2008.10.15. 創価新報
創価大学法科大学院教授 桐ヶ谷 章
去る10月7日の衆院予算委員会で、民主党の菅直人代表代行が質問に立ち、日本国憲法第20条にうたわれている「政教分離」原則、宗教団体の政治活動等についての問題を取り上げ、「宗教が政治権力を握って特定の宗教団体のために政治権力を使うことも、この20条、政教の分離に反すると考えますが」との質問を行った。
この菅氏の質問の意図は、次の2点を含意していると思われる。
@宗教団体がその活動の一環として行う政治活動は政教分離原則に反して許されない。
A宗教団体が支援する政党が政権を担うことは政教分離原則に反して許されない。
しかしながら、このいずれも憲法の通説的見解からみて誤りであり、それ故、すでに歴代の政府の答弁でも一貫して一蹴されてきている。
結論的に言うならば、
@宗教団体の政治活動は、憲法上保障されているものであり、何ら政教分離原則に反するものではない。それを制限することこそ、憲法違反となる。
Aこのことは、宗教団体が支援する政党が政権を担うことになっても全く同様である。
政教分離原則とは国家の宗教的中立性をいう
まず、議論に先立って、憲法でいう「政教分離」の原則について確認しておきたい。政教分離原則とは、「信教の自由」を守るための国家の仕組みないし制度である。国家権力が宗教的権威と結びついたとき、さまざまな弊害が発生する。すなわち、権力は独裁化し、他宗教に対する弾圧、国民の人権侵害を招来する一方、宗教は形骸化し、腐敗する。古くはヨーロッパにおけるキリスト教(カトリック教会)と国家権力の癒着の歴史、近くは日本における国家神道の歴史が、このことを如実に物語っている。このような苦い歴史の反省のうえに立って確立されてきた原則が政教分離原則である。しかしてその内容は、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を意味するのである(最高裁は津地鎮祭事件や愛媛玉串料事件などの判決で、政教分離原則の意味について、一貫してこの考え方を表明している)。
このように、政教分離とは、あくまでも、「国家」の、「宗教」ないし「宗教団体」との関わり方の問題なのであって、「宗教」の「政治」への関わり方を規定したものではない。
宗教団体の政治活動は憲法に保障された権利である
憲法20条は信教の自由を保障している。その内容としては内心における宗教的信仰の自由とともにその信仰を外部に表現する自由が保障される。そして宗教的表現の自由の一つとして、宗教上の結社の自由が保障される。憲法においては、これとは別に21条において、表現の自由の一内容として「結社の自由」が規定され、国民が一定の目的のために集まって、組織や団体を結成し活動する権利が保障されている。その一環として、団体の政治活動の自由が含まれることに異論はない。現代社会においては、表現の自由、結社の自由は、民主主義国家を支える極めて重要な権利である。一定の宗教を信ずる者が結成した団体も当然にこの権利を保障されている。
宗教団体の政治活動を制限することこそ憲法違反である
逆に、宗教団体だけが政治に関わってはいけないなどということは、このような国民にとって重要な権利を、宗教を持っているという理由によって否定しようとすることであり、信教の自由を侵害するだけではなく、憲法21条にも明確に反する。のみならずこれは宗教団体から参政権を奪うものであり、民主主義を真っ向から否定するものである。さらに、信条等により政治的差別をすること等を禁止した「法の下の平等」(憲法14条)を侵すことにさえなる。
以上のとおり、宗教団体の政治活動は憲法上幾重にも保障されており、これを禁止・制限することは重大な憲法違反なのである。
特定の政党や候補者を支援し、選挙活動を行うことは、政治活動の一環として、宗教団体にも当然保障されている。
政教分離原則は宗教団体の政治活動を制限するものではない
宗教団体の政治活動は政教分離原則に反する、との論がしばしば展開される。今回の菅氏らの質問の根底にもこのような考え方があるとうかがわれる。その理由として憲法20条1項後段の「いかなる宗教団体も……政治上の権力を行使してはならない」との規定が引き合いに出される。
しかしながら、ここでいう「政治上の権力」とは、「国または地方公共団体に独占されている統治的権力」のことであるというのが憲法上の通説である。すなわち、国や地方公共団体が宗教団体に対して、立法権、課税権、裁判権、公務員の任免権などの統治的権力を付与することを禁止するということであって、「宗教団体が政治活動をすることを排除するものではない」。これは、今回の菅氏の質問に対し宮崎礼壱内閣法制局長官も明確に答弁している通りであり、憲法制定以来、政府が一貫して採っている解釈でもある。
宗教団体が支援している政党が政権に参加することは何ら政教分離原則に反しない
上述したことは、宗教団体が支援する政党が、国会内の一会派にとどまっている場合でも、政権政党になった場合でも同じであり、そのような政党が、政権についたとしても、まったく問題はない。政党が政権を目指すのは当然のことであり、結果として、宗教団体が支援する政党が政権についても、それは宗教団体が政権についたことにはならない。すなわち宗教団体が支援する政党が政権についたからといって、それはあくまでも当該政党が内閣を構成し、内閣として行政権を行使しているに過ぎず、宗教団体に行政権等の統治権を委譲したことにならないのは当然のことである。
このことも、政府の一貫した見解になっている。たとえば、「宗教団体と国政を担当することとなった者とは法律的には別個の存在であり、宗教団体がお尋ねのような政治上の権力を行使していることにはならないのであるから違憲の問題は生じない」(1995年11月27日・大出峻郎氏)、「宗教団体が支援している政党が政権に参加したということになりましても、そのことによって直ちに憲法が定める政教分離の原則にもとる事態が生ずるものではない」(1999年7月15日・大森政輔氏)と歴代の内閣法制局長官が答弁している。
今回も菅氏の質問に対し、宮崎長官は「当該宗教団体と国政を担当することになった者とは法律的に別個の存在でありますし、宗教団体が政治上の権力を行使しているということにはならない」と明確に答弁している。
政府が権力を行使して布教活動などを行うことは「国家の宗教的活動」になり禁止される
憲法20条はその3項に政教分離原則の内容の一つとして、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と規定している。
布教活動などは宗教的活動の代表例になる。政府が布教活動などを行うなどということが許されないのは当然のことである。同様に閣僚がその権力を使い布教活動などを行うことも同項で禁止されているといえる。したがって、宗教団体が支援する政党が政権に参画しその政府が布教活動などを行ったり、宗教団体に支援されて当選した議員が閣僚になりその権力を利用して布教活動などを行うことなどは、20条3項により禁止されるのは当然である。
しかし、支援する宗教団体と支援される政党とは別個の存在である。また政党と政府とも別個の存在である。政府や閣僚の行為は、あくまで宗教団体とは別個の主体による行為である。すなわち宗教団体の行為でも活動でもない。そして、政府や閣僚が布教活動などをすることを禁止されるのは、あくまで国やその機関が宗教的活動を行ってはいけないという憲法原則(憲法20条3項)から要請されるのであって、宗教団体が政治上の権力を行使してはならないという憲法原則(憲法20条1項後段)から要請されることではない。すなわち、政府や閣僚が布教活動などを行ってはならないのは、宗教団体の支援があろうとなかろうと同じことであり、宗教団体が政治上の権力を行使するということとは無縁のことなのである。
菅氏がオウム真理教を引き合いに出して、「(同教が結成した)真理党が大きな多数を占めて権力を握って、政治権力を使ってオウムの教えを広めようとしたような場合、これは当然、憲法20条の政教分離の原則に反すると考えますが」と、糾したことに対し、宮崎長官は、「宗教団体が統治的権力を行使するということに当たる」旨の答弁をしているが、この点についての答弁はやや正確性を欠くものといわなければならない(同長官は翌8日、この答弁を修正した)。
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現代社会においては、あらゆる生活の面において、政治が関係をしてくる。世の中を良くしていこうと思えば、どうしても政治との接点は生じてくる。つまり、世の中を良くするために、政治に関わることは民主主義の国家において、いたって自然な流れである。より良い社会の実現と自己の向上を目指す宗教者にとっても、これは当然のことであり、憲法でも、宗教団体が政治活動をすることは、信教の自由はもとより表現の自由、結社の自由として保障されている。
ガンジーは「宗教というものは、すべての活動の根っこにあるべきもの、その中心に据えるべきものであると私は考える。ゆえに私は、政治と切り離して宗教にだけ専念することはできないし、宗教と切り離した政治をおこなうこともできない」と語っている。
宗教は個人の内面に基礎を置きつつも、個人の内面の変革が内面生活にとどまらず、社会に対する働きかけと行動に昇華されるべきものであり、宗教活動は現実社会から遊離したものではない。政治に哲学や倫理の不在が言われる今日、宗教が政治に参画することがいやまして必要になってきていると言える。