雲間の光

金剛夜叉明王の試練を無事終えた翌日の朝、早々に翡翠が迎えに訪れた。
夕べの寝物語で、花梨が明王の試練を終えたご褒美に、二人でどこかへ出かけようと約束したのだ。考えてみると、翡翠と二人で出かけるのは、こういう仲になってから初めてのことだった。
・・・初デ−ト・・・って、やつ?
館を出て、ほんの少しだけ先を歩く翡翠の肩を見上げながら、押さえても湧き上がる嬉しさに花梨は頬をそっと押さえた。
翡翠が花梨を伴って訪れたのは、鳥羽離宮だった。
ここの庭園の菊が、それはそれは見事なのだよ・・・そう言って、花梨の手をそっと取りゆっくりと庭園の方へ歩き出す。
と、薄曇りだった空がにわかに濃さを増し、あれよあれよという間にぽつり、と雫が落ち始めた。
「あ・・・・。」
二人が立ち止まり空を見上げると、途端にざあっと大粒の雨が降って来る。
「ひゃっ。」
慌てて、翡翠は大きな袖の中に花梨を包み込み、半ば抱えるようにして庭園へ続く散策道に据えられた、東屋の中に飛び込んだ。
「す、すごい・・・雨・・・。」
外は、土砂降りの雨に煙ったように見える。あちこちで、大慌てで木立や他の東屋に飛びこむ人々の様子が影絵のように見えた。花梨の濡れた髪を、翡翠は衣の袖で拭ってやった。
「やれやれ、何とも無粋な雨だねぇ。」
寒くないかい、と雨を見上げる花梨を背中からそっと抱きしめた。
「あまり端近に出ると、濡れてしまうよ。」
ん、と花梨が小さく頷く。翡翠の胸に、やんわりとした重みが掛かった。雨に見入っている花梨の顔を覗きこんだ拍子に、翡翠の髪から雨が一滴、紅い唇に落ちた。
「・・・っ、びっくりした・・・。」
笑いながら、花梨が翡翠に顔を向けた。下唇に乗ったままの雫に目を細めると、翡翠はそっと唇を寄せる。
「ひ、ひすいさんっ。ちょ・・・っ。」
花梨はじたばた身をよじる。
「ん−?」
がっちり花梨を抱きしめる腕からは逃れられそうもない。
「こ、こんなとこで、ダメですっ。誰かに見られたら・・・わっ。」
「大丈夫だよ。皆、雨に気を取られてるだろう?それに、この東屋には私達だけだよ。
ね、誰も見てない。」
「いや、そういうことじゃなくて・・・外ではマズ・・・ああ!む、向こう側から見えますよ!」
花梨は必死に翡翠の甘いささやきと手をかわそうとする。しかし、それも限界に近づきつつあった。
「このひどい土砂降りが、帳になってくれるよ・・・ね、花梨・・・。」
頬に置かれた手がそおっと髪をかきあげ、剥き出しになった耳たぶの上辺りに翡翠の濡れた唇がおちた。
「ひゃ・・・っ。」
まずい!このままじゃ・・・・っ。花梨の脳細胞が、必死にこの場の雰囲気を変える一言を速攻で探り始めた。
「あああああのっ、翡翠さん!話、話しましょう!?」
大きな二つの手が水干の下に潜り込み、それぞれが勝手に花梨の身体をまさぐり始めていた。花梨は思いきり両手を突っ張って、翡翠を引き剥がした。
「話・・・・・?」
「そ、そう。お話・・・ね?」
すうっ、と翡翠の目が細くなり、きらり、と光った。
「いいよ、話して。ちゃんと聞いていてあげるから。」
にっこり笑ったその顔に、花梨はうっかり騙されそうになった。が。話していいと言いながら、再び翡翠の手が頬に・・・そして唇も・・・近づいて来た。
「いや、だから・・・・っ。話してって・・・口塞がれたら話せないじゃないですか!」
頬を翡翠にがっちり挟まれて、花梨はがっしりしたその手首を思わず掴んだ。
「そう?じゃあ、黙っておいで。」
そうじゃなくってぇ−!花梨は心で絶叫した。
その時。まだ頑張っていた僅かな脳細胞が、花梨に信号を送ってきた。
「そ−だ!翡翠さんっ。あたし、翡翠さんにどおしても聞きたいことがっ!」
唇が触れ合うまであと数センチ・・・そこで翡翠の動きがぴた、と止まった。
「聞きたいこと?どうしても?今?」
こくこくこくと花梨は頷いた。
「ふうん・・・余程重要なことなのだろうねぇ。」
花梨から手を離すと、翡翠は腕を組んでじろりと見下ろした。花梨の頬がひくっ、と引きつった。
まず・・・い・・・か、も・・・。
「あと五つ数える間に言ってごらん。ありふれた質問だったら・・・許さないよ。」
翡翠は細い顎に手をかけると、ついっと花梨の顔を上向かせた。
「一・・・二・・・」
カウントが始まった。花梨の脳みそは既に白旗を揚げている。
こんなことなら逆らうんじゃ・・・・っ。
「四・・・・・。」
「!!そうだっ!ひひひっひ、すいさんの誕生日って、いつぅ!!?」
再び唇まで数センチ。至近距離で、翡翠の瞳がぱちくり、と瞬いた。
「・・・・なんだい、それは・・・・・。」
良かった・・・ビンゴ・・・。
花梨は内心額の汗を拭った。止めていた息が、すごい勢いで花梨の身体から抜け出していく。
東屋に置かれた腰掛に座り、花梨は”誕生日”について説明した。
ところが、それに対する翡翠の答えはひどくあっさりしたもので・・・
「さぁ、ねぇ。知らないよ。」
と、いうものだった。
「生まれた年は・・・まぁ覚えてはいるがねぇ、ここでは天子さまでもなければ、生まれた月日まで記録などしないよ。」
「そっかぁ・・・。」
少しだけがっかりした様子の花梨を、おもしろそうに眺めながら翡翠は言った。
「生まれた日にちが、そんなに大切なのかい?」
「そりゃあ、だって・・・翡翠さんが生まれてなかったら、今こうして一緒にはいられなかったでしょう?だ・・・大事な記念日じゃない・・・。」
真っ赤になって俯く花梨を、くすくす笑いながら、翡翠は抱き寄せた。
「ねぇ、花梨。この・・・末法の世で・・・生まれてきて良かった、と思っている人間は何人いるだろうね?」
花梨は思わず顔を上げて、翡翠を見た。二つの瞳は、まだ止まぬ雨の向こうを見つめている。
「私はね、君に出会えたから・・・この世に生まれてきて良かった、と思っているよ。
・・・・・ああ、君はそう言うけれどね。なに、そう思う理由なんて、大したことではなくても良いと思わないかい?どんな小さなことでも一つ、自分が生まれてきて良かった、と思う理由があれば。だからね、生まれた日にちにこだわる必要はないと私は思うけれどねぇここに、こうして生まれてきたことに意味があるのだから。でも、どうしても君が私の生まれた日を知りたいなら・・・そうだ、ね。」
翡翠はすっかり乾いた花梨の髪を梳いた。さらさら流れる感触が指に心地いい。
「糺の森で、君と出会った日・・・その日が私の誕生日だよ。」
花梨の瞳がぱあっと輝いた。それを見て、翡翠もまた微笑んだ。
「ふふ・・・・それはそうと、花梨・・・・・君の・・・。」
翡翠が口を開きかけた時、花梨の視線がふと東屋の外へ向いた。と、途端に、あ、と声を上げる。
「翡翠さん・・・!見て・・・虹・・・!!」
何時の間にか小ぶりになった雨。その雲間から光が差し始め、その中空に、鮮やかな虹が一筋掛かっていた。
呆然と、しかし晴れやかな顔で虹を見つめる花梨の柔らかな頬に、明るい日差しが縁取りを沿えている。
「きれい・・・・ね、翡翠さん。」
「ああ・・・きれいだ、ね・・・。」
うっとり虹を眺める花梨を、翡翠は食い入るように見つめていた。
「・・・か、りん・・・。」
甘く、あえぐように自分を呼ぶ声に、虹に心を残したまま花梨は無防備に顔を向ける。そこへ、翡翠の唇が柔らかく降りてきた。
「んっ・・・・。」
軽いけれど、甘いくちづけ。驚く花梨に、翡翠はにっこりと微笑んだ。
「翡翠さん!」
「おやおや。これくらいで止めにした私の自制心を褒めてくれないのかい?つれない姫だねぇ・・・。」
真っ赤な顔をして、翡翠の衣を握り締める花梨を、軽くおどけていなす。むうっとしていた花梨の頬が緩み・・・くすっと小さい笑みが零れた。
「もお・・・。翡翠さん、菊見に来たんでしょう?早く行きましょう、ね?」
花梨は立ちあがると、翡翠の手を取り引っ張った。
「・・・ああ、行こうか。」
・・・・・もうすぐ、北の札が手に入るだろう。
泰継の見立てに間違いがなければ、その後京の時は動き出す。長すぎた秋が終わり、冬がやってくる・・・。
おそらく、今年の菊を見るのは今日が限りになるだろう。
来年の菊を、自分は何処で誰と見るのか・・・ふと、そんな思いにかられ、翡翠は頭を振った。
そんな先のこと、考える必要はないさ。
今、この時・・・君と過ごす一時だけで、私は手一杯だからね・・・・・。
しっかりと自分の手を握り締める、彼の白菊の横顔が。翡翠の呟きが聞こえたかのように、こちらを見つめ微笑んだ。
ねぇ、花梨。
細いその手を固く握り締めると、翡翠は花梨の足元の泥濘に注意しながら、庭園へ向かう歩みを進めていった。
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どうもぅ・・・(大汗)突発的に書いてしまいましたぁ。
今日の大雨見てたら、ほわんほわんと(笑)
ちっとも誕生日じゃないんです(爆)内容が。しかも、ウチの翡翠X花梨とも微妙に違うような。
一応、あの長編の中の一つのエピソ−ドとして書いたんですがっ。
差し上げた後は煮るなり焼くなり、プレゼントですから!・・・それ、逃げろっ!!