自分は本当に正常か?

 

2003年1月25日(月)

彼氏と買物に行った。歩いている途中に目的地のビルが見えた。今日は日曜日。私はビルの中にたくさんの人がいる事を想像して、彼にこういった。

「今、地震が起きて、このビルが崩れたら、何人の人が死ぬんやろうなあ」

その時彼は一瞬戸惑って、私にこう質問した。

「え?それって『このビルの中に何人の人がおるんやろう?』って言う意味やんな?」

 

私は頭が真っ白になった。

そうなのだ。私はそう言いたかったのだった。

 

自分はそう聞きたかったのに、その時まで私は前者の聞き方をずっとしていたのだ。
私は友人の言葉を思い出した。

「形容詞ってな、比べる物があるから存在すると思えへん?」

何気なく聞いていた友人の言葉が私の脳にこびりついた。つまり基本の何かがあってそれに対してそれよりか「明るい」・「美しい」・「重い」等を作り出して行く。

まるで「白」を基本とし、「赤」「青」「黄」などを作り上げて行くように。もしそれを「中心分散型」という事にすれば(この言い方がいいとは思わないが一応)私達の最初の会話は少し違う形になる。この場合基本の線があり、それから上と下に分かれる言い方、つまり、「陰と陽」ないし「正と逆」と言う風に二つの言い方しかない状態である。

よくよく考えたら言葉というのはこの「中心分散型」と「陰陽型」に分かれると私は思う。よく面接で「短所を長所に置き換える」という事をよく言うがそれは「陰陽型」に値する。

私達の話していた物は「何人の人が死ぬ」と言う話を「陰」とすれば、彼の「何人の人がいる」と言う言い方は「陽」に値し、その基本となる線の意味は「世間体」となる。と私は思うのだ。他人から見て「良い事」が「陽」、「悪い事」は「陰」と言う風認識されているような気がする。

世間では彼の言った言い方の方が重宝されるであろう。一瞬、彼が躊躇したのもそのせいである。しかし私は同じ事を聞いているのだ。
別にそのビルの人たちを殺したいわけではない。死んで欲しいと思っているわけでもない。
何故かその言葉が出ただけである。(崩れて死んで行く様は想像してしまったが)だからといって私は精神異常者で通院しているわけじゃない。普通に生きている人間なのだ。別に精神異常者が普通ではないとは言いきれないが、社会に乗り切れていない方もいる。

ところで、その言葉の「陰陽型」を人間の行動に変えてみるとどうだろう?

「人を愛する」事と「人を愛さない」ことの境界線も「世間体」なのだとおもう。別に悪い事ではない。その世間体の境界線がある事でその人の行動はすべて「良し」と「悪し」に分けられているだけなのだ。少なくとも私は思う。

では「人を愛する」と「人を愛さない」とで境界線を「相手も自分を愛する事を前提とした世間体」で比べると「人を愛する」方が「良し」とされるかもしれないが、「人を愛する」と「人を愛さない」とで境界線を「相手は嫌だと思っている事を前提とした世間体」で比べると「人を愛さない」方が問題が起こらなくて「良し」とされる。

つまり「境界線」と言うのはあってない物である。その人の好きに変える事ができる。という事である。

では「精神異常者である」と「精神異常者でない」は「世間体」の境界線がなかった時にどちらが良くて悪い判断が出来なくなった時、すべての人が「精神異常者」になってしまうという事だ。そしてまわりの目がなかった時その人は「精神異常者」でなくてただの「人」になるのである。つまり私は精神異常者であり、精神異常者でないという事になる。

ただ単に「世間体」から見て、私のさっきの言動は「人に迷惑をかけてないから」ということで「良し」とされたから(この場合は「死ぬとどうなるかと考えて行動を起こした」という事と「死ぬとどうなるかと考えて行動はしなかった」と言う風に比べる事が出きる)私は精神異常者にならなかったあるいは「犯罪者」似ならなくて済んだという事である。

しかし、行動はしなくても想っている事が精神異常者と一緒であれば私も精神異常者である。(この場合は「死ぬ事を考える」と「何人いるかかんがえる」を比べる)「世間体」に響かないだけの事である。

つまり、私は精神異常者なのだ。

という事を考えているだけで私は精神異常者なんだろうと思う。

そんな事を考えていたら。ビルの入り口についた。私はぼーっとしていたので彼は心配したようだ(ただ単に「なんじゃ?」と言っただけだが)。私は「この人もさっきの質問に関して『この女はおかしい』と思っているのかなあ」と思って少しへこんでしまった。

「さっきの質問の事やねんけど・・・。私って変かなあ?」

 

彼は「ん〜・・・?」と顎をさすって一言。「・・・・・・・・・・・どれ?」

 

 

あー・・・・・・・。あほでよかった。

 

 

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