< 座談会 >

創価の宗教改革を語る

 

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永遠に消えぬ「破和合僧」の大罪
差別と暴力で人格を破壊
日顕宗は宗祖違背の邪教団

 

 

<上> 永遠に消えぬ「破和合僧」の大罪
参加者:青年部:棚野青年部長・橋元男子部長、青年僧侶改革同盟:菅原雄政氏・松岡幹夫氏・大塚法樹氏・植松雄増氏

 日顕の「C作戦」による宗門事件から22年、その正邪はもはや明々白々である。識者も、「SGI(創価学会インタナショナル)は『開かれた宗教』として192カ国・地域に広がり、一方で日顕宗は『閉ざされた宗教』として社会とは隔絶し、宗教団体が保つべき精神性を失っています」(兵庫教育大学・梶田叡一前学長、「第三文明」3月号)と評している。ここでは、棚野青年部長、橋元男子部長と「青年僧侶改革同盟」に語り合ってもらった。

棚野 1990年(平成2年)12月の第2次宗門事件勃発から22年余り。問題の経緯を知らない世代も増えてきている。
 宗門の悪の実態と、「創価の宗教改革」の足跡(そくせき)を、若い世代があらためて知る契機となるよう、「青年僧侶改革同盟」の皆さんを迎えた。
橋元 宗門事件の渦中(かちゅう)腐敗(ふはい)堕落(だらく)した日顕宗と決別し、「宗教改革」に敢然(かんぜん)と立ち上がった青年僧侶の皆さんによって結成されたのが「青年僧侶改革同盟」です。
棚野 以来、学会と(とも)に広布の第一線で活躍され、邪教と戦い抜いてこられた私たちの同志だ。後世のためにも、今一度、語り合いたいと思います。
改革同盟一同 よろしくお願いします。

聖僧を装いながら「広布破壊」を画策

橋元 宗門のどす黒い正体が浮き彫りになったのが「創価学会分離作戦」、いわゆる「C作戦」だ。
 世界広宣流布の道を開いた池田先生、創価学会に嫉妬(しっと)し、私利私欲に狂った日顕が、学会破壊と会員信徒の宗門への隷属(れいぞく)化をもくろんだ(だい)謀略(ぼうりゃく)だった。
菅原 90年(平成2年)12月、池田先生の法華講(そう)講頭(こうとう)からの罷免(ひめん)に始まり、翌91年(同3年)には、登山会(大石寺本山への参詣(さんけい))や御本尊下付(かふ)の停止など、謀略を進めた。
松岡 学会側は対話を求めたが、宗門は一切対話を拒否し、冷酷、横暴な本性をあらわにしてきた。
棚野 しかも日顕は、凶悪な恐喝事件を起こして懲役3年の実刑になった山崎正友とも陰でつながり、謀略をめぐらしていたことも発覚した。
大塚 そして、学会に「解散勧告」(91年<同3年>11月7日)、「破門通告」(同月28日)を一方的に送りつけた。
松岡 (のち)に明らかになった「C作戦」の実行計画書では、「学会員の中には、ノイローゼ状態に陥り、自殺・一家心中等の不幸が起きる可能性がある」などと想定していた。
橋元 これが本来、人の道を説き、信徒の幸福を祈るべき僧侶の考えることなのか。まさに狂乱の極みだ。「破和合僧(はわごうそう)」は、仏法上の重罪である五逆罪(ごぎゃくざい)の中でも、最も重い罪にあたる。
棚野 日顕以下、宗門の坊主たちは、こうした謀略を立て、実行に移した。その大罪ははかり知れない。
植松 日顕は、表向きには学会を賛嘆(さんたん)し、「池田先生の指揮において大書(たいしょ)すべきは、戦後の世界的な移動交流のなかで、各国に広まった信徒の方々を組織化した、世界広布への大前進が図られたことであります」(「大白蓮華」91年<同3年>1月号)等と語っていた。
大塚 その裏では聖僧(せいそう)を装いながら、(みずか)ら主導し、学会を切る広布破壊を画策していた。
橋元 恐ろしい二面性だ。「外には賢善(けんぜん)(あらわ)し内には貧嫉(とんしつ)(いだ)く」(御書21n)とはこのことだ。まさに「僭聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)」の姿そのものではないか。
菅原 90年(同2年)7月16日には、日顕は、腹心の八木日照、関快道(せきかいどう)、故・河辺慈篤(じとく)、現法主の早瀬日如(にちにょ)らを大石寺東京出張所(東京都文京区西片、当時)に密かに集めて、謀議(ぼうぎ)を行っていた。
大塚 いわゆる「西方会議」だ。ここで「C作戦」の基本方針が決まった。2日後には大石寺大書院で、その謀略を日顕本人が「C作戦」と命名した「御前(ごぜん)会議」が行われた。

「離山の書」を突きつけ大石寺と決別

植松 渡辺雄範(ゆうはん)さん(青年僧侶改革同盟)は当時、早瀬が住職をしていた大願(だいがん)寺に在勤していた。90年(平成2年)の春から夏にかけて、早瀬が頻繁に西片に行っていたと証言している。
 そうした自身の行動については「(父親の早瀬日慈(にちじ)以外には)絶対誰にも言うな」「知らないと言え」と口止めしていたそうだ。
松岡 河辺や早瀬が、学会攻撃のための資料をいろいろ蓄積して、準備していたという証言もある。
大塚 そういえば、90年(同2年)夏ぐらいから、本山での丑寅(うしとら)勤行の後、日顕を中心に何人かがそそくさと、いなくなる場面が何回か見受けられた。
 今から考えると、「C作戦」に関わった、関快道や福田毅道(きどう)らが、日顕の周りをウロチョロしていた。
菅原 日顕が直接、末寺に電話をかけ、学会を切った時に自分の側につくかどうかを確かめていたという証言もある。
 こうした宗門執行部の不穏な動きは徐々に下にも伝わってきた。ある坊主は、「これから学会と大変なことになりますよ、へへ。詳しく言えませんけど」なんて言っていた。
大塚 90年(同2年)秋の、大石寺開創700年を慶祝(けいしゅく)する文化祭のころには、さらに緊張感が高まっていた。
植松 学会は佳節(かせつ)を祝賀するため、盛大に文化祭を開催し、さらに総一坊(そういちぼう)、総二坊という建物まで寄進(きしん)してくださった。ところが、宗門は供養(くよう)を取るだけ取っておきながら、その陰でずっと「C作戦」の決行を狙っていた。何と悪辣(あくらつ)なのか。
棚野 当時の創価班の先輩に聞いても、皆、仕事をやりくりして本山に駆けつけ、不眠不休で準備にあたった。絶対無事故を祈りに祈り、真心を尽くして任務に就いていた。
 ところが坊主たちは、何の(ねぎら)いの言葉一つないどころか、挨拶(あいさつ)をしても無視。「こいつら本当に邪魔なんだよな」と暴言を放つ坊主までいたそうだ。
橋元 私も、当時のことを先輩に伺うたびに、はらわたが煮えくりかえる思いだ。
松岡 日蓮大聖人は、「当如敬仏(とうにょきょうぶつ)(まさ)に仏を(うやま)うが(ごと)くすべし)」との法華経の一節について、「最上(さいじょう)第一の相伝(そうでん)」(御書781n)と仰せだ。現実に広宣流布を進める学会員に最敬礼すべきであるはずだ。
橋元 ところが、自分たちが坊主であるというだけで、信者を虫けらの(ごと)く、見下(みくだ)す。こんなことが許されるはずがない。
菅原 宗門にいて分かったことは、坊主は常に「謀案(ぼうあん)(かま)えて」(同853n)、正義の人を(おとし)めようとする提婆達多(だいばだった)の命に支配されているということだ。大聖人の御精神ではない。
植松 私たちにとっては、学会の破門が宗門と決別する決定的な一つの区切りになった。
 仏意仏勅(ぶついぶっちょく)の団体である学会を嫉妬(しっと)と謀略で切った宗門。どちらが広布を進める教団であるかは明白になった。
大塚 私自身、離脱の最後の決め手になったのは、聖教新聞に掲載されている写真の学会員の皆さんの笑顔だった。宗門に、この歓喜の姿はないと実感した。
橋元 「(宗門機関紙誌の)『大白法(だいびゃくほう)』や『大日蓮(だいにちれん)』を見ても、幸せそうに見えない。聖教新聞とかを見ると、学会の人は皆、笑顔で本当に幸せそうだ」と言って、同様の理由で脱講する人も多い。
松岡 私は学会の庭で育てていただき、創価大学卒業後、広布への理想を抱いて、得度した。
 ところが、想像を絶する宗門の腐敗ぶりに、求道の息吹(いぶき)は打ち砕かれた。池田先生、学会員の方々を迫害する狂態(きょうたい)を目の当たりにし、このままでは、大聖人の御精神に背いてしまうと思った。
棚野 92年(同4年)3月30日、青年僧侶の皆さんは、ついに日顕宗との決別を果たした。皆、同期の僧侶をまとめる中心的なメンバーばかりで、信心や学業、人格に(ひい)で、仲間からの信望も厚かった存在だ。
橋元 最優秀の俊英たちが、10人もまとまって告発し、離山した。日顕に「離山の書」「決別の手紙」を突き付けた時の模様を教えてもらえますか?

顔面蒼白!呆然としていたニセ法主

植松 非教師(住職になる資格を得る前の僧侶)指導会に際し、全国の末寺に在勤する所化(しょけ)百数十人が日顕への目通(めどお)り≠ノ出席した。
菅原 席上、私は立ち上がり、大きな座卓の前に座っていた日顕の前に歩み出た。「いろいろ悩んできたことを(したた)めてまいりました」と、10人の連名で(つづ)った「離山の書」を日顕の前に置いた。
松岡 「教師に(あら)ざれば人間に非ず」といわれるほど、所化が軽視された世界にあって、前代未聞の状況だった。
 日顕は、座ったまま両手を机に広げた姿勢で、菅原さんを見上げ、動くこともできなかった。取りまきも呆気にとられ、何をしてよいか分からなかったようだった。
植松 仲居(=法主の秘書役)の駒専(こません)駒井専道(こまいせんどう))がようやく、「座りなさい」と大慌てで怒鳴ったが、所化を統括していた駒専の横暴は、普段から卑劣で度を越していた。
 私は、「黙れ、駒専! これ以上、我々の自由を奪うつもりか!」と叫んだ。
橋元 そして、「日顕、悪いのはお前だ!」との叫びを突き付け、一喝(いっかつ)したんですね。
松岡 その時の日顕は、「唖法(あほう)を受けたる婆羅門(ばらもん)」(御書21n)そのもの。
 目はうつろで真っ青になっていた。普段から、所化を怒鳴り散らし、殴りつけて偉そうにしていた日顕が、いざとなったら、ただ、うろたえるばかりだった。
植松 その後、同席していた所化たちから怒号(どごう)を浴びせかけられ、囲まれて羽交い絞めにされるなど、場内は騒然となった。
菅原 私はあらためて、日顕の前で正座し、真正面から直視してもう一度、「私たちが決意したことを(したた)めてまいりました」と、机上(きじょう)の「離山の書」を前に突き出した。
 そして、「これ以上、信心なく、慈悲(じひ)ないあなたには、ついていけない。すべての責任はあなたにあります」と告げたのです。
植松 日顕は、悪夢でも見ているかのように呆然としたまま、ただの一言も反論できなかった。「修羅(しゅら)のおごり帝釈(たいしゃく)にせ(責)められて無熱池(むねっち)(はちす)の中に小身(しょうしん)(なり)(かく)れしが如し」(同957n)との姿のままだ。
松岡 私は、日顕への「決別の手紙」を渡そうと歩みを進めた時、凶暴な性格で有名な所化に、(こぶし)で思い切り殴りつけられた。眼鏡が壊れ、左顔面に全治10日間の打撲傷を負った。宗門の暴力体質は、この時にも浮き彫りになった。
大塚 騒動が終わった後、日顕は相当、ショックを受けたんだろう。何回も「ワシャー、何があっても驚かん」と顔面蒼白で(つぶや)いていたそうだ。

1625万人が署名した「退座要求書」

棚野 700年余りの宗門の歴史において、所化が法主に向かって直々(じきじき)にその誤りを諌暁(かんぎょう)したのは、恐らく空前絶後でしょう。「宗教改革」の大きな歴史の節目となった。
植松 「法華経の(かたき)を見ながら置いてせめずんば師檀(しだん)ともに無間地獄(むけんじごく)は疑いなかるべし」(御書1056n)との思いでした。
松岡 「離山の書」には、大聖人の御精神を失った宗門、特に日顕への諫言(かんげん)(つづ)っていた。
 「暴走し始めた猊下(げいか)と宗門は、醜い自己保身と感情の(おもむ)くままに、『化導(けどう)』の責任と資格を(みずか)ら放棄し、広宣流布の推進団体である創価学会を破門するという、五逆罪中最重罪たる破和合僧の大謗法(だいほうぼう)を犯した」と。
大塚 まさに謗法の限りを尽くして腐敗・堕落し、大聖人から「破門」された宗門は、信者が全盛期の2%まで激減、いまや哀れな末路を辿(たど)っている。
橋元 宗門の脅しにも学会は微動だにしなかった。
 それどころか、「破門通告」から1カ月後の91年(平成3年)12月27日には、日顕に対し、世界中から集まった約1625万人の署名からなる「退座要求書」と突き付けた。
菅原 宗門の呪縛(じゅばく)から解かれた学会は世界宗教として、192カ国・地域に広がった。大聖人の御遺命(ごゆいめい)を実現しているのは学会だ。
棚野 「(つい)には一閻浮提(いちえんぶだい)に広宣流布せん」(同816n)との御金言(ごきんげん)のままに邁進(まいしん)してきた創価学会は、世界宗教としての歴史を開く、新たな飛翔の時を迎えている。
 大聖人の御遺命である世界広布の新時代へ、大躍進を開始したい。

(2013. 2.20. 創価新報)

 

 

<中> 差別と暴力で人格を破壊
参加者:青年部:橋元男子部長・西方学生部長、青年僧侶改革同盟:土井雄育氏・成田雄伴氏・石井信広氏・山口雄在氏

西方 「青年僧侶改革同盟」の皆さんが目の当たりにしてきた、日顕、宗門の実態について聞かせてください。
土井 まず、宗門の坊主には信心がまるでない。希望を持って得度(とくど)しても、無残にも初っぱなから打ち砕かれる。
山口 大石寺の大坊(だいぼう)は、本来、日蓮大聖人の仏法を研鑚(けんさん)した、広宣流布の若き「竜像(りゅうぞう)」(徳の高い僧侶)を陸続(りくぞく)輩出(はいしゅつ)すべき場だ。ところが実際は、差別と暴力で、人格を歪められた所化(しょけ)を生み出すだけの病巣(びょうそう)となってしまっている。
成田 その典型が、「唱題」だ。「南無妙法蓮華経とばかり(とな)へて仏になるべき事(もっと)も大切なり」(御書1244n)、「日夜(にちや)朝暮(ちょうぼ)に又(おこた)らず磨くべし」(同384n)等とあるように、唱題は日蓮仏法の修行の根本だ。
石井 ところが、宗門ではどう教わるか。私たちが、唱題をしていると先輩の所化から「信者みたいなことをするな!」と叱られる。
土井 「僧侶が唱題をしていると、信者が見て『この坊さんは何か悩みがあるのかしら』と心配するじゃないか」などと真顔で説教する者もいた。
山口 その理由が、「袈裟(けさ)(ころも)を着ていれば大聖人と同じ姿をしているから、勤行・唱題しなくてよい」だ。
 これでは修行は不要ということになる。こんなのは信心ではない。
土井 要は、唱題嫌いの坊主たちが自身の堕落(だらく)を正当化するために考えた屁理屈だ。
石井 日顕自身も30分以上の唱題は弊害∞あげ過ぎると罪障(ざいしょう)を積む≠ニ公言(こうげん)していた。これが法主というのだから全く(あき)れる。

孫も陰では「ジジイ」呼ばわり

成田 こんなことがあった。私が本山にいた頃、日顕の孫の阿部正教(しょうきょう)が中学の夏休みに、1日2時間唱題をあげていた時があった。
橋元 あの正教にもそんな時期があったんだ(笑)。
成田 父親の阿部信彰(しんしょう)が、それを聞いて上機嫌になって、日顕に報告した。
 ところが、日顕は喜ぶかと思いきや烈火のごとく怒った。「そんなのは30分でいいんだ!」って(笑)。
 日顕に怒られた勢いのまま、今度は信彰が正教を怒った。「2時間は御前様(ごぜんさま)(日顕)が言うように題目あげすぎだ!」って(笑)。
土井 信彰は日顕のいいなりだからな。
成田 悩んでいた正教に私は、「猊下(げいか)も人間だから。大聖人の教えを根本に、やっていけばいいんだよ。2時間のお題目は唱えすぎだというのは、明らかにおかしいと思う」と率直に言った。
 そうしたら、正教は「そうだよね、やっぱりあのジジイ、おかしい!」って(笑)。
橋元 孫にまで信心の狂いを指摘されている。みっともないな。
石井 孫どころか、一般の所化も陰では日顕のことを「ジジイ」呼ばわりしている。尊敬なんかしていない。()(はい)も形だけ。全くの面従腹背(めんじゅうふくはい)だ。

止められぬ「瞬間湯沸かし器」

西方 日顕といえば暴力で有名。皆さんもその現場に立ち会ったと聞いています。
山口 立ち会ったどころか、何度も直接やられた。
土井 日顕は、何か気にくわないことがあると、一瞬のうちに逆上し、見境無く怒鳴り散らし、中啓(ちゅうけい)(=法主が持つ大きめの扇子(せんす))で、自分の気のすむまで殴っていた。素手で殴ったり、足で蹴る時もある。
石井 相手が中堅(ちゅうけん)以上の僧侶であっても、孫ほど年齢の離れた所化でもお構いなし。あれは異常というほかない。
成田 だから誰が言い出したかは知らないが、僧侶の間でも瞬間湯沸かし器≠ニあだ名されていた。
石井 自分で中啓ミサイル≠ネどと名付けて得意気になっていた。
土井 海軍時代に300人の兵隊を殴ったことを、得々と自慢していたこともあった。
 「50人くらいのところで、殴っている手が痛くなってきたが、途中で止められないので、最後まで殴ったんだ」と。
山口 得度して初めての丑寅(うしとら)勤行の時、私は日顕に声を掛けられたら、「一生懸命修行して立派な僧侶になります」と、決意を語ろうと期待に胸を膨らませていた。
 ところが、丑寅勤行が終わった後、大奥まで戻ってきた時、日顕のすぐ後ろにいた私は、振り返った日顕からいきなり中啓で、理由もなく頭をパンパン叩かれた。
土井 所化に何かを尋ねる際に、日顕がよくやる習癖だ。
山口 日顕が「お前は誰だ」と言うので、私は「山口雄在でございます」と応えた。すると日顕は激高し、「貴様は山口雄存だ」と叫び出した。
 私は全く意味が分からず、「いいえ、雄在でございます」と言ったが、日顕は狂ったように「何を! お前は雄存だ。分かったか。雄存だろ」とまくしたて、私の頭を何度も殴りつけたのです。
 私も最後には、「はい!」と日顕の勘違いに従うより他なかった。
西方 山口さんに雄在という名前をつけたのは日顕ですよね。それを失念しておいて言いがかりをつけるとは、メチャクチャですね。
石井 ことほどさように、日顕が言えば、白いものでも黒になる。まさにこれが宗門だ。
土井 私にもこんな経験がある。日顕の出仕(しゅっし)に同行していた際、日顕が通った後の門を閉める係をしていた私と松岡幹夫さんは、列から少し離れて後方を歩いていた。
 日顕は、その姿を見るや、私たちが遅れて歩いてきたと思い込んだのか、理由も全く聞かず、大声で怒鳴りつけ、中啓で私たちの頭を何発も連打してきた。私たちはただ、日顕の前に端座して気がすむまで、殴られるがままだった。
石井 こうなったら誰も止められない。取り巻きも見ているだけだ。
成田 日顕は、所化を中啓で何十発もたたいたり、恐ろしい形相で「何を! 貴様」と怒鳴りつけたかと思えば、次の瞬間には「へへへ」と笑い、「じゃどうも」といって上機嫌で自室へ帰っていくことが多くあった。
西方 背筋が寒くなるほどの二面性ですね。

信彰、日如も凶暴性を相承

山口 日顕の二面性といえば、正本堂の御開扉(ごかいひ)の前後だ。
土井 最も厳粛な儀式であるべき御開扉の際も、日顕は直前まで坊主を殴る蹴るしていた。
石井 そう、こんなこともあった。控え室で、日顕が着替えをしていた。奥番という世話係が、日顕の頭の上から袈裟(けさ)をかけた時、袈裟がちょっと頭をかすった。その瞬間、日顕は、「貴様!」と言って、思い切り坊主を殴っていた。
土井 ところが、そのすぐ後、高僧然(こうそうぜん)として、平然と出て行って、ありがたそうにお経をあげて「()祈念(きねん)(ねんご)ろに申し上げました」などと言って帰ってくる。
成田 しかし、御開扉が終わった後も、今度はマイク係のお経のスピードが遅いなど、難癖をつけて怒り、また殴る蹴る。
石井 つまり、御開扉の最中も雑念だらけどころか、所化の行いが気に入らなくて修羅界(しゅらかい)、これが日顕の正体だ。
橋元 「教主(きょうしゅ)釈尊(しゃくそん)出世(しゅっせ)本懐(ほんかい)は人の振舞(ふるまい)」(御書1174n)だ。仏法は人の振る舞いに現れる。こんな男のどこに大聖人の魂が宿っているというのか。日顕がニセ法主(ほっす)にすぎないことは明らかだ。
山口 息子の阿部信彰も怒り出したら止まらない。親譲りの湯沸かし器≠セ。
土井 私は、信彰が住職をしていた大修寺(東京・府中市)で手伝いをしていたことがあるが、信彰も怒ると、とことんまで殴り、蹴り続ける。
成田 大修寺の元従業員の目撃証言では、信彰が、ものすごい形相で、所化を鼻血が出るまで殴り、法衣にも血が飛び散っていたそうだ。
土井 私自身、信彰が寺に帰ってくると、胃が本当にキリキリ痛んだ。わずか3カ月しかいなかったが、10`やせた。
山口 渡辺雄範さんの話では、ある坊主は、精神的に追い詰められ、信彰に怒鳴られただけで鼻血を流していたこともあったそうだ。
土井 所化の間でも「阿鼻叫喚(あびきょうかん)の大修寺」と恐れられていた。
成田 現法主・早瀬日如の凶暴性も有名だ。渡辺雄範さんは、日如が住職をしていた大願寺(東京・新宿区)に在勤していた。日如は、所化に対して、「往復ビンタ」「ひざ蹴り」を食らわせ続けていたという。
石井 大修寺同様、絶対に行きたくない所として、「地獄の大願寺」と呼ばれていた。
橋元 2代目ニセ法主の日如だが、暴力の血脈(けつみゃく)だけはしっかり流れているんだな(笑)。

やられる側→やる側≠フ連鎖

山口 かつて日顕は、ある住職に殴られて眼帯をしていた所化を見て、薄笑いを浮かべながら、「あれ(住職)も殴り方が下手なんだよ。おい、あいつに、もっとうまく殴るようにいっておけ!」と仲居の駒井専道に注意をしていた。
西方 つまり、殴るなら目立たない所、袈裟(けさ)(ころも)で隠れる所を殴れと言うわけですね。
石井 「小僧は殴らなければ分からない」が日顕の持論だ。「いじめ」についても「イジメられるほうも悪いんだ」とも放言している。
山口 所化たちのやり場のない不満は、今度は後輩、信徒に向けられていく。
橋元 将来、信徒を善導(ぜんどう)すべき教師となる所化を暴力で教育すれば、その所化も暴力をもって人に(むく)いるような人間となってしまうのは道理だ。
石井 現に「お前たちも大きくなったらやれる」と言っていた。その通り、やられる側がやる側に回り、同じ事を繰り返すという、暴力の連鎖が起こる。
西方 今、学校での体罰、暴力が社会問題化しています。決して許されるものではありません。しかし、問答無用の日顕宗の暴力の実態を知ったら世間の人は何と言うでしょうか。
成田 日顕・日如を筆頭に、宗内の坊主たちは、信心がない。人徳もない。だから、人を教導することができない。こうした暴力体質は、自分たちの自信のなさの裏返しでもある。
土井 大聖人は、「(こころざし)あらん人人(ひとびと)は存生の時(なら)い伝ふべし」(御書883n)、「しらんとをもはば日蓮が生きてある時くはしくたづねならへ」(同1469n)と、求道の門下に対して、私に何でも質問しなさい≠ニ胸襟(きょうきん)を開いて対話をされている。
 宗祖(しゅうそ)大慈大悲(だいじだいひ)の振る舞いによって、不惜身命(ふしゃくしんみょう)の門下が、数多く輩出されていった。
西方 徹底した差別と暴力で、法主への絶対服従を強いて、人間性を破壊する日顕宗の所化教育。人材が育たない団体に未来はありません。日顕宗に未来がないことも明白です。
橋元 「(あわれ)なるかな愚侶(ぐりょ)迷惑(めいわく)?語(そご)(したが)うこと、早く天下の静謐(せいひつ)を思わば(すべから)く国中の謗法(ほうぼう)()つべし」(同30n)だ。「滅後(めつご)魔仏(まぶつ)」(同76n)の日顕・日如への糾弾(きゅうだん)の手を緩めることなく進めていきたい。

(2013. 3. 6. 創価新報)

 

 

<下> 日顕宗は宗祖違背の邪教団
参加者:青年部:棚野青年部長・西方学生部長、青年僧侶改革同盟:渡辺雄範氏・橋本雄正氏・大塚雄能氏・押田雄勤氏

棚野 「(ただ)正直(しょうじき)にして少欲知足(しょうよくちそく)たらん(そう)こそ真実の僧なるべけれ」(御書1056n)――日蓮大聖人は、自身の門下たるべき僧侶の在り方を、こう御教示(ごきょうじ)されている。
西方 ところが、この大聖人の御精神とは、全くかけ離れた遊戯雑談(ゆげぞうだん)腐敗堕落(ふはいだらく)が日顕宗の実態だったことが、広く知られてしまった。
渡辺 「少欲」どころか「強欲(ごうよく)」そのもの。「供養(くよう)」と称して信徒から収奪を繰り返しては、欲望のままに散財し、放蕩(ほうとう)に明け暮れる。これが日顕宗の正体です。
押田 まず法主の日顕(みずか)らが、修行や法務などそっちのけで、温泉豪遊、芸者遊興、豪邸漁りの限りを尽くしてきた。
大塚 たとえば、1990年(平成2年)7月、連絡会議の席上、宗門は学会側から僧侶の風紀を正すよう求められた。翌8月、日顕は、教師講習会の場で、「綱紀(こうき)・自粛に関する規準」を全国末寺に徹底した。
橋本 その内容は、「(つと)めて質素を心掛けること」「華美(かび)・贅沢なものは慎むこと」「(みだ)りに遊興に(ふけ)り僧侶として信徒や一般から非難・顰蹙(ひんしゅく)を買うような言動は(げん)に慎むこと」など、僧侶として当然の項目だった。
渡辺 ところが日顕は、この綱紀自粛≠徹底したわずか数時間後、舌の根も乾かぬ内に、女房の政子や息子の信彰(しんしょう)夫婦らを引き連れて、伊豆長岡の超高級温泉旅館に繰り出していた。
棚野 宗内には、「努めて質素を」等と命じておきながら、呆れた「二枚舌」だ。
大塚 しかも自ら法主の専権事項≠ニ称していた「丑寅(うしとら)勤行」をさぼってだ。
渡辺 日顕は、これ以外にも、奥湯河原、熱海、箱根など、各地の高級旅館で豪遊を重ねてきた。
西方 大聖人は、「(いたず)らに遊戯雑談のみして(あか)(くら)さん者は法師(ほっし)(かわ)()たる畜生(ちくしょう)なり」(御書1386n)と聖職者の堕落を厳しく戒められています。日顕の姿はまさに「法師の皮を著たる畜生」そのものです。

笑止!芸者遊びは一切衆生救済

渡辺 日顕は芸者遊び≠ナも有名だ。86年(昭和61年)11月に、日顕らが、大勢の芸者衆をあげて、東京・赤坂の超高級料亭で大宴会に興じていたことも発覚した。
橋本 創価新報が、芸者衆に囲まれてニヤニヤしている日顕の写真を掲載した際、宗門は、日顕は写真に写っている柄の袴は持っていない∞写真は首をすげ替えた「合成」である≠ニ、宴会の事実自体を全面否定していた。
大塚 ところが、写真の撮影者が名乗りをあげたことにより嘘がばれると、今度は古希(こき)の祝いで呼ばれただけ≠ネどと、苦し紛れの言い逃れ。
押田 揚げ句の果てに、芸者遊びを正当化するため、「一切衆生(いっさいしゅじょう)を平等に救済する、本宗の末法無戒(むかい)の精神の、裏付けがあられた」(「大白法」93年<平成5年>3月16日付)などと開き直る始末だった。
棚野 何が一切衆生の救済≠ゥ。宗祖の精神の冒とくそのものだ。まさに「法滅(ほうめつ)妖怪(ようかい)」(御書154n)だ。
渡辺 「C作戦」発動直後の91年(同3年)の年頭には、日顕は宗内からの同情を買うため、「流浪(るろう)()となり(かゆ)をすすっても宗祖の心に(むく)いる…」と、大勢の末寺住職らを前に泣いてみせた。
橋本 しかし、発言から1カ月も経たない内に、東京都目黒区の一等地に総額20億円≠フ日顕の大豪邸計画が発覚。この計画は頓挫(とんざ)したが、その後、東京23区内で唯一の渓谷地にある世田谷区の豪邸を10億で取得した(93年<同5年>)。
大塚 97年(同9年)には、都内有数の高級住宅地、渋谷区松濤に、総額15億円で敷地と邸宅を購入。さらに翌年の新築工事では、約10億円をつぎ込んでいる。
押田 現在、日顕は世田谷の邸宅を純和風に建て替えて、住みついている。そのほか、2008年(同20年)には、ろくな収入もないはずの女房・政子が時価2億円のマンションを所有していたことも発覚している。
棚野 信徒の真心の御供養を湯水のごとく浪費して贅沢放題。腐敗しきっていた。
西方 「放逸(ほういつ)とは謗法(ほうぼう)の名なり入阿鼻獄(にゅうあびごく)(うたがい)無き者なり」(同758n)と大聖人は(おお)せです。宗門は、この通りの堕落した実態になってしまった。恐るべきことです。
押田 「(みなもと)(にご)れば(ながれ)(きよ)からず」(同1273n)。上が上なら下も下。末寺の腐敗堕落も(ひど)かった。
渡辺 住職は本堂より、自分たちの住居である庫裏(くり)を豪華にし、庫裏には高価な調度品が並び、家族もまるで、貴族気取りで贅沢三昧をしていた。
橋本 勤行もろくにせず、信徒を自分たちの生活の(かて)にしか考えていない。
押田 金を持っている信徒には、少しでも多く供養させようと、「(ねこ)(ねずみ)(うかが)うが(ごと)し」(同21n)ですりよっていた。
渡辺 日顕も、塔婆(とうば)供養が多い寺院の住職のことを「あいつは商売上手だからな」と言ってはばからなかった。
押田 まさしく、日顕宗は、仏法を私物化する「食法(じきほう)がき」(同1111n)そのものだった。

悪質な遺骨不法投棄、裁判で敗訴

棚野 日顕宗の連中が、散財している金は、もとはといえば全て信徒の供養だ。
渡辺 日興(にっこう)上人は、「先師(せんし)(ごと)()化儀(けぎ)聖僧(せいそう)()()し」(御書1619n)と御遺誡(ごゆいかい)されている。ところが、御遺誡からかけ離れ、化儀を金儲けの道具にしているのが宗門だった。葬儀もそうだ。
橋本 1991年(平成3年)10月21日、当時の総監・藤本日潤(にちじゅん)の名で学会に送られてきた「通告文」には、「葬儀において大切なことは、御本尊と引導師、および戒名等であります」などと書かれていた。
西方 しかし、大聖人が「()精霊(しょうりょう)()(きょう)行者(ぎょうじゃ)なれば即身成仏(そくしんじょうぶつ)疑いなし」(同1506n)、「過去の慈父(じふ)尊霊(そんりょう)存生(ぞんしょう)に南無妙法蓮華経と(とな)へしかば即身成仏の人なり」(同1423n)と断言されているように、大事なのは信心であり、宗門のいうことは全くのインチキです。
押田 僧が祈らないと成仏しないなどというのは全くの邪義(じゃぎ)だ。葬儀も戒名も日顕宗の住職にとっては、信徒だましの金儲けの手段でしかない。
渡辺 だから所化(しょけ)の間でも、通夜を「ナイター」、告別式を「デーゲーム」とふざけ半分で言っていた。同じ日に両方重なると「ダブルヘッダーで、大変だ」と嫌がる始末だった。
橋本 外見は袈裟(けさ)(ころも)を着ていても、日顕宗には、故人の冥福を祈る敬虔(けいけん)な心など微塵(みじん)もなかった。
渡辺 回忌(かいき)法要、追善(ついぜん)回向(えこう)も手抜きばかりだ。忙しい時は、何百枚と束ねた回向用紙をめくるのもおっくうがり、御宝前(ごほうぜん)にポンと置くだけで回向を終了。
押田 戒名に関しても、「いい戒名をもらいたけりゃ、いまの時代、一本(百万円)だよ」と言っている住職もいた。
大塚 戒名の付け方だって、いい加減きわまりない。自転車屋さんについたのが「自転法輪信士(じてんほうりんしんじ)」とか、タクシーの運転手さんに「夜走院(やそういん)」というのもあった。
橋本 「戒名に困ったら寺院名簿を見て、寺の名前をつけておけ」が原則の末寺もあった。
西方 ふざけ切っていますね。不謹慎極まりない。
押田 日顕宗が金儲けに最も悪用しているのが塔婆(とうば)だ。塔婆を立てないと成仏しない≠ネどと脅して立てさせる。
渡辺 その塔婆も実際は、所化がコーヒーやアイスクリームを片手に、ミミズの這ったような字を書きなぐる。
大塚 早瀬日如の次男で、すでに還俗(げんぞく)した早瀬正寛(しょうかん)は、棒線を一本上から下へ引くだけの塔婆を書いていたが、息子というだけでお咎めもなかった。
橋本 本山で、書ききれない塔婆が10万本以上溜まった時、9(しゃく)(=約3b)塔婆1本で済ますように、日顕が指示したこともあった。全ては金儲けの口実だ。
大塚 反社会的な日顕宗の悪辣(あくらつ)な体質を如実(にょじつ)にあらわしているのが、大石寺の「遺骨大量不法投棄事件」だ。
橋本 79年(昭和54年)9月、遺族から預かった大量の遺骨が、約200もの米袋≠ノ無造作に詰め込まれ、大石寺境内の空き地に、遺族には無断でゴミ同然に埋められていた。
押田 遺族が訴えた裁判の中で、宗門側は骨を埋めた空き地を聖地∞霊域≠ネどと言いはり、ウソにウソを重ねた上、全ての責任を日達(にったつ)元法主になすりつけようとしたが、敗訴。200万円の慰謝料を支払った。
橋本 敗訴当時の責任者だった日顕は、いまだに謝罪もせずに居直っている。
棚野 故人を弔うという遺族の純粋な心情を蹂躙(じゅうりん)する悪質極まりない行為だ。遺骨の扱いについての一般常識からも、かけ離れている。
渡辺 本来、僧侶を名乗るなら、誰よりも、そうした心情に敏感でなくてはならない。ところが、日顕宗は、それを踏みにじり、ウソでごまかそうとした。これほどの悪行はない。

仏意仏勅の学会は大聖人直結で前進

棚野 兵庫教育大学・梶田叡一(かじたえいいち)前学長は、次のように語っている。「日顕前法主のような一部の聖職者がのさばり、人々の精神的な覚醒、活性化につながる活動をしない。日顕宗は、法華経に説かれ、日蓮が示した菩薩道(ぼさつどう)の精神を失い、信徒を従属させて金を巻き上げるだけの教団に()してしまったのです」(「第三文明」3月号)
大塚 宗教そのものを商売道具にしていた宗門には、広宣流布のために死身弘法(ししんぐほう)を貫かれた日蓮大聖人の崇高な民衆救済の御精神は微塵(みじん)もない。
西方 愛知学院大学の赤池憲昭名誉教授は、「権威主義に走り、信徒を蔑視(べっし)する日蓮正宗と決別した魂の独立≠アそ、日本発祥の宗教が人類の宗教へと飛翔していく転換点となった」(創価新報2011年11月16日付)と語っています。
押田 大聖人御自身が「施陀羅(せんだら)が子」(御書891n)等と仰せのように、「庶民」であることを誇りとされ、悪しき宗教的権威と敢然(かんぜん)と立ち向かわれた。その御振る舞い自体が、偉大な「宗教改革」だったといえる。
橋本 歴代法主も、「本宗(ほんしゅう)は、戸田先生、創価学会の大恩(だいおん)を永久に忘れてはなりません」(65世・日淳(にちじゅん)法主)。
 「世界的な仏法興隆(こうりゅう)の時をつくられたのは、まさしく池田先生であります。池田先生のご努力こそ、最も御本仏(ごほんぶつ)のご賛嘆(さんたん)深かるべきものと確信するものであります」(66世・日達法主)、と称賛(しょうさん)している。
渡辺 大聖人が希求(ききゅう)された民衆仏法の新時代を目指し、歴史に燦然(さんぜん)と輝く「創価の宗教改革」を、学会の皆さんとともに一段と進めたい。
西方 大聖人の御遺命(ごゆいめい)は広宣流布です。その実現のために、御書の通りに実践し、御書の通りの難を受けたのは創価三代の会長だけです。学会は仏意仏勅(ぶついぶっちょく)の広宣流布の団体です。これからも学会は、大聖人直結、御書根本で進んでいく。
棚野 そして広宣流布は、永遠に、仏と魔との戦いだ。青年部は、広布を阻もうとする悪を断じて許さず、正義の言論で戦うことを「3・16」55周年を機に、あらためて誓いたい。

(2013. 3.20. 創価新報)