高木浩久が依頼されて書いた原稿と暇な時に書いたものです。

01/1
スタッフ紹介へ ホームへ

「自立生活センター新発田」
 どうやって生きていくのか?これがはじまりでした。私は交通事故による中途障害者で着替え、食事、排泄、入浴など生活のすべてで他人の手助けが必要です。この自分の現状を理解した上でさまざまな情報を集めました。探しました。その中で自立生活運動と出会いました。自立生活センターは全国にあるのですが、新潟県には1ケ所しかありませんでした。そこに行けばとりあえず自立生活はできます。しかし、ないところではむずかしいです。私の住む地域にはありません。それならば自分の住むところに作っちゃえばいいんだということで仲間探しをはじめました。
 障害者が地域でどのように暮らしていけるのか?この答えは人間の数だけあります。その生活が良いのか悪いのかは他人が決めることではありません。その地域にあったその人なりのやり方があるのだと私は思います。私の答えはまだ出せていません。模索中です。
 私は考えました「障害のある私たちに何ができるのか?」そして、思い付いたことは、他人から介助を受ける気持ちを知っている、障害者には不便な街のことを知っている、福祉制度のことを知っている、ということでした。これらは、高齢社会での介護の質と専門性の大切さを地域の人と話し合える。まちづくりにおいて誰にでも(ベビーカーから重い荷物を持つ人、高齢者、障害者)使いやすくするにはどうすれば良いのかを地域の人と話し合える。使いやすい福祉制度、必要のない福祉制度、福祉制度の組み合わせで如何にうまく快適に暮らせるかを地域の人と話し合える。という私たちにしかできないことがあることに気が付きました。これらの事柄で地域社会とつながりを持ち、市民として、より豊かな福祉社会を作ることに少しでも役立てるのではないかと思っています。
 他にも、命の大切さや、事故の恐さや、人と人のつながりの重要さや、医療と福祉のことなども話し合えると思います。

「知る」
 昨年、あるところで身体障害者、知的障害者、精神障害者を対象とするアンケート調査に協力する機会がありました。その中の設問で「生活を暮らしやすくするために必要なもの」と尋ねたところ、障害別の上位3つの中に「障害に対する周囲の理解」が共通にどの障害にも含まれました。これ以外は、身体障害者が「必要なときに利用できる施設」、「友人、知人」。知的障害者と精神障害者が同じで「年金や手当ての充実」、「安心して相談できる人、所」でした。
 障害を持ったとき、本人も家族も障害への知識は少ないです。社会ではさまざまな資源が障害者を援助するために用意されている(まだまだ少なく利用しづらいが)しかし、せっかくある資源も知らなければ利用できない。知らなければ無いも同じです。つまり、情報を提供するところが必要です。今は至る所に相談機関があるのに欲しい人に欲しい情報はうまく届いていません。障害者は情報を求めているし、相談機関もそれなりに努力している。相談者は内容が多岐にわたり専門分化しているためにひとりではすべてを網羅できません。来談者は年々知識を増やし、尋ねたことを知らないと専門性が足りないと不信感を持ちます。
 障害者は自分が自分の障害についての専門家です。そして、その障害の無いまわりの人はほとんどすべてその障害の素人です。その両者がふれあった時にもっと障害のことを知っていてもらえれば、気楽により深く人間として対等に付き合えるでしょう。私は対等になりたいために知ってほしいのです。障害への理解というのは当然1回では終わらずに、継続的に繰り返し何度も何度も説明し聞かなければなりません。これで良いということは無いでしょう。これは他の社会問題と同じことです。
 障害への理解が深まれば、外出時の人目が気になりにくくなり、外出しやすくなります。外出してお金を多く使うようになれば無視できない消費者となりバリアフリーが進みます。お金を使えば、もっとお金が必要になるので仕事を探します。雇用主の理解、社会の理解が進めば仕事が見つかりやすくなります。そのためには、継続的にそれぞれが各々の役割を果たすことが条件です。その第一歩が「知る」ことです。

01/1

「物質的な豊かさ」から「精神的な豊かさ」へ

私は保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学と教育を受けてくる間に、あらゆる種類の障害者と接することは皆無だった。授業でもそのような情報は得た記憶がない。唯一記憶に残っているのは映画「典子は今」を小学校のころ村民体育館で見たこと位である。当然、福祉については知識も興味も持たなかった。それが突然の交通事故によって首の骨を折り、頚髄損傷という上下肢不自由の一級障害者になった。失ったものと将来のことを冷静に考えると解決方法が見つけられない。とりあえず目先のことを一つ一つこなしている。最初に、与えられた治療とリハビリテーションを与えられるままにこなした。損失したものと現在の自分の状態とを受け入れるための猶予期間であった。この段階で止まったままの人も数多くいる。人が人を助ける。なぜ人間は人間なのか、このときに感覚でわかる。家族、以前からの友人、学友、そして、新しく出会っていく人々によって今も支えられている。同じ障害を持つ人に疑問と不安を聞くことで少し落ち着けた。そうする中で、現状を自分なりに把握し目標が設定できると、問題点が浮かんでくる。そして解決方法を見つけ出すために情報が必要である。適切な時期に必要とする情報が得られたときに、その情報は大きな意味を持つ。なぜならば、その情報に出会うまでに支払わさせられる金、時間、労力が次の目的のために蓄えられる。それがうまく運んでいくことが効率が良いと言うことである。そうなることはそんなに多くはない。だから常にアンテナを広げておかなければならない。私の場合には福祉制度の知識が必要であったので、それまでに福祉に興味がなかったことは後悔の対象となった。人脈があると言うことは、困ったときにはあの人に話せば必要な情報が得られる、あるいは、解決してしまう。ことができる人がいることである。それが多ければ多いほど色々な出来事に対応できる。脱線しました。福祉制度を学ぶために通信制大学に編入して、福祉の奥深さを知ってに途方に暮れています。このことで有用な情報が得られていることも確かです。これが職業につながり、誰かの力になれればどんなに素敵なことでしょう。私の経験の中で言えることは、学校で統合教育が行われるべきことである。お互いを知らないことが障害の始まりであるからだ。「違い」と「障害」の認識の違いが原因の一つである。今はまわりと同じことが普通でありその状態にいることで安心でき、他と違うものを排除しているように思う。「普通」とはどうゆうことなのだろう?そして、「普通」であることにどんな利点があるのだろう?私にはこれといって思い付かない。それぞれの人に違いがあるからこそ多様な考え方があり、その中から新しいものが生まれ発展して行く。さまざまな人間の存在を知り認めることで、自分自身の存在を認めることができる。障害にも接し方がわからずに固まってしまうこともなく、必要なだけ手助けをして自然に交流できる。これは異文化の人、国籍の違う人などでも同様のことが言える。人は失ってから失ったものの大切さを知る、どんなに忠告をしても忠告された本人がその場に置かれないとその言葉の本当の意味を知ることはできない。(ただし、ロールプレイングをすることで疑似体験ができる。)そのため人は後悔を繰り返す。これは仕方のないことだが、ここから何かを見つけられればそれで良いと思う。後悔を恐れて失敗を恐れて何もやらないよりは、ずっと評価されて良い。人は人から褒められて意欲が増し、人は人から頼られることで意欲が増し、行動でき、自分自身の存在を認めることができる。人から相手にされず(意識して意識せずに関係なく)自分自身の存在に疑問を持ち、精神的に不安定な状態になる。社会的な動物と言われる所以である。貧しい頃は一生懸命に働いてその報酬としてのお金で物を手に入れて満足していたが、物質的な豊かさの欲求が満たされつつある日本において、次に、いや、本当に満たされるべき欲求は「こころ」あるいは「健康」である。人からの信頼や失ってしまった身体機能はお金では満たすことはできない。日々の生活の積み重ねでしか信頼は得ることができない。身体機能は事実上回復は無理であり、残された機能で補い、これも日々の生活の積み重ねで維持していくしかない。物以上に手に入れにくい。しかし、誰でもが提供者となることができる。例えば、障害があったとしても話を聞いてほしい人の話は聞ける。このことで話を聞いてもらった人は欲求が満たされ、話を聞いた人はその欲求を満足させた提供者である。簡単なことのようだが、時間に追われている人には立ち止まってゆっくりとじっくりと話を聞くことはできない。つまり、誰もが助けを求める可能性があり、誰もがその提供者となる可能性がある。不必要な人間はひとりもいないということである。
 違いがあるので差別を無くすことはできないと思う。障害者同士でも差別はあるし、私自身は正直言って差別を打ち消すことができない。存在と意義を認めることで調整がつけられると思う。
 私は祖母と両親、兄、妹の家族の中で成長した。障害を持つ前と持ってからは変わった。変わりたくないと思っていても周りに目を向けなければ生きていけない、やりたいことも生活、時間、介護、体力等の理由で制限される。気付かなかったことに気付かされた。例えば、車椅子での生活、病院のこと、福祉のこと、情報のこと、 

「大切なもの」

 私の「大切なもの」は「健康な家族」です。本当に困ったとき、つらいときに支えてくれ、現在も私を支えてくれている最も大きな要因です。家族のお陰で安心して生活できます。理屈では説明のつかないくらい、お世話になっています。「もの」にはそれぞれ思い出がしみこんでいます。しかし、思い出のもとになるのは「人」との出来事であり、本当は「その人」が大切なのです。「もの」は失ってもあきらめがつきます。(「本人」も「思い出のもの」も二度とは手に入らない場合を除いて。)私が今、失いたくないものが、「健康な家族」です。誰でもが絶対に失いたくはないのですが、いつかは絶対に失ってしまうものです。だからこそ存在の尊さを理解して、今を少しでも楽しく生活したいです。「健康な家族」を悲しませることのないように、私自身も健康に気を付け、命を大切にしたいと思います。
 もう一つ「大切なもの」は「友」です。「友」もまた、私を助けてくれる。救ってくれる。叱ってくれる。元気づけてくれる。「友」とは何であろうか。人生の中で偶然出会い、話し、争い、酒を飲み、苦楽を共に経験し、いつの間にか、お互いになくてはならない大切な存在となる。私が「友」と呼べる存在は片手の指で足りる。見知らぬ人達が楽しそうに話しているのを見ると、自分には数えるほどしか「友」はいないのに、なぜ彼らはあんなに沢山いて楽しそうなんだ。私は人付き合いが下手なのではないのかと不安になる。孤独に過ごす日々が長くなると、この思いは強くなる。しかし、気にしたって変わることではない。いつか出会いはやって来るので沢山の人と会おうと思い直すことにしている。孤独とは怖いもので、良いことでも悪いことでも、たいしたことのない一言が心に響くように変えてしまう。私の幸せは「家族」と「友」の笑顔である。
 もう一つ「大切なもの」は「欲」である。「欲」は私の生きていくための原動力である。なぜ生きるのかを考えると、単純に死にたくないからと思いついた。生きていく限り、暗く苦しい人生よりも、明るく楽な人生を送りたい。みんなそうなのではないだろうか。ただ気を付けたいのが、必要以上の楽や便利である。それに慣れてしまうと生活の質を落せなくなってしまう。その楽や便利が他人に迷惑がかからないのであればかまわないと思うが、そんなことは少ない。誰かの苦痛の上に成り立った楽や便利でもよいのだろうか。こんな偉そうなことを書きながら、私は便利の誘惑に勝てることはほとんどない。そのことを忘れさせる便利さは罪である。この便利で楽を求める「欲」と「必要以上の楽や便利は罪である。」という自己矛盾に悩む事が最近多い。新聞やテレビやラジオで、このことにふれることが増えたからであろう。今はバランスのとり方次第で、ある程度負担を軽減できると勝手に納得している。この無理な納得の上に、それでも「欲」は私の生きるための原動力であるという考えは変わらない。
 もう一つ「大切なもの」は「自分」である。さっきも書いたが、私の生きるモットーは明るく楽にである。生きていくには、まず、存在として「自分」がいなければ生きていけない。存在は事実として認めやすい。次に意識として「自分」を認めなければならない。どんな見かけ、国籍、性別、身長、体重、身体能力、精神などに他人と比べた場合にハンディがあろうとも、そのことを違いであり、違っていて当たり前、同じ人間などクローンしかありえないと考えれば、「自分」の存在を意識としても認めることが出来る。そして、他人にも「自分」を認めてもらうことで精神が安定する。他人から見れば気付きにくいが、他人に「自分」を認めてもらっていると実感することは難しい。特に孤独に陥ってしまったときが難しい。この実感がないと、「自分は何者であり、何のために生き、存在価値はあるのだろうか。」という自己の存在否定的な考えを持つ危険がある。これを防ぐためには、事あるごとに声をかけ、「私はあなたのことを気にしています。」という信号を送り続けることが簡単でも効果がある。
 もう一つ「大切なもの」は「健康」である。「健康」の大切さは失ってからしか理解できない。「百聞は一見に如かず」の諺と同じである。どんなに「健康」の大切なことを、「健康」な人に言っても伝わりにくい。それでも「健康」は大切である。身体の調子がすぐれないと、心の調子がすぐれなくなる。当然、逆もある。運動能力や仕事能力などの身体能力全般が低下する。このことは本人・会社・学校・友達・敵など全てのこと・ものに、不満を残す。さらに、調子の悪いのが他にもうつってしまう。良いことは全くない。逆に、「健康」で調子が良ければ、笑顔が出る。笑顔は他にもうつって、全てを良い方向にかたむける力がある。これを考えただけでも「健康」であるべきである。
 以上、思いつくままに私の「大切なもの」をあげてみました。皆さんの「大切なもの」は何ですか。機会があれば教えてくださいお願いします。最後まで読んでいただきまして、どうもありがとうございました。あなたと御家族と御友人の健康を心よりお祈りします。

 

「車椅子」のこと

 中学生が真夏の暑い盛りに一生懸命廃品回収をし、善意で車椅子を寄付することがあります。また、企業が社会貢献の一環として地域に利益の中から車椅子を寄付することがあります。どちらも有意義で素敵なことです。
 多くの人は眼鏡や衣服や靴を選ぶときは、デザインと自分にあったサイズと価格を確かめてから購入すると思います。車椅子使用者が車椅子を購入するときも同様です。毎日使うものなので、ないと日常生活すべての場面で困ります。また、自転車と車輪の数はあまり変わりませんが、身体にあわせた(オーダーメイドの)車椅子は高価で滅多に購入できる品物ではありません。国と県と市町村の福祉予算から補助をいただいて作るのが一般的です。そのため慎重にサイズやメーカーや色を選びます。失敗は許されません。それでも中々身体にはしっくりきません。身体にあっていない車椅子を使用すると、必要以上に身体に負担がかかり動きにくく、長時間の使用には不便で床ずれや腰痛のもとになります。
 寄付される場合はどのように車椅子を選んでいるのでしょうか。特別養護老人ホームなどで車椅子を使用する人の体格は十人十色ですので、ひとりひとりにあわせてあるべきであると思います。ところが現実は、「標準タイプ」と名付けられた車椅子が使われていることが多いのではないでしょうか。使う人の身体にあわせて作られるべき車椅子であるのに、車椅子に身体をあわせなければならないことになります。このことは視力にあっていない眼鏡やサイズの違う靴を使っているようなものです。想像してみて下さい。うまく字が読めなかったり、ぶかぶかで走りにくかったり、小さくて靴擦れを作ってしまいます。使い物になりません。これと同様に、お尻に床ずれを作ったり、動きにくくて必要以上に使わなくなり、ベットに寝てばかりいて気が付くと体力が落ちてしまい動けなくなっていたということになりかねません。「標準タイプ」では身体の大きい人や小さい人には使いにくいです。車椅子を寄付するという行為は感謝と賞賛以外の何ものでもありません。しかし、もしも使用する人のことを考えていないとしたら、せっかくの善意も生かされずにホコリをかぶっているだけに終わりかねません。寄付する前にどんなものが欲しいのか必要なのかを尋ねてみても良いと思います。例えば、クリスマス前に両親が子供からそっとどんなものが欲しいのかを聞き出すように、友達にプレゼントをする前に何をもらったらその友達が喜ぶのかを考えるように、せっかく送ったプレゼントがガレージセールに並ばないように。
 皆さんここで勘違いしないで下さい。寄付した「標準タイプ」の車椅子が全然役に立たないということではありません。まったく同じタイプで同じ重さの車椅子でも空気のしっかり入った車椅子と空気の抜けた車椅子を乗り比べてみると、動きと操作性の違いにびっくりすると思います。自転車を想像してみて下さい。あれ以上に違います。また、左右の空気圧が違うと同じ力で車輪を押した場合に空気圧の低い方へ曲がっていきます。身体とすき間のある背もたれに座布団を入れたり、持ち手にゴムを巻いたり、手袋を使ったり、油をさしたり、お尻の左右のすき間にお風呂マットを張り付けたり、すこし工夫をすると同じ車椅子でも驚くほど動きやすくなり長く乗っていても疲れにくくなります。試しにいろいろな種類といろいろな状態の車椅子に乗ってみる事をおすすめします。寄付するお金がなくても、少し空いた時間に改造やメンテナンスのボランティアという方法も利用者と会話が生まれ喜ばれると思います。
 車椅子で外出するときに気になるのは路面と階段とトイレです。アスファルト、ブロックを組み合わせた歩道、砂利道、じゅうたん、芝生、雪道など乗り心地と路面の違いで動きやすさが全然違います。振動がひどかったり、自分で動けるところと誰かに押してもらわないと動けないところがあります。階段しかない建物を利用するときは、そこにいる皆さんの力で持ち上げてもらうしかありません。お願いするのは気が引けます。それでも頼んだときに快く引き受けてもらえると「また行ってみよう」と思います。トイレは誰にとっても必要なものです。利用しやすいトイレがあるところへは安心して出かける事ができます。逆に、初めて行くところなどでトイレが使いにくいとその事ばかりが気になり目的の事に集中できない事もあります。また、机の下に足が入らなかったり、畳の部屋で一人だけ車椅子で目線が合わなかったりもします。
 車椅子に乗っていて得をする事は、どこへ出かけても周りの人が珍しそうに見てくれます。ちょっと有名人になった気分です。ですから身だしなみにはとても気を使います。見ず知らずの親切な人が声をかけてくれます。電車などで目的地まで退屈せずにいろいろな話ができて助かります。車椅子を使う様になってから行った事はないですがディズニーランドなどで列にならばなくても優先してアトラクションが楽しめます。今度行ってみます。小さな子供と目線が合うので気付かなかった事に目が向きます。道ばたの草花にも接近しています。健康の大切さを知りました。
 不自由なところは沢山ありますが、車椅子の人がすべてにおいて可哀相なわけではありません。皆さんに助けてもらう事で大分減らす事ができます。社会環境を整備していけば誰でもが住み良い世の中になります。逆に車椅子の人が頑張っているのを見て、元気な人が勇気づけられる事もあります。様々な人が複雑にからみ合い、助け合っていくことで社会は変わっていくのだと思います。その第一歩として、すべての人がどんな人でも「人」として認めあい、対等につきあっていく事が重要であると思います。そのために勇気を出して一声かけてみて下さい。

スタッフ紹介へ ホームへ