2006. 2.16 聖教新聞
2月16日は、「日蓮大聖人御生誕の日」――大聖人ただ御一人、唱え始められた「南無妙法蓮華経」の題目は、大聖人直結の創価学会によって、世界190ヵ国・地域にまで広がった。今回は、大難と迫害のなか、妙法弘通の大闘争を貫かれた大聖人の尊い御生涯を学び、仏法破壊の極悪とは徹底して戦い抜く決意を固めていきたい。
立宗宣言
日蓮大聖人は、貞応元年(1222年)2月16日、安房国長狭郡東条郷の片海(現在の千葉県鴨川市小湊)の漁村で聖誕されました。漁業で生計を立てる庶民階層の出身です。12歳で安房国の清澄寺に入り、初等教育を受けられました。
大聖人は、「日本第一の智者となし給へ」(御書888n)との願いを立て、16歳の時、清澄寺の道善房を師匠として出家されます。
このころ、一切経の勝劣を知りうる智慧、全仏法の根底と言うべき仏の悟りの法である「妙法」の智慧を得られました。
その後、各地の諸寺を巡り一切経を精読するとともに、各宗派の教義の本質を究明されました。自身が悟った妙法とは法華経の肝要である南無妙法蓮華経であり、一切経の根幹である法華経をないがしろにする諸宗は、人々の成仏の道を閉ざしている≠ニ結論されるのです。
そして、建長5年(1253年)4月28日、32歳の時、清澄寺で念仏などを破折(はしゃく)するとともに、南無妙法蓮華経こそが末法の世界中の民衆を救う唯一の法であると宣言されました(立宗宣言)。
立正安国論の提出
大聖人が鎌倉での弘教を開始された当時、異常気象等が相次ぎ、大飢饉・大火災・疫病が続発。特に正嘉元年(1257年)8月に鎌倉を襲った大地震は、人々に大きな苦悩をもたらしました。
この地震を機に、大聖人は、不幸の根本原因を明らかにし、それを根絶する方途を示すために、「立正安国論」を執筆され、文応元年(1260年)7月16日、時の実質的な最高権力者・北条時頼に提出されました。これが大聖人による第1回の国主諌暁(かんぎょう)です。
「立正安国論」では、天変地夭(ちよう)の原因は、人々が邪法を信じていることにあり、元凶は法然が説いた念仏にあると指摘します。この一凶を断じ、正法を信受しなければ、経文に示されている自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん=内乱)と他国侵逼難(たこくしんぴつなん=他国からの侵略)が起こると警告し、諌(いさ)められました。
竜の口の法難
幕府は大聖人の諌めを無視しました。快く思わない念仏者たちは、同年8月27日、松葉ケ谷の大聖人の草庵を襲撃します(松葉ケ谷の法難)。
この後、弘長元年(1261年)5月12日、伊豆の伊東へ流罪されます(伊豆流罪)。
さらに、文永元年(1264年)11月11日、大聖人は、小松原で地頭・東条景信の軍勢に襲撃され、この時、門下が亡くなり、ご自身も左手を折られ、額に傷を負われました(小松原の法難)。
文永5年(1268年)、「蒙古」からの国書が鎌倉に届き、大聖人は、再び幕府に書状を送り、悪法への帰依(きえ)をやめるように諌めます。さらに要人や鎌倉の大寺の僧に公の場での法論も呼びかけます(「十一通御書」)。
幕府は黙殺し、大聖人との祈雨の対決に敗れ、恨みを募らせていた極楽寺良観らを中心とした邪宗の僧らと結託し、弾圧を企てたのです。
文永8年(1271年)9月12日、大聖人は、武装した兵士を率いた、幕府の軍事・警察機関(侍所)の次官(所司)・平左衛門尉頼綱(へいのさえもんのじょうよりつな)に捕らえられます。この時も大聖人は、「日蓮は日本国の棟梁(とうりょう)なり予を失なうは日本国の柱橦(はしら)を倒すなり」(御書287n)と強く諌められたのです(第2回諌暁)。
そして同日の夜半、平左衛門尉は大聖人を連行し、鎌倉のはずれにある竜の口の刑場に引き立てました。
しかし、刑を執行しようとした時、江の島の方からまり≠フような光り物が北西の方向へ夜空を走ったのです。兵士たちは恐れ、大聖人を斬首(ざんしゅ)することはできませんでした(竜の口の法難)。
この時以来、大聖人は末法の御本仏としての御立場に立たれていくのです(発迹顕本(ほっしゃくけんぽん))。
佐渡流罪
処刑に失敗した幕府は、大聖人を佐渡流罪にします。
厳寒で、衣食も乏しく、念仏者から命を狙われる中、大聖人は門下に励ましを送り続け、さらに末法の御本仏として「開目抄」「観心本尊抄」等の重書を執筆されます。
大聖人の予言通り、北条氏一族の同士討ちが起こり、「蒙古襲来」の危機も切迫します。大聖人の存在を無視できなくなった幕府は、赦免(しゃめん)の決定を下します。
鎌倉に戻り、再び平左衛門尉に対面した大聖人は、強く諌めるとともに(第3回諌暁)、年内の「蒙古」襲来を予言します。そして文永11年(1274年)10月、「蒙古」の大軍が九州に押し寄せ(文永の役)、大聖人の警告は二つとも的中したのです。
大御本尊の建立
大聖人は、佐渡流罪後の諌暁も用いられなかったため、故事に習い、文永11年5月、甲斐国(山梨県)の身延へ入られます。
身延では、「撰時抄」「報恩抄」等の数多くの御書を執筆し、仏法の人類史的な意義を説き示されるなど、妙法流布のための言論戦を展開されるとともに、日興上人ら後継者の育成に取り組まれました。
大聖人の激励を受けた弟子たちは、各地で活躍します。特に、駿河国(静岡県)の富士方面では、日興上人を中心に弘教が進められました。
弘安2年(1279年)9月、恐れをなした熱原郷の滝泉寺の院主代・行智(ぎょうち)の謀略により、熱原の農民信徒20人が無実の罪で逮捕されました。そして、平左衛門尉が鎌倉で厳しい取り調べを行い、法華経の信心を捨てるよう脅したのです。
しかし、農民たちは信心を貫き通し、3人が処刑され、残りの17人は追放処分に遭ったのです(熱原の法難)。
大聖人は、大難に耐える強い信心が民衆次元に定着したことを感じられ、同年10月12日、「一閻浮提総与(いちえんぶだいそうよ)の大御本尊」を建立されたのです。そして、弘安5年(1282年)、法門のすべてと大御本尊を日興上人に付嘱され、10月13日、武蔵国(東京都)の池上邸で、61歳の尊い御生涯を終えられました。