2003/02/14

 

私が初めて見た翼は父の背中に生えていた。

羽根は黒く、カラスの羽のようだった。その翼はボロボロで、今にも崩れてしまいそうで、羽の所々にどす黒い血がこびり付いていた。片方の翼を見ると、それは折れ曲がっていて、半分ぐらいしかなかった。猛獣に食いちぎられたような印象。
ほとんどの羽は取れていて、褐色の皮膚が所々に見えていた。


・・・痛々しかった。

床に寝ている父が咳をする毎に、その翼は力無く震えて、私はそれを見て・・・涙が出た。

もしかしたら、

もしかしたら、

この翼を取ってしまえば・・・・父はどこかに行かなくて済むのではないかと、私は願った。

泣きじゃくりながら、幼い私は父の背中のそれを必死で掴もうとしていた、しかし、それをつかめた事は1度もなかった。そんな私に怒りさえ覚えたほどに・・・。

そうしている内にも父の翼は日に日になくなっていった。まるで、毎日死神に引き千切られているように無造作に無くなって行く。

私はその時「自分には何も出来る事はないのだ」と自分を責めた。

 

母はよく泣いていた。父も悲しそうな顔をしていた。
しかし、父は1度も泣く事はなかった。私の前では凛として何かと戦っていた。

 

父の翼が最後の根っこまで食いちぎられた時、父は私達に何かを言ったような気がする。
やはり、母は泣いていた。その時、私は必死でちぎれて消えて行く翼の肉片を、父の背中に拾っては押し付けていた。

 

しかし、拾っているはずの翼の残骸は空気のように地べたに落ちたまま崩れて消えた。

 

最後まで私は何も出来なかったのだ。

 

 

そんな事は遠い記憶になった頃、私は1人の男性と出会った。中島さんと言う人だった。

私は彼の正直な志に惹かれ、彼もそれに答えてくれた。
私達は日々を重ね、心から信頼できる人と出会った事を感謝し合った。

 

私が自分の心の変化を感じた時、突如、私の背中にあるものを見つけた。

 

翼だった。

 

ちいさな翼だった。少し丸みの帯びた、桜色の翼で、羽毛がふわふわしていた。
そんなに嫌な感じではない。ちょっとがんばって羽根に触ってみようとした。すると、翼はくすぐったいかのようにピョコピョコうごいた。結局父の翼のように私はそれを触る事は出来なかった。

 

いつの頃からか、母の背中にも翼が生えた。
薄いブルーの、石膏のような翼だった。触ると自分の翼も冷たくなってしまいそうで、母の背中を触れる事も、直視する事もできなかった。

時々母の目からそらす事が増えてきた。

 

その翼が父のような病気で無い事は感じていた。でも、私達に何かあるという事は感じ始めていた。

 

 

結婚式当日、私は迷っていた。あんな母を置いて行く私に疑問を持ち続けて、母に話も出来なかった。そして、なんの答えもないまま朝を迎えてしまったのだ。

 

キッチンにいくと母は最後の食事を作っていた。
まだ翼はある・・・・以前よりもっと鋭く、細くなっているようにも見える。

母は何も言わずに、私に背中を見せていた。

 

 

何も言わないまま、私達は食事を済ます。

 

 

話をした事といえば「千恵子。中島さんは車でお迎えにきてくださるの?」と「ううん、自分でバスで行くよ。」だけだったような気がする。 私は言う事を考えながら、すべての言葉に意味が無いと感じていた。

 

玄関で別れを告げた気がする。これも何を言ったか憶えていない。

ふと、私は上目遣いに母の目を見た。まだ未練があった。母はちょっと驚き、少しした後、強い眼差しを私に向けた。

 

彼女の目は、息を呑むほど綺麗だった。

きっと父の凛とした目と一緒であっただろう。そして、彼女は私に言った。

 

「ご結婚おめでとうございます。・・・体には十分お気をつけて。 中島さん。」

 

その時、彼女の翼がキラキラと星の様に崩れていったのだ。彼女の目には、もう迷いも悲しみも無い。

 

 

 

・・・・やっと分かった。私にもその翼の意味が分かったのだ。

 

 

少しの沈黙の後、私の中の何かがサァッと春風と共に流されていった。

 

 

もう私の背中にも翼はないだろう。

 

私は、初めてまっすぐ彼女の目を見た。
そして私は彼女に微笑み、これから進む自分の道に1歩、足を踏み出した。

 

 

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