永遠に消えぬ「破和合僧」の大罪 |
<上> 永遠に消えぬ「破和合僧」の大罪
参加者:青年部:棚野青年部長・橋元男子部長、青年僧侶改革同盟:菅原雄政氏・松岡幹夫氏・大塚法樹氏・植松雄増氏
日顕の「C作戦」による宗門事件から22年、その正邪はもはや明々白々である。識者も、「SGI(創価学会インタナショナル)は『開かれた宗教』として192カ国・地域に広がり、一方で日顕宗は『閉ざされた宗教』として社会とは隔絶し、宗教団体が保つべき精神性を失っています」(兵庫教育大学・梶田叡一前学長、「第三文明」3月号)と評している。ここでは、棚野青年部長、橋元男子部長と「青年僧侶改革同盟」に語り合ってもらった。
棚野 1990年(平成2年)12月の第2次宗門事件勃発から22年余り。問題の経緯を知らない世代も増えてきている。
宗門の悪の実態と、「創価の宗教改革」の足跡を、若い世代があらためて知る契機となるよう、「青年僧侶改革同盟」の皆さんを迎えた。
橋元 宗門事件の渦中
棚野 以来、学会と共
改革同盟一同 よろしくお願いします。
聖僧を装いながら「広布破壊」を画策
橋元 宗門のどす黒い正体が浮き彫りになったのが「創価学会分離作戦」、いわゆる「C作戦」だ。
世界広宣流布の道を開いた池田先生、創価学会に嫉妬
菅原 90年(平成2年)12月、池田先生の法華講総
松岡 学会側は対話を求めたが、宗門は一切対話を拒否し、冷酷、横暴な本性をあらわにしてきた。
棚野 しかも日顕は、凶悪な恐喝事件を起こして懲役3年の実刑になった山崎正友とも陰でつながり、謀略をめぐらしていたことも発覚した。
大塚 そして、学会に「解散勧告」(91年<同3年>11月7日)、「破門通告」(同月28日)を一方的に送りつけた。
松岡 後
橋元 これが本来、人の道を説き、信徒の幸福を祈るべき僧侶の考えることなのか。まさに狂乱の極みだ。「破和合僧
棚野 日顕以下、宗門の坊主たちは、こうした謀略を立て、実行に移した。その大罪ははかり知れない。
植松 日顕は、表向きには学会を賛嘆
大塚 その裏では聖僧
橋元 恐ろしい二面性だ。「外には賢善
菅原 90年(同2年)7月16日には、日顕は、腹心の八木日照、関快道
大塚 いわゆる「西方会議」だ。ここで「C作戦」の基本方針が決まった。2日後には大石寺大書院で、その謀略を日顕本人が「C作戦」と命名した「御前
「離山の書」を突きつけ大石寺と決別
植松 渡辺雄範
そうした自身の行動については「(父親の早瀬日慈
松岡 河辺や早瀬が、学会攻撃のための資料をいろいろ蓄積して、準備していたという証言もある。
大塚 そういえば、90年(同2年)夏ぐらいから、本山での丑寅
今から考えると、「C作戦」に関わった、関快道や福田毅道
菅原 日顕が直接、末寺に電話をかけ、学会を切った時に自分の側につくかどうかを確かめていたという証言もある。
こうした宗門執行部の不穏な動きは徐々に下にも伝わってきた。ある坊主は、「これから学会と大変なことになりますよ、へへ。詳しく言えませんけど」なんて言っていた。
大塚 90年(同2年)秋の、大石寺開創700年を慶祝
植松 学会は佳節
棚野 当時の創価班の先輩に聞いても、皆、仕事をやりくりして本山に駆けつけ、不眠不休で準備にあたった。絶対無事故を祈りに祈り、真心を尽くして任務に就いていた。
ところが坊主たちは、何の労
橋元 私も、当時のことを先輩に伺うたびに、はらわたが煮えくりかえる思いだ。
松岡 日蓮大聖人は、「当如敬仏
橋元 ところが、自分たちが坊主であるというだけで、信者を虫けらの如
菅原 宗門にいて分かったことは、坊主は常に「謀案
植松 私たちにとっては、学会の破門が宗門と決別する決定的な一つの区切りになった。
仏意仏勅
大塚 私自身、離脱の最後の決め手になったのは、聖教新聞に掲載されている写真の学会員の皆さんの笑顔だった。宗門に、この歓喜の姿はないと実感した。
橋元 「(宗門機関紙誌の)『大白法
松岡 私は学会の庭で育てていただき、創価大学卒業後、広布への理想を抱いて、得度した。
ところが、想像を絶する宗門の腐敗ぶりに、求道の息吹
棚野 92年(同4年)3月30日、青年僧侶の皆さんは、ついに日顕宗との決別を果たした。皆、同期の僧侶をまとめる中心的なメンバーばかりで、信心や学業、人格に秀
橋元 最優秀の俊英たちが、10人もまとまって告発し、離山した。日顕に「離山の書」「決別の手紙」を突き付けた時の模様を教えてもらえますか?
顔面蒼白!呆然としていたニセ法主
植松 非教師(住職になる資格を得る前の僧侶)指導会に際し、全国の末寺に在勤する所化
菅原 席上、私は立ち上がり、大きな座卓の前に座っていた日顕の前に歩み出た。「いろいろ悩んできたことを認
松岡 「教師に非
日顕は、座ったまま両手を机に広げた姿勢で、菅原さんを見上げ、動くこともできなかった。取りまきも呆気にとられ、何をしてよいか分からなかったようだった。
植松 仲居(=法主の秘書役)の駒専
私は、「黙れ、駒専! これ以上、我々の自由を奪うつもりか!」と叫んだ。
橋元 そして、「日顕、悪いのはお前だ!」との叫びを突き付け、一喝
松岡 その時の日顕は、「唖法
目はうつろで真っ青になっていた。普段から、所化を怒鳴り散らし、殴りつけて偉そうにしていた日顕が、いざとなったら、ただ、うろたえるばかりだった。
植松 その後、同席していた所化たちから怒号
菅原 私はあらためて、日顕の前で正座し、真正面から直視してもう一度、「私たちが決意したことを認
そして、「これ以上、信心なく、慈悲
植松 日顕は、悪夢でも見ているかのように呆然としたまま、ただの一言も反論できなかった。「修羅
松岡 私は、日顕への「決別の手紙」を渡そうと歩みを進めた時、凶暴な性格で有名な所化に、拳
大塚 騒動が終わった後、日顕は相当、ショックを受けたんだろう。何回も「ワシャー、何があっても驚かん」と顔面蒼白で呟
1625万人が署名した「退座要求書」
棚野 700年余りの宗門の歴史において、所化が法主に向かって直々
植松 「法華経の敵
松岡 「離山の書」には、大聖人の御精神を失った宗門、特に日顕への諫言
「暴走し始めた猊下
大塚 まさに謗法の限りを尽くして腐敗・堕落し、大聖人から「破門」された宗門は、信者が全盛期の2%まで激減、いまや哀れな末路を辿
橋元 宗門の脅しにも学会は微動だにしなかった。
それどころか、「破門通告」から1カ月後の91年(平成3年)12月27日には、日顕に対し、世界中から集まった約1625万人の署名からなる「退座要求書」と突き付けた。
菅原 宗門の呪縛
棚野 「終
大聖人の御遺命である世界広布の新時代へ、大躍進を開始したい。
(2013. 2.20. 創価新報)
<中> 差別と暴力で人格を破壊
参加者:青年部:橋元男子部長・西方学生部長、青年僧侶改革同盟:土井雄育氏・成田雄伴氏・石井信広氏・山口雄在氏
西方 「青年僧侶改革同盟」の皆さんが目の当たりにしてきた、日顕、宗門の実態について聞かせてください。
土井 まず、宗門の坊主には信心がまるでない。希望を持って得度
山口 大石寺の大坊
成田 その典型が、「唱題」だ。「南無妙法蓮華経とばかり唱
石井 ところが、宗門ではどう教わるか。私たちが、唱題をしていると先輩の所化から「信者みたいなことをするな!」と叱られる。
土井 「僧侶が唱題をしていると、信者が見て『この坊さんは何か悩みがあるのかしら』と心配するじゃないか」などと真顔で説教する者もいた。
山口 その理由が、「袈裟
これでは修行は不要ということになる。こんなのは信心ではない。
土井 要は、唱題嫌いの坊主たちが自身の堕落
石井 日顕自身も30分以上の唱題は弊害∞あげ過ぎると罪障
孫も陰では「ジジイ」呼ばわり
成田 こんなことがあった。私が本山にいた頃、日顕の孫の阿部正教
橋元 あの正教にもそんな時期があったんだ(笑)。
成田 父親の阿部信彰
ところが、日顕は喜ぶかと思いきや烈火のごとく怒った。「そんなのは30分でいいんだ!」って(笑)。
日顕に怒られた勢いのまま、今度は信彰が正教を怒った。「2時間は御前様
土井 信彰は日顕のいいなりだからな。
成田 悩んでいた正教に私は、「猊下
そうしたら、正教は「そうだよね、やっぱりあのジジイ、おかしい!」って(笑)。
橋元 孫にまで信心の狂いを指摘されている。みっともないな。
石井 孫どころか、一般の所化も陰では日顕のことを「ジジイ」呼ばわりしている。尊敬なんかしていない。伏
止められぬ「瞬間湯沸かし器」
西方 日顕といえば暴力で有名。皆さんもその現場に立ち会ったと聞いています。
山口 立ち会ったどころか、何度も直接やられた。
土井 日顕は、何か気にくわないことがあると、一瞬のうちに逆上し、見境無く怒鳴り散らし、中啓
石井 相手が中堅
成田 だから誰が言い出したかは知らないが、僧侶の間でも瞬間湯沸かし器≠ニあだ名されていた。
石井 自分で中啓ミサイル≠ネどと名付けて得意気になっていた。
土井 海軍時代に300人の兵隊を殴ったことを、得々と自慢していたこともあった。
「50人くらいのところで、殴っている手が痛くなってきたが、途中で止められないので、最後まで殴ったんだ」と。
山口 得度して初めての丑寅
ところが、丑寅勤行が終わった後、大奥まで戻ってきた時、日顕のすぐ後ろにいた私は、振り返った日顕からいきなり中啓で、理由もなく頭をパンパン叩かれた。
土井 所化に何かを尋ねる際に、日顕がよくやる習癖だ。
山口 日顕が「お前は誰だ」と言うので、私は「山口雄在でございます」と応えた。すると日顕は激高し、「貴様は山口雄存だ」と叫び出した。
私は全く意味が分からず、「いいえ、雄在でございます」と言ったが、日顕は狂ったように「何を! お前は雄存だ。分かったか。雄存だろ」とまくしたて、私の頭を何度も殴りつけたのです。
私も最後には、「はい!」と日顕の勘違いに従うより他なかった。
西方 山口さんに雄在という名前をつけたのは日顕ですよね。それを失念しておいて言いがかりをつけるとは、メチャクチャですね。
石井 ことほどさように、日顕が言えば、白いものでも黒になる。まさにこれが宗門だ。
土井 私にもこんな経験がある。日顕の出仕
日顕は、その姿を見るや、私たちが遅れて歩いてきたと思い込んだのか、理由も全く聞かず、大声で怒鳴りつけ、中啓で私たちの頭を何発も連打してきた。私たちはただ、日顕の前に端座して気がすむまで、殴られるがままだった。
石井 こうなったら誰も止められない。取り巻きも見ているだけだ。
成田 日顕は、所化を中啓で何十発もたたいたり、恐ろしい形相で「何を! 貴様」と怒鳴りつけたかと思えば、次の瞬間には「へへへ」と笑い、「じゃどうも」といって上機嫌で自室へ帰っていくことが多くあった。
西方 背筋が寒くなるほどの二面性ですね。
信彰、日如も凶暴性を相承
山口 日顕の二面性といえば、正本堂の御開扉
土井 最も厳粛な儀式であるべき御開扉の際も、日顕は直前まで坊主を殴る蹴るしていた。
石井 そう、こんなこともあった。控え室で、日顕が着替えをしていた。奥番という世話係が、日顕の頭の上から袈裟
土井 ところが、そのすぐ後、高僧然
成田 しかし、御開扉が終わった後も、今度はマイク係のお経のスピードが遅いなど、難癖をつけて怒り、また殴る蹴る。
石井 つまり、御開扉の最中も雑念だらけどころか、所化の行いが気に入らなくて修羅界
橋元 「教主
山口 息子の阿部信彰も怒り出したら止まらない。親譲りの湯沸かし器≠セ。
土井 私は、信彰が住職をしていた大修寺(東京・府中市)で手伝いをしていたことがあるが、信彰も怒ると、とことんまで殴り、蹴り続ける。
成田 大修寺の元従業員の目撃証言では、信彰が、ものすごい形相で、所化を鼻血が出るまで殴り、法衣にも血が飛び散っていたそうだ。
土井 私自身、信彰が寺に帰ってくると、胃が本当にキリキリ痛んだ。わずか3カ月しかいなかったが、10`やせた。
山口 渡辺雄範さんの話では、ある坊主は、精神的に追い詰められ、信彰に怒鳴られただけで鼻血を流していたこともあったそうだ。
土井 所化の間でも「阿鼻叫喚
成田 現法主・早瀬日如の凶暴性も有名だ。渡辺雄範さんは、日如が住職をしていた大願寺(東京・新宿区)に在勤していた。日如は、所化に対して、「往復ビンタ」「ひざ蹴り」を食らわせ続けていたという。
石井 大修寺同様、絶対に行きたくない所として、「地獄の大願寺」と呼ばれていた。
橋元 2代目ニセ法主の日如だが、暴力の血脈
やられる側→やる側≠フ連鎖
山口 かつて日顕は、ある住職に殴られて眼帯をしていた所化を見て、薄笑いを浮かべながら、「あれ(住職)も殴り方が下手なんだよ。おい、あいつに、もっとうまく殴るようにいっておけ!」と仲居の駒井専道に注意をしていた。
西方 つまり、殴るなら目立たない所、袈裟
石井 「小僧は殴らなければ分からない」が日顕の持論だ。「いじめ」についても「イジメられるほうも悪いんだ」とも放言している。
山口 所化たちのやり場のない不満は、今度は後輩、信徒に向けられていく。
橋元 将来、信徒を善導
石井 現に「お前たちも大きくなったらやれる」と言っていた。その通り、やられる側がやる側に回り、同じ事を繰り返すという、暴力の連鎖が起こる。
西方 今、学校での体罰、暴力が社会問題化しています。決して許されるものではありません。しかし、問答無用の日顕宗の暴力の実態を知ったら世間の人は何と言うでしょうか。
成田 日顕・日如を筆頭に、宗内の坊主たちは、信心がない。人徳もない。だから、人を教導することができない。こうした暴力体質は、自分たちの自信のなさの裏返しでもある。
土井 大聖人は、「志
宗祖
西方 徹底した差別と暴力で、法主への絶対服従を強いて、人間性を破壊する日顕宗の所化教育。人材が育たない団体に未来はありません。日顕宗に未来がないことも明白です。
橋元 「哀
(2013. 3. 6. 創価新報)
<下> 日顕宗は宗祖違背の邪教団
参加者:青年部:棚野青年部長・西方学生部長、青年僧侶改革同盟:渡辺雄範氏・橋本雄正氏・大塚雄能氏・押田雄勤氏
棚野 「但
西方 ところが、この大聖人の御精神とは、全くかけ離れた遊戯雑談
渡辺 「少欲」どころか「強欲
押田 まず法主の日顕自
大塚 たとえば、1990年(平成2年)7月、連絡会議の席上、宗門は学会側から僧侶の風紀を正すよう求められた。翌8月、日顕は、教師講習会の場で、「綱紀
橋本 その内容は、「努
渡辺 ところが日顕は、この綱紀自粛≠徹底したわずか数時間後、舌の根も乾かぬ内に、女房の政子や息子の信彰
棚野 宗内には、「努めて質素を」等と命じておきながら、呆れた「二枚舌」だ。
大塚 しかも自ら法主の専権事項≠ニ称していた「丑寅
渡辺 日顕は、これ以外にも、奥湯河原、熱海、箱根など、各地の高級旅館で豪遊を重ねてきた。
西方 大聖人は、「徒
笑止!芸者遊びは一切衆生救済
渡辺 日顕は芸者遊び≠ナも有名だ。86年(昭和61年)11月に、日顕らが、大勢の芸者衆をあげて、東京・赤坂の超高級料亭で大宴会に興じていたことも発覚した。
橋本 創価新報が、芸者衆に囲まれてニヤニヤしている日顕の写真を掲載した際、宗門は、日顕は写真に写っている柄の袴は持っていない∞写真は首をすげ替えた「合成」である≠ニ、宴会の事実自体を全面否定していた。
大塚 ところが、写真の撮影者が名乗りをあげたことにより嘘がばれると、今度は古希
押田 揚げ句の果てに、芸者遊びを正当化するため、「一切衆生
棚野 何が一切衆生の救済≠ゥ。宗祖の精神の冒とくそのものだ。まさに「法滅
渡辺 「C作戦」発動直後の91年(同3年)の年頭には、日顕は宗内からの同情を買うため、「流浪
橋本 しかし、発言から1カ月も経たない内に、東京都目黒区の一等地に総額20億円≠フ日顕の大豪邸計画が発覚。この計画は頓挫
大塚 97年(同9年)には、都内有数の高級住宅地、渋谷区松濤に、総額15億円で敷地と邸宅を購入。さらに翌年の新築工事では、約10億円をつぎ込んでいる。
押田 現在、日顕は世田谷の邸宅を純和風に建て替えて、住みついている。そのほか、2008年(同20年)には、ろくな収入もないはずの女房・政子が時価2億円のマンションを所有していたことも発覚している。
棚野 信徒の真心の御供養を湯水のごとく浪費して贅沢放題。腐敗しきっていた。
西方 「放逸
押田 「源
渡辺 住職は本堂より、自分たちの住居である庫裏
橋本 勤行もろくにせず、信徒を自分たちの生活の糧
押田 金を持っている信徒には、少しでも多く供養させようと、「猫
渡辺 日顕も、塔婆
押田 まさしく、日顕宗は、仏法を私物化する「食法
悪質な遺骨不法投棄、裁判で敗訴
棚野 日顕宗の連中が、散財している金は、もとはといえば全て信徒の供養だ。
渡辺 日興
橋本 1991年(平成3年)10月21日、当時の総監・藤本日潤
西方 しかし、大聖人が「故
押田 僧が祈らないと成仏しないなどというのは全くの邪義
渡辺 だから所化
橋本 外見は袈裟
渡辺 回忌
押田 戒名に関しても、「いい戒名をもらいたけりゃ、いまの時代、一本(百万円)だよ」と言っている住職もいた。
大塚 戒名の付け方だって、いい加減きわまりない。自転車屋さんについたのが「自転法輪信士
橋本 「戒名に困ったら寺院名簿を見て、寺の名前をつけておけ」が原則の末寺もあった。
西方 ふざけ切っていますね。不謹慎極まりない。
押田 日顕宗が金儲けに最も悪用しているのが塔婆
渡辺 その塔婆も実際は、所化がコーヒーやアイスクリームを片手に、ミミズの這ったような字を書きなぐる。
大塚 早瀬日如の次男で、すでに還俗
橋本 本山で、書ききれない塔婆が10万本以上溜まった時、9尺
大塚 反社会的な日顕宗の悪辣
橋本 79年(昭和54年)9月、遺族から預かった大量の遺骨が、約200もの米袋≠ノ無造作に詰め込まれ、大石寺境内の空き地に、遺族には無断でゴミ同然に埋められていた。
押田 遺族が訴えた裁判の中で、宗門側は骨を埋めた空き地を聖地∞霊域≠ネどと言いはり、ウソにウソを重ねた上、全ての責任を日達
橋本 敗訴当時の責任者だった日顕は、いまだに謝罪もせずに居直っている。
棚野 故人を弔うという遺族の純粋な心情を蹂躙
渡辺 本来、僧侶を名乗るなら、誰よりも、そうした心情に敏感でなくてはならない。ところが、日顕宗は、それを踏みにじり、ウソでごまかそうとした。これほどの悪行はない。
仏意仏勅の学会は大聖人直結で前進
棚野 兵庫教育大学・梶田叡一
大塚 宗教そのものを商売道具にしていた宗門には、広宣流布のために死身弘法
西方 愛知学院大学の赤池憲昭名誉教授は、「権威主義に走り、信徒を蔑視
押田 大聖人御自身が「施陀羅
橋本 歴代法主も、「本宗
「世界的な仏法興隆
渡辺 大聖人が希求
西方 大聖人の御遺命
棚野 そして広宣流布は、永遠に、仏と魔との戦いだ。青年部は、広布を阻もうとする悪を断じて許さず、正義の言論で戦うことを「3・16」55周年を機に、あらためて誓いたい。
(2013. 3.20. 創価新報)