<天に唾した阿部日顕> ウソ人生80年 

 

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<第1回> 禅寺墓

 前代未聞の大謗法「禅寺墓事件」が明るみに出たのは、平成3年9月のことだった。
 平成元年7月17日。翌18日の200カ寺の一環として建てられた福島市・開運寺の落慶入仏法要のために、福島を訪れた日顕は、前日、こっそり市内の曹洞宗寺院「白山寺」で、自ら建てた阿部家の墓の法要を行なっていたのである。
 この問題が宗教専門紙などですっぱ抜かれるや、日顕は、時局協議会に言い訳文を書かせたが、その内容は、明らかなウソばかりだった。
 まず日顕は、先祖の墓は「共同墓地」に建てられたものであり、「白山寺」の境内地でないと言い逃れを図った。
 ところが土地の「登記簿」「旧土地台帳」「墓地台帳」ののいずれを調べても、日顕建立の墓がある地点は、紛れもなく曹洞宗白山寺の墓地にほかならなかった。
 しかも、当の白山寺住職も、インタビューに対し、「ここは、共同墓地なんかではない」と明言しているのだ。
 また日顕は、墓の建立者についても大ウソをついた。「時局文書」で日顕は、こう言い逃れをしている。
 「(4代目の当主である)阿部賢蔵氏が、平成元年7月、先祖代々の墓地に新たに墓石を建立した」
 つまり、福島の阿部家当主である、阿部賢蔵氏が建立した墓であるというのだ。しかし、これが見え透いたウソであることは、墓石の文字が動かぬ証拠となった。
 「為先祖代々菩提 建立之 日顕 花押」
 題目の染筆だけではない。紛れもなく自分が建てた墓であることを日顕自身が墓石に刻んでいるのだ。
 日顕はかつての説法で、こう言っている。
 「せっかく正法に入っても、もしその墓地が間違ったところにいつまでもありますると色々な悪縁にひかれて‥‥だんだんと正法の信心が崩れていく」「要は‥‥正法寺院に墓をとって信仰に励んでいくことが大事でございます」(昭和60年1月29日)
 もはや、日顕のウソはすべて破綻。自らの過去の説法に照らしても、禅寺墓が紛れもなく日顕自身が犯した大謗法であることは、天下に明白であった。

 しかも、日顕が賢蔵氏に書かせた「お詫びとお誓い」なる文章によれば、福島の阿部家が先祖代々の墓を改修したいと考えていたことを耳にした日顕が、しゃしゃり出た形で、自分の名を刻んだ墓を建てたというのが真相なのだ。なぜ日顕は、この墓にこだわったのだろうか―。
 白山寺の墓は、もともと日開の生家である福島の阿部家「本家」のものである。しかし、日顕はそもそも、阿部家「本家」の人間ではない。
 日顕は彦坂スマ(後の妙修)の子。幼名、彦坂信夫(しのぶ)。スマは阿部日開が住職をしていた常泉寺で下働きをしており、日顕は昭和3年に出家得度するに際して、日開の子にしてもらい、「阿部」姓をもらったのである。
 もとより、日開の墓はすでに歴代法主の墓として大石寺にあるし、日顕の母・彦坂スマが建立した阿部家の墓も大石寺にある。日開自身が立てた日開の祖母・両親の墓まである。日顕が新たに墓を建てる必要などまったくない。
 また、どうしても新たに阿部家の墓を建てたいのなら、日顕は、コソコソと曹洞宗の寺に行くのではなく、大石寺の阿部家の墓を改修し、堂々と建立すればいいのだ。
 しかし、それでは日顕の野望は満たされない。日開から「阿部」姓をもらった日顕が、宗内を欺くためには、あたかも自分が阿部家の嫡流であるかの如く装う必要があった。
 その意味でも、「本家」の墓の改修は、自分が阿部家の嫡流であることを、「本家」の人間が認めたという既成事実を作る上で、日顕にとって、願ってもないチャンスだったというわけだ。何という虚飾≠フ世界だろうか。

 それにしても、一宗の法主が、なかんずく謗法厳誡の宗派のはずが、わざわざ他宗の寺に出向いて、自らの先祖の墓を建てるとは、とんでもない話である。
 日顕の所行は、まさしく「造仏読誦(ぞうぶつどくじゅ)」を唱えた17世・日精をもしのぐ、宗史に消えぬ汚点を刻印した大謗法にほかならない。かつて日顕は、日精の造仏読誦を批判した碩学(せきがく)≠T9世・日亨法主を文献が読めぬ愚か者′トばわりし、あろうことか日精に謗法はない≠ニ擁護する発言をしている。それも一度や二度ではない。要するに日顕にとって、日精は謗法の先師≠セったというわけだ。
 日顕が先祖の墓を建てたところが、よりによって禅天魔≠フ寺だったという事実。これも偶然ではなかろう。
 日顕は自らが刻んだ墓石の文字により、自身の正体が広宣流布を破壊する「天魔」であることを明らかにしたのである。

(2003.1.1. 創価新報)

 

<第2回> 相承詐称(上)

 日顕80年の人生において、最大にして、極悪のウソ。それが、日達法主からの相承を詐称して、作り話で猊座(げいざ)を盗み取ったことである。日顕がいかに奸知(かんち)をめぐらし、作り話で猊座を盗み取ったのか。改めて検証することで、その悪辣さは浮き彫りになる。

 昭和54年7月22日未明、「日達法主危篤」の急報が宗内を駆け巡った。
 当時、東京・向島の常泉寺住職だった総監・阿部信雄(しんのう)(日顕)も、午前3時に連絡を受け、車で寺を出て、早朝、病院(富士宮市)に到着している。
 午前5時5分、逝去。午前6時半過ぎ、日達法主の遺体は車で本山に戻った。
 本山に到着した日顕は、次期法主の座をめぐり、早速、、動き回る。この時の様子は、憂宗護法同盟著『法主の大陰謀』に詳しい。
 「日達上人の御遺体が大奥対面所に戻り、身内、関係者による読経が終わった直後のことだ。
 西奥番室に下がった遺族の細井珪道、琢道、そして日達師の娘婿の菅野慈雲等、数人が話をしているところに、午前7時15分から枕経の導師をすることになっていた当時の阿部総監(日顕)が不安そうな顔をして入ってきた。
 3人の顔を見るなり、『あと(相承)のことはどうなっているのか?』と切り出した。
 あきらかに相承についてのことだった。
 そこで菅野慈雲が、
 『総監さん(日顕)じゃないんですか?』と言って日顕を指さした。
 それは、『あなたしかいないではないか』という意味だった。その瞬間、日顕は、『あぁ‥そうかぁ‥』と呟き、複雑な表情をしたまま、考え込むような格好でゆっくりとうなずいた」
 遺族も何も聞いていない。日達法主の娘婿であり側近の菅野も何も知らない――。日顕は、この時点で、日達法主が誰にも相承をしないまま亡くなった≠ニ確信するのである。
 次の瞬間から日顕は狡知(こうち)をめぐらす。どうしたら自分が法主になれるのか――。というのも、このまま放っておけば、法主の座は早瀬日慈(池袋・法道院)の手に転がり込んでしまうからである。

 日蓮正宗の「宗規」には、以下の条文がある。
 第14条第2項「法主は、必要を認めたときは、能化のうちから次期の法主を選定することができる。但し、緊急やむを得ない場合は、大僧都のうちから選定することもできる」
 同第3項「法主がやむを得ない事由により次期法主を選定することができないときは、総監、重役及び能化が協議して、第2項に準じて次期法主を選定する」
 日達法主が、誰にも相承をしないで亡くなった場合、該当するのは第3項の条文となる。つまり、総監、重役及び能化が協議して選定されることになるのである。
 日顕は「信雄」の名の通り、能化になっていない、大僧都だった。
 協議で法主の選定が進められれば、次期法主は、まず能化から選定されるのが当然であり、そうすれば、大派閥「法器会(ほうきかい)」の領袖(りょうしゅう)であった宗内の実力者・早瀬日慈に落ち着くことは明らかだった。
 そこで日顕は、早瀬を封じ込めるために前代未聞の作り話をデッチ上げるのである。実は自分が相承を受けていた≠ニ――。
 午前11時10分、日顕は緊急重役会議を開催。
 そして、会議の冒頭、ありもしない相承が「あった」と大ウソをついたのだ。
 「今日までどなたにも秘してきたが、実は昨年4月15日、総本山大奥において猊下と、自分と、二人きりの場において、猊下より自分に対し内々に、御相承の儀に関するお言葉があり、これについての甚深の御法門の御指南を賜ったことを御披露する」
 まさに日顕は異常なまでの法主への執念と大陰謀で、まんまと猊座を盗み取ったのである。
 もちろん、この「53年4月15日の相承」というのが、まったくの作り話であることは言うまでもない。これが偽りの67世・阿部日顕誕生の真実なのだ。

 宗門の命脈であるはずの「相承」を平然と詐称して、ウソで猊座を盗み取った日顕。その罪の重さは計り知れない。
 宗祖大聖人は日興上人への相承にあたり2通の書面を残している。「身延相承書」と「池上相承書」のいわゆる二箇相承≠ナある。
 「身延相承書」では、「本門弘通の大導師たるべきなり」と、この仏法を弘める指導者としての、法主の使命を明確に記している。
 そして「池上相承書」では、「身延山久遠寺の別当(べっとう)たるべきなり」と、リーダーとして、一つの教団を管理・統率し、大法を更に弘通すべき役目を任じている。
 いずれも、広宣流布のために弘教の先頭に立ち、一切衆生の幸福のために身を捧げて奉仕する「使命」と「責任」の付嘱(ふぞく)にほかならない。
 ところが日顕は、そうした清新な決意とは正反対の薄汚い「権力欲」に狂い、デッチ上げの作り話で猊座を盗み取ったのである。宗門の歴史上、猊座をめぐっての様々な醜い抗争はあったが、自らの欲望のためだけに、ありもしない相承を「あった」と偽って登座した法主など、日顕をおいてほかにあるまい。
 しかし、こうしてウソをついて登座したことによって、相承をめぐる裁判でも何の証拠も出せぬなど、日顕は永遠にその弁明のために、のたうち、苦しまなければならなくなったのだから、まったくの自業自得である。
 そればかりか、前代未聞の相承詐称*@主・67世阿部日顕一人によって、教義も先師の事跡も次々と破壊され、日蓮正宗全体が破滅に導かれたのである。

(2003.1.15. 創価新報)

 

<第3回> 相承詐称(下)

 昭和54年7月22日、日達法主急逝直後の遺族らとの密談で、日達法主が誰にも相承をしないで亡くなったことを確信した日顕は、実は前年の昭和53年4月15日に、自分がすでに相承を受けていた≠ニいう、とんでもない作り話で猊座を盗み取った。
 では、なぜ日顕は、でっち上げの相承≠フ日を「昭和53年4月15日」に設定したのだろうか。
 誰も知らない二人だけの時間。話に信憑性を持たせるためには、場所は大奥でなくてはならない=\―。日顕は、日達法主が必ず本山にいる日に思いをめぐらした。

 日達法主が本山に必ずいるのは、正月や虫払、御大会、教師講習会や寺族同心会の時‥‥。しかし、それらの行事の時では、あまりに人目がありすぎる。
 4月15日――。この日も必ず日達法主が本山にいる日だった。誕生日だからである。毎年誕生日前日の14日には、祝賀会を行い、夕方には、大坊の所化たちにウナギのかば焼きをふるまうのが恒例となっていた。そして、15日は日目上人の御講日(目師会)でもあり、日達法主は必ず御影堂で導師を務め、その後、塔中住職らのお祝いの言葉を受けるのが常だった。つまり、この日は他のスケジュールは入れず、確実に日達法主が本山にいる日であることを、日顕は熟知していたのだ。
 しかも、昭和53年のその日に設定したのには、わけがあった。実は、その年の前半、日達法主が体調を崩して入院したことがあった。
 当時、宗内には日達法主の病状に関する正確な情報がなく、一部では憶測から後継者≠フ問題が取り沙汰された時期でもあった。
 そのことを知っている日顕は、この時期に日達法主が自分に相承をしたとしても、状況的に十分、説得力があると踏んだのである。
 こうして日顕は、傲岸不遜(ごうがんふそん)にも「昨年4月15日に2人だけの場で相承があった」と、ありもしない、まったくの作り話を平然と述べたのである。

 では実際、「53年4月15日」とは、どんな一日だったのか。憂宗護法同盟著の『法主の大陰謀』で検証されている、この日の日達法主のスケジュールは以下の通りだ。

 ▽午前0時 大客殿にて丑寅勤行。終了後、大奥で就寝
 ▽6時30分 起床
 ▽7時 御影堂にて第三祖日目上人の御講の導師を務める。約1時間で終了
 ▽8時 御講終了後、塔中住職が大坊を訪れ、誕生日祝いを受ける。その後、大奥へ戻り朝食
 ▽9時30分 誕生日のお祝いのため、大石泰成(当時、妙蓮寺・蓮一坊)、三宅統道(同、蓮二坊)、山口範道(同、蓮光坊)の三人が目通り。それぞれの坊の近況などの報告もあり10分から15分の目通りに
 ▽10時前 この日、午前9時から本山・本住坊で結納を行った原田篤道(当時、静岡県袋井市・遠信寺)が婚約者、双方の両親、媒酌人・細井珪道と結婚の報告に訪れる。15分ほどで全員退室
 ▽11時 身支度の後、大石寺東京出張所(文京区・西片)に向け出発。西片に到着後、休憩
 ▽午後6時 都内千代田区内のレストランで家族、親戚縁者、宗門最高幹部ら約30人と誕生祝賀パーティー
 ▽9時 西片の出張所に戻り就寝

 以上が、当日の日達法主の行動記録だが、これでは、もはや厳粛な相承の儀式を行う時間などまったくないことは、明らかだ。
 日顕は、「(相承の形には)日常の師弟相対・常随給仕の中で次第に御法門が伝授されていく場合や、また一時に甚深(じんじん)の御法門が口伝(くでん)される場合や、御法門を認(したた)められた金紙(こんし)が伝承せられる場合など、様々な形があって一様ではない」(日顕校閲の宗門の言い訳文書)などと、ご託を並べて逃げ回っているが、そもそも、「昭和53年4月15日に相承を受けた」と明言したのは日顕である。ならば、この日の自分のスケジュールを明らかにした上で、「何時から」、大奥の「どの部屋で」相承を受けたかを示せば済むことだ。ところが、それが日顕にはできない。また、「当日の日記がある」と強弁したこともあるが、その日記とやらも、20数年間まったく出せずじまい。
 そればかりか、以下のように、逆に、日顕が相承を受けていないことを裏付ける証拠∞証言≠ェ次から次と出てくるばかりだ。
 ▽1年前に相承を受けたと言っている日顕が、日達法主逝去直後、遺族に「あと(相承)のことはどうなっているのか?」と尋ねた
 ▽相承を受けたという後も、「能化」になっていない
 ▽日顕自身、「早瀬日慈さんあたりが(相承を)受けているのではないかとも思ったが、待っていても何も言い出さないので、自分から言い出して登座した」と明言している
 ▽日顕登座を発表した椎名日澄(当時重役)も「猊下(日顕)も大変だねえ。ただ自分がそう言うだけで、相承を受けたという証拠が何もないんだから」と述べている
 ▽53年3月ごろ、日達法主が「阿部はとんでもない」「阿部はダメだ」などと発言。その年の夏にも後継を決めかねて、「跡がいないんだよ、跡が‥‥」と漏らしていた
 ▽日顕も53年2月7日、河辺慈篤に対し、「G(=日達法主)は話にならない」と悪態をつき、同年5月29日には、「ワシも日達法主に対抗して、仲間を募ろうと思うのだが‥‥」などと反逆心をむき出しにしていた――などなど、枚挙(まいきょ)に暇(いとま)がないのである。
 もはや日顕が相承を詐称したニセ法主≠ナしかないことは、誰の目にも明白なのである。

 昨年末、80歳になった日顕。宗門史上、80歳を過ぎて現役の法主だったのは、9世日有法主だけ。この日有法主も66歳で日乗に相承し、いったんは引退≠オている。80歳を過ぎた日顕が猊座にしがみついている現在は、宗門750年来ない異常事態なのだ。
 なぜ日顕は、相承をしないのか――。
 日達法主から相承を受けていない日顕には、誰かに譲ろうにも、譲るものがないのである。つまり、跡目≠ニ目論んでいる息子・信彰に相承したくても、日顕には、相承するものが何もないのだ。
 ゆえに、「シアトル事件」裁判で屈辱的な1審判決を何ら覆(くつがえ)せないまま、すべての訴えを取り下げようと、車イスの生活になろうと、猊座にしがみつくしかない。何という哀れな姿だろうか。この老醜こそ、権力欲に狂い、作り話で法主になった日顕の、自業自得の哀れな末路というほかない。
 また、仮に日顕が誰かに相承したと言い出しても、相承のないニセ法主≠ノ相承された坊主もまた、所詮ニセ法主≠ノ過ぎないのだ。
 たった一代で日蓮正宗をつぶした、偽りの67世法主・阿部日顕。宗門に残された道は、この「67世日顕」を歴代法主から「抹消」「除歴」する以外ない。

(2003.2.5. 創価新報)

 

<第4回> 豪邸漁り(上)

 都内の高級住宅地に次々と豪邸≠漁り、それが発覚するやウソを並べて「大石寺出張所」などとすり替えてきた日顕。この豪邸をめぐる姑息な辻褄合わせの数々は、この男が宗内のみならず社会をも平然と欺く悪質な大ウソつきであることを物語っている。

 平成7年2月13日、宗内に1通の宗務広報が配信された。「今般 東京都文京区西片2丁目の大石寺東京出張所を廃止し、下記へ移転いたしました。移転先 東京都世田谷区中町1丁目○番×号 以上」
 日顕が東京都世田谷区内の高級住宅地に豪邸を計画していたことが発覚したのは前年の平成6年2月の本紙報道だった。しかし、平成3年にプールつきの目黒区八雲の豪邸計画が頓挫している日顕は、その失敗に懲りたのか、ダンマリを決め込んでいた。
 ところが、平成7年2月9・10日と、「東京新聞」が、この豪邸取得に法的な疑義があることを連日報道。さらに10日発売の写真週刊誌は、疑惑を裏付ける領収書まで掲載、この問題を取り上げた。
 慌てた宗門は2月13日に先の宗務広報を出さざるを得なくなり、4日後の17日には取り巻きの坊主16人を集めて、形ばかりの開所式≠行った。
 しかし、宗内にも極秘で進められてきた、この世田谷豪邸が、実はとんでもないだましの館≠セったことが次々と明らかになる。
 その第一が、宗教法人法違反となる手続き無視である。関係者の証言によれば豪邸取得の経緯は以下の通りだ。
 平成5年10月、当時、神奈川県内に事務所を作るために物件探しを大石寺から依頼されていたA都市開発の社長に対し、内事部管財室職員の谷平明が、こう持ちかけた。
 「等々力(とどろき)、上野毛、尾山台あたりの高級住宅地に家を探して欲しい。予算は8億円。極秘で」
 この谷平、当時の日顕の金庫番$ホ井信量とともに、日顕の意を受けて不動産探しに暗躍してきた男。また政子の郷里である北海道島牧村の出身でもある。
 数日後、社長は23区内唯一の渓谷・等々力渓谷に面した世田谷区中町の物件を含む6件の資料を谷平に渡した。
 A社社長に対し、谷平から電話があったのは、それからわずか2日後のことだった。
 谷平「今、中町に来ている。まだ人が住んでいるようだが、本当に買えるのか。」
 社長「ここは、(価格が)高いですよ」
 谷平「奥様から『ゴー』がかかった。何が何でも買わなければならない」
 「奥様から『ゴー』がかかった」――。つまり、豪邸購入の指示は、日顕の女房・政子だったのである。しかも、物件を提示されてからわずか2日。そして、谷平は、これが「日顕の東京住まい」であることを社長に告げた。価格は6億3千万円。即決だった。その後の改修費用も入れれば7億円にものぼる。
 しかし、これは明らかにおかしな話だ。
 この建物、名目上は宗教法人「大石寺」の出張所である。宗教法人法では、予算・決算や、不動産購入その他の重要事項は、法人の責任役員会の議決によって承認されなければならない。こうした巨額の不動産購入や、そのための支出であれば、事前に責任役員会にかけるべきは法律上、当然である。
 ところが、政子は、宗教法人・大石寺にとって責任役員どころか、何の権限も持っていない。政子は7億円の支出の意思決定をする立場には、毛頭ないのである。
 しかも、代表役員・日顕を含めて4人しかいない責任役員の一人、井出潔氏は豪邸計画のことも、そのための巨額支出のことも、購入が決められてから約1年も経った平成6年9月の段階で「知らない。聞いたことがない」と答えている。
 つまり、「大石寺出張所」という名の世田谷豪邸の購入は、宗教法人・大石寺の責任役員会にもかけず、日顕と、何の権限もない政子が独断で行っていたのだ。これは明白な宗教法人法違反である。

 第2に、国土法違反となる届出のウソだ。
 大規模な土地の所有権移転においては、取り引き当事者の名義で国土法に基づいた届け出をすることが義務付けられている。しかし、A社の社長に対し、谷平は再三にわたって、こう命じた。
 「大石寺の名前は絶対に出すな」――。
 そこで、表面上は売り主とA社との取り引きということにして、大石寺の名は徹底して隠した。いわゆる違法なダミー買い≠ナある。
 また大石寺は、国土法の届け出規制が平成7年1月に緩和されたのをいいことに、実際には平成5年に売買が成立していたにもかかわらず、緩和後の平成7年1月であるかのような虚偽の売買期日を登記書類に記載した。これも、「公正証書原本不実記載」という、歴とした違法行為だ。
 しかし、日顕の目論見とは裏腹に、その後、実際の買い主がA社ではなく、大石寺であることが当局に発覚。東京都と世田谷区が調査に乗り出し、A社、大石寺ともに事情聴取を受けるハメになり、新聞、週刊誌がこの問題を追及した。
 姑息な大石寺側は、当局の聴取の際、A社にすべての責任を転嫁。さらにダミー買いに動いたA社に対し、その後の建物の改修などを発注し、利益を与えることなどを明記した「業務協定書」まで反古(ほご)にした。怒ったA社社長は、取り引きの真相を記した書類を区に提出。大石寺側の違法行為は明らかだった。

 第3に日顕は、宗内に対しても大ウソをついた。
 この邸宅が、日顕・政子の個人邸宅にほかならないことは、そのつくりを見ても明白である。大石寺出張所といいながら、この建物には1階に小さな仏間があるだけ。ほかは狭い部屋ばかりで、会議室も、多人数の来客に対応できる部屋もない。
 一方、庭に面した浴室は、浴槽のみならず全面は古代桧(ひのき)を使用。古代桧は桧の中でも最高級建材で、温泉豪遊が染みついた日顕・政子ならではの趣味だ。
 また、約30畳の2階のリビングには、作りつけのバーカウンターまで備えられている。なぜ、宗教施設に、こんな設備が必要なのか。
 しかも、開所式の翌日の平成7年2月18日、本山で阪神大震災被災者の法要を行った日顕は、この大震災を出張所移転の言い訳に利用。
 「(西片は)昭和3年の建物ですね。‥‥非常に危険な状況です」と、あたかも地震対策のために、出張所を世田谷に移したかの如く言い繕った。
 これは、とんだスリカエである。日顕が豪邸計画を始めたのは、阪神大震災の1年3カ月も前。もし、西片が古くて危ないというのであれば、建て直せばいいだけのことだ。大震災の犠牲者を悼(いた)むべき宗教者が、その震災を自らの豪邸漁りの言い訳に利用するなど、言語道断である。
 このように、世田谷豪邸の発覚に慌てた日顕は、ウソにウソを重ねた。しかし、この世田谷もたった2年で廃止。日顕・政子は渋谷区松涛の大豪邸に移り住んだ。この事実をしても、世田谷をめぐる辻褄合わせが、その場限りの言い逃れに過ぎなかったことは明らかなのである。

(2003.2.19. 創価新報)

 

<第5回> 豪邸漁り(下)

 平成7年2月、自身と女房・政子の東京住まいのための世田谷豪邸を「大石寺出張所」と偽り、宗内外をだました日顕。
 ところが平成9年6月、日顕が新たな豪邸漁りを画策していることが発覚した。7億円の世田谷の豪邸に移り住んでから、わずか2年余り。まさに異常極まる強欲ぶりだった。
 今度は、都内でも一、二を争う超高級住宅地・渋谷区松涛。日顕の豪邸は、この街の中でも一等地にある敷地面積約350坪、最終的に総額26億円も注ぎ込んだ大邸宅だ。
 しかも、内外の目を欺くウソの手口の数々は、世田谷の時とそっくりなのだから、まったく悪質というほかない。

 @ダミー会社使い覆面買い
 その第1がダミー会社を使った覆面買い≠セ。豪邸漁りが後ろめたい日顕は、松涛の場合も「大石寺」の名前を隠してコソコソと画策。この邸宅の元の持ち主から、「Iハウジング」という会社に所有権を移し、同社の社有土地・建物として、親会社の「I建設」が改修工事をする形で豪邸計画を進めた。「大石寺」の名を表に出さないための覆面買い≠ナある。当時、土地と建物をあわせて15億円という。
 ところが平成9年6月18日、本紙がこの豪邸計画をスッパ抜くや、日顕は大慌て。約2週間後の7月3日には、出張所移転の宗務広報を出さざるをえなくなったのである。
 「今般、東京都世田谷区中町の大石寺出張所は下記住所へ移転したのでお知らせします。新住所〒150東京都渋谷区松涛○丁目×番△号」
 またしても、何の説明もない、突然の移転通知だった。陰で計画を進め、それがバレるや出張所移転の通知で辻褄合わせ。世田谷と同じやり口だ。
 ちなみに、この「I建設」の営業担当重役は、豪邸取得の大石寺側の窓口≠セった内事部職員・谷平明とは、大学時代からの友人。日顕は1年後に全面的に建て直すというのに、約1億円も使って建物を改修したが、この必要ない1億円が覆面買い≠ノ一役買った谷平の友人の会社への謝礼≠ニもいえる工事発注だったわけである。
 ともあれ、宗内にも極秘で進められてきた豪邸計画は、平成3年に頓挫した目黒区八雲豪邸の轍は踏むまいと、何としても豪邸を手に入れようという、日顕の浅ましい執念がにじみ出ている。

 A責任役員会の手続無視した宗教法人法違反
 二つ目が、責任役員会の手続きを無視した宗教法人法違反の手口である。
 豪邸計画が発覚した直後の平成9年6月23日、宗門は慌てて土地の所有権移転を法務局に申請した。ところが、この登記が違法購入疑惑を一層深める証拠≠ニなったのだ。
 登記簿によると、この土地は同年2月28日に、元の持ち主から「Iハウジング」に売買され、その後6月23日付で「大石寺」に所有権が移転されたことになっている。そして所有権移転の原因の欄にはこう記載されている。
 「真正な登記名簿の回復」
 すなわち、以前の登記名義が正しくないから、正しい登記名簿に回復するという意味である。これにより、さかのぼって2月28日にこの豪邸を取得したのも、「Iハウジング」ではなく「大石寺」だったということになる。
 ならば当然のことながら、2月28日より以前に、この不動産取得とその支出について、日顕は宗教法人法で定められた大石寺の責任役員会を開催し、そこで議決を得ておかなければならない。
 ところが、である。当時、大石寺責任役員の一人であった渡会弁治氏は、売買から4カ月が過ぎたはずの6月中旬の時点でも、松涛の出張所について、こう発言しているのだ。「知らない。聞いたこともない。噂も聞かない」
 つまり、松涛も世田谷同様、責任役員会の手続きを無視した、日顕の無断支出であることが明らかになったのである。これは明白な宗教法人法違反だ。正直な発言が日顕の逆鱗に触れたのか、直後、渡会氏は大石寺責任役員、総代をクビになってしまったのである。

 B総工費10億円の大邸宅を新築
 さらに松涛は、到底、宗教法人の出張所とは思えない、世田谷以上に贅(ぜい)の限りを尽くした大豪邸なのだ。もともと見事な日本庭園を備えた瀟洒(しょうしゃ)な建物だった邸宅を、日顕は平成9年の改修で、高級料亭を思わせる門構えや玄関、庭園のライトアップなど自分好みに作り替えた。ところが、それから約1年間、留守番の坊主が住んでいただけで、日顕自身もほとんど立ち寄らなかった。そして翌平成10年、日顕は木造の建物をすべて壊して、鉄筋コンクリート地上2階地下1階の大邸宅を建てた。
 まったくの私邸≠ナしかなかった世田谷から出張所を移転すると言った手前、松涛には形だけは本堂と称する部屋があるが、問題は建物の半分を占める日顕・政子の住居部分。延べ床面積170坪以上の住居は、まさに贅沢の極みなのだ。
 1、2階とも和風庭園をのぞむ形で設計された回廊には、最高級の松の銘木を使用。壁は京風の塗り壁。大理石張り風呂。約17畳の日顕専用の厨房には、1千万円は下らないシステムキッチン。厨房の隣に置かれた業務用冷蔵庫は、あまりの大きさに搬入できず、部屋の中で組み立てたという代物。これだけでも200万円はする。
 さらに天井、壁、床下には「備長炭シート」が敷き詰められ、工事関係者によれば、このシートだけで1千万円近くというのだから呆れた大散財だ。総工費はざっと10億円。つまり日顕は、豪邸取得に15億円、改修に1億円、そして新築で10億円と、松涛豪邸に合計26億円もの大金を湯水のように注ぎ込んだのである。これだけの大金があったら一体、いくつの寺が建つというのか。
 C白々しいウソで宗内を欺く
 このように、松涛の出張所の実態は日顕・政子の豪華邸宅であるのに、日顕はそれを糊塗するために宗内にも白々しい大ウソをついている。
 平成9年7月の入仏式で日顕は、こう挨拶した。
 「海外の人々も、日本にきた時に、(ここで)更に信仰を深め、種々の会合も執り行っていく」
 しかし、それから5年以上経つが、海外の信徒が、この出張所で会合を行ったなど、「大白法」にも「大日蓮」にも、1回も出てこないばかりか、話も聞かない。政子が、ここを根城に贅沢な買い物三昧をしているだけである。日顕は、もっともらしいことを言って、宗内をだましたのである。このように、日顕がウソにウソを重ねているのは松涛豪邸なのだ。
 日蓮大聖人は流罪された佐渡の塚原三昧堂の劣悪な環境について、次のようにつづられている。
 「上はいたまあはず四壁はあばらに雪ふりつもりて消ゆる事なし、かかる所にしきがは打ちしき蓑(みの)うちきて夜をあかし日をくらす、夜は雪雹雷電(ゆきあられいなずま)ひまなし昼は日の光もささせ給はず」(御書916n)。――こうした逆境の中にあっても、一閻浮提広宣流布のために決然と戦われたのが、大聖人の御生涯であった。
 それに対し日顕は、信徒の供養で贅の限りを尽くした豪邸を建て、のうのうと暮らしているのである。日顕が、大聖人とは無縁、否、正反対の堕落坊主であることは明らかだ。
 「出家」とは、文字通り世俗の家を出て、その執着を断ち切り、仏門に入ることである。ところが、平成3年には目黒・八雲豪邸計画、5年末には7億円の世田谷・等々力豪邸、そして9年には26億円の渋谷・松涛豪邸と、3年おきに豪邸漁り≠ノ狂奔してきたのが日顕だ。その浅ましい姿は、もはや、この男が「出家」を名乗る資格など毛頭ない。エセ出家≠ナあることを明白にしているのである。

(2003.3.5. 創価新報)