2003.11. 5. 創価新報
創立の月、11月――。「11・18」は、学会の創立の日であるとともに、仏法正義を叫び抜いた牧口初代会長の崇高なる殉教の日である。一方、権力による弾圧を恐れ、保身のために宗祖の精神と教義を捨て去ったのが宗門だ。その分かれ目は何だったのか。ここでは、その厳粛な史実を改めて検証する。
難を恐れ大聖人を貶(おとし)めた坊主
第二次大戦中、軍国主義体制の強化を図った日本政府は、「国家神道(こっかしんとう)」による思想・宗教統制に狂奔した。まさに一国をあげて、狂気の宗教弾圧が行われた。
軍部のこうした政策に、多くの宗教団体が教団の信念を捨てて迎合、戦争遂行に加担していった。協力を拒んだ教団に対し、政府は、「治安維持法」違反、「不敬罪」を適用して弾圧、その結果、ほとんどが大政翼賛(たいせいよくさん)体制に組み込まれていった。
日蓮正宗も、同様であった。宗門はすでに昭和16年半ばから、自ら大政翼賛の道を歩んでいたのである。
同年8月、勤行の観念文を改変する通達を出した。それは、皇国史観(こうこくしかん)に基づき、初座で「皇祖天照大神」「皇宗神武天皇」など代々の天皇に対する感謝を明記するなど、まさに国家神道に迎合した観念文であった。
さらに宗門は、御書全集の刊行自体を禁ずるとともに、翌9月には、御書の御文14ヵ所の削除を命ずる通達を出した。
それは@大聖人が自ら御本仏と宣言された個所、A天照大神に関する記載、B国主に言及された個所など。たとえば、「日蓮は一閻浮提(いちえんぶだい)第一の聖人なり」(「聖人知三世事」)という、大聖人が末法の御本仏としての確信を述べられた部分まで削除したのである。
まさしく宗門の坊主は、「日蓮」の弟子を名乗りながら、難を恐れ、自らを守るために、その宗祖「日蓮」を自ら貶め、捨て去ったのだ。
こうして、国家権力に屈し、宗祖に違背する大謗法を犯した宗門は、ひたすら大政翼賛、戦争協力の道を進んでいくのである。
このような情勢下にあって、仏法正義の旗を高く掲げて、軍部権力と敢然と戦ったのが、創価教育学会の牧口会長、戸田理事長だ。
戦時下でも、牧口会長は厳然と弘教の実践を進めた。
後の牧口会長に対する起訴状によれば、昭和16年5月から、逮捕直前の18年6月までに、会長が出席した座談会は実に240余回にわたった。18年5月には、神札不敬問題で、東京・中野の中野警察署で取り調べを受け、1週間にわたって留置されている。
一方、18年2月、学会への弾圧が近いことを知った宗門では、役僧が東京の警視庁に出向き、学会員の中には脱線的な部分もあるかも知れないが、本山が直接関知しているところではなく、日蓮正宗においては不敬の行為は絶対ない≠ネどと上申。弘教に邁進する信徒を守るどころか、卑劣にも、自らに火の粉が及ぶのを恐れて、切り捨てるという暴挙に出たのである。
そして、「神札」受諾を公式に徹底する方針を固めた宗門は同年6月20日には、本山書院に神札を祀ったうえ、同月27日、「神札」受諾に頑強に抵抗してきた牧口会長、戸田理事長ら6人の幹部を緊急に大石寺に呼びつけ、時の法主・鈴木日恭が、「神札」を受けるよう、申し渡したのである。
宗務当局者は言った。
「神札」を祀るよう政府から強要されたので、寺の方では一応受け取ることにした。学会としても一応は受けるように会員に命ずるようにしてはどうか
今こそ国家諫暁(かんぎょう)の時ではないか
これに対し、牧口会長は「謗法厳誡」の教義を堅持して、厳然と拒否。承服いたしかねます。神札は絶対に受けません≠ニ述べ、その場を辞した。
それが「時の貫主(かんず)為(た)りと雖(いえど)も仏法に相違して己義(こぎ)を構えば之(これ)を用(もち)う可(べ)からざる事」(「日興遺誡置文」)の御文に照らしても、宗開両祖の精神を全うする道であることは明らかだった。
そして、その日に下山する戸田理事長に対して、こう述べたのである。
「一宗が滅びることではない、一国が滅びることを、嘆くのである。宗祖聖人のお悲しみを、恐れるのである。いまこそ、国家諫暁(かんぎょう)の時ではないか。なにを恐れているか知らん」(「創価学会の歴史と確信」より)
さらに、一人本山に残った牧口会長は、何とか法主に再考を促そうと、翌28日にも再度、日恭と面談。国家諫暁に立ち上がるよう、最後の直諫(ちょっかん)をした。しかし、日恭は宗門に弾圧が及ぶことを避けるため、この訴えを聞き入れず、牧口会長は下山したのである。
今こそ、宗祖の精神のまま立ち上がる時=\―決然と獅子吼(ししく)した信徒。ところが、臆病な坊主は、その直言に耳を塞ぎ、弾圧を恐れ、逃げたのである。
それから8日後の同年7月6日、牧口会長は地方折伏のため訪れていた伊豆・下田の地で、「治安維持法」違反、「不敬罪」の容疑で逮捕された(同日、戸田理事長も東京・白金台の自宅で逮捕)。
9月25日、牧口会長は本格的な取り調べのため、警視庁から東京拘置所に移送される途中、警視庁2階で、戸田理事長と出会う。
「先生、お丈夫で」と声をかける戸田理事長。
無言でうなずく牧口会長。これが二人の最後の対面となった。
取り調べを受けた牧口会長は、牢獄という最悪の状況下でも、折伏の手を緩めることはなかった。検事・判事にも敢然と大聖人の仏法の正義を語り、堂々と自身の信念を貫いた。
狂った軍部権力の思想統制下で、多くの逮捕者が自らの主張を捨て去っていく中で、考えられない決然とした姿であった。そこには、まさしく大難の中、身命を賭して戦った、宗祖の魂魄(こんぱく)が、脈打っていたのである。
昭和19年1月、獄中から家族にあてた書簡に、牧口会長は、こうつづっている。
「大聖人様の佐渡の御苦しみをしのぶと何でもあ里(り)ません。過去の業が出て来たのが経文や御書の通りです」
本当の信仰とは何なのか――。まさに宗祖の時代から700年後に、自らの身をもって大聖人の仏法を実践したのが牧口会長であり、戸田理事長だったのである。
しかし、その間も、宗門は、会長の留守宅に二人の坊主を差し向け、残された家族を通して、何と牧口会長に退転を勧めるよう画策していたのである。
また、宗門は18年8月に本山で開催した「教師錬成講習会」で、神札を寺院の庫裏、あるいは僧侶や信者の住宅に祀ることはやむを得ない≠ニの宗門中枢の決定を徹底。実際、戦時中、本山の理境坊には神札が祀られ、了性坊の本堂にはサカキが立てられ、注連縄(しめなわ)が祀られていた。
こうして宗門は、一山あげて大謗法に染まったのである。
宗門高僧も「御罰(おんばち)」と明言
一方、昭和19年11月18日、1年4ヵ月の過酷な拘留の末、牧口会長は東京拘置所の獄舎で逝去した。まさに御遺命(ごゆいめい)の弟子としての信念に生ききった、崇高な殉教であった。
これに反し、一宗あげて謗法に染まった宗門では翌20年6月17日、本山が火災、法主・日恭は書院に祀られた神棚とともに無惨にも焼死した。
この日恭の焼死について、当時の宗門高僧ですら「御罰(おんばち)でなくて何であらう、今こそ宗門の僧俗一同の責任に於(おい)て深く惣懺悔(そうざんげ)をしなければならぬ」(当時、霑妙寺住職・渋田慈旭)と述べるほど、厳しい現罰の姿だった。
それは、大聖人の教えを次々と捨て、そのうえ、あろうことか保身のために、仏意仏勅の広宣流布の団体である学会を見捨てたことへの、御本仏からの断罪というほかなかった。
権力の弾圧を恐れ、自ら仏法正義の旗を降ろし、無惨な姿をさらした宗門。一方、いかなる弾圧にも微動だにせず、御遺命のまま烈々たる「死身弘法」の生涯を貫いた初代会長――。
宗祖大聖人の精神がどちらに脈打っているか、もはや万人の目に明らかである。
それから59年、学会は三代会長の師弟不二、不惜身命の信心と行動により、大聖人の御遺命たる世界広宣流布を現実のものとしている。
かたや宗門は、狂った法主・日顕に率いられ、今や没落の坂を転げ落ちている。この厳然たる事実が、「正邪」の「現証」でなくして何であろう。
「11・18」――。それは、初代会長の峻厳なる生涯に、学会精神の継承を誓うとともに、「正義の人」を権力に売り渡したエセ坊主たちへの怒りを、永遠に命に刻む日なのだ。