3・16広宣流布記念の日について

2006. 3.14 地区座談会で研究発表


 人類の歴史を転換する偉大な精神闘争は、優れた指導者の思想と行動力とともに、そのすべてを受け継ぎ、社会に広めていく後継者の存在を抜きには語れません。師匠から弟子へ、世代から世代へ、精神の継承があってこそ、あらゆる思想は歴史に刻まれ、時代を変革していく力となるのです。
 創価学会の運動もそうでした。3月16日の広宣流布記念の日は、師匠から後継の弟子へ広宣流布のバトンタッチが行われた、意義深い記念の日なのです。

 1958年(昭和33年)の3月。この時には戸田第2代会長の願いであった、創価学会75万世帯はすでに達成されていましたが、戦時下での2年間の過酷な獄中生活と、その後の休みなき広布の大闘争によって、戸田会長の命はまさに燃え尽きようとしていました。
 この3月は、1日から1ヵ月間にわたり、学会が寄進した大講堂落成を記念する総勢20万人の総登山が開始され、その3月1日に行われた落成法要には、岸総理代理や東京都知事、静岡県知事をはじめ多くの来賓が参加しました。しかし本来は、戸田会長と親交のあった岸首相本人の出席が予定されていたのです。その後、落成法要に出席できなかった岸首相から、3月16日に総本山に参詣するとの連絡が入りました。この機会をとらえて戸田会長は、「将来のために広宣流布の模擬試験、予行演習となる式典をしよう」「広布の印綬を君たちに託す儀式にしよう」と、広宣流布のバトンを受け継ぐ式典を開き、現在の池田名誉会長を中心とする当時の青年たちに、一切を託そうとしたのです。
 この登山が正式に発表されたのは3月11日。青年部の多くは、総登山の役員として、すでに登山したか、3月後半には登山することになっていて、そこに青年部の登山が重なることになりました。16日は日曜日とはいえ、時間を確保することは容易ではありません。しかし、愚痴や文句を言うものは誰一人としていませんでした。戸田会長は、折に触れて、「いざという時、広布の戦場に駆けつけられるかどうかだ」と語ってきたのですが、青年たちは、今、その時が来たと思ったのです。
 そして発表からわずか5日後の3月16日の当日、戸田会長のもとに日本中から、男女青年部の精鋭6000名が集いました。袖口のすり切れた背広姿の青年、よれよれの学生服を着た、まだあどけなさの残る少年、質素な黒いスーツに身をつつみ、頬を紅潮させた乙女、誰もが貧しかったのです。しかし、戸田会長の門下としての誇りにあふれ、春風に胸を張り、瞳を輝かせていました。
 午前9時半までには歓迎の態勢はことごとく整い、あとは首相一行の到着を待つばかりとなります。しかし首相の来訪は周囲の妨害で中止となり、代理として家族らの登山となってしまいました。戸田会長は言われます「首相は参列しなくとも、堂々たる式典を開催しようじゃないか。私は、本日の参加者をこの戸田の後継者と思い、広宣流布のいっさいを託す式典にするつもりでいる」と。なお、この岸首相の家族ら一行の中に、のちの安倍晋太郎元外務大臣がいました。
 式典の中で戸田会長は、死力を尽くして青年たちに呼びかけます。
 「創価学会は、宗教界の王者であります。何も恐れるものなどない。諸君は、その後継者であるとの自覚を忘れることなく、広布の誉れの法戦に、花の若武者として勇敢に戦い進んでもらいたい」
 それは、広布の願業を達成した師匠の勝利宣言であり、同時に、師の構想を師弟不二で実現した弟子の勝利宣言でした。
 以来、創価の魂を継承した青年たちの活躍で、学会は思想界の王者、平和の王者として、世界へ大きく飛翔しています。

 名誉会長はつづりました。
 「弘教75万世帯は、師弟の誓願であった。それを実現するのが弟子の使命であり、勝利の結実をもって、初めて後継者たりうるのだ。もし師弟の誓願が達成できていなければ、『3・16』の式典――あの後継の大儀式は完成されなかった」

 あの日から48年、名誉会長は師弟の『魂のバトン』を握り、広布の大道を開き続けてきました。そして、学会創立80周年へ向かって、名誉会長は今、後継のバトンを渡さんと、青年に万感の期待を寄せています。
 『3・16』には、その名誉会長の心に応え、勝利への突破口を開いていく意義があり、また誓いの弟子が広宣流布に颯爽と立ち上がる、原点の日なのです。

参考) SOKA-net ・ 聖教新聞(2006. 3. 7.) ・ 大白蓮華(2006. 3.) ・ 人間革命12巻「後継」

 


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