよね?

っかしいなぁ、絶対幸せにって思ってたんですけども…。


お話の中には書きませんでしたが(てか、どう組み込んでいいかわからなかった/汗)、翡翠さんが子孫の中に潜んで(笑)いたのは、きっと泰継さんに呪でもかけてもらったんだと思います。
ちゃんと愛する奥さんを娶って、子供も作って…多分その子が5歳くらいの時に、もういいだろうと、残りの命をかけて千年後の世界に魂だけを送ってもらったんじゃないかなぁ…って。

そんなんは「翡翠」さんじゃないや〜、と思われたらごめんなさいです。
わたしも、らしくない翡翠さんだなぁ…と思います。


なんにせよ、わたしの読みにくい&わかりにくい&自己中な文章に、ここまでお付き合いくださいまして本当にありがとうございました。



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