青年部「信教の自由」研究会(代表 弁護士・中村秀一)編
論考「宗教団体の政治活動について」
弁護士を中心とした青年部「信教の自由」研究会(代表=中村秀一弁護士)が、このほど論考「宗教団体の政治活動について」を作成、本紙に寄稿した。今号から、全文を掲載する。
1.宗教者の政治活動は人類の英知
宗教とは、人間の幸・不幸の根幹に関わる営みである。ゆえに人間社会の繁栄に直結する「政治」に関与していくのは理の当然である。事実、有史以来の世界の宗教は、その社会的責任の一端として政治に関わってきた。
なかでも仏教が、釈尊の時代から積極的に政治参加してきたことは有名である。
そもそも釈尊自身が当時の政治指導者を教え諭すなかで「慈悲の精神に基づいた政治」を勧めたことは広く知られている。その教えに従い、教団も社会活動を積極的に推進した。
経典にも「道路を整備せよ」「果樹園を増やせ」といった釈尊の具体的な政治的言動が記されている。その内容も「経済」「治安」「福祉」「外交問題」など多岐にわたっている。
日蓮大聖人もまた、当時の日本国の政治状況を憂い、一切衆生の幸福への道を切り開くべく、時の最高権力者に対して「立正安国論」を提出し、国家諌暁を果たされた。そのために大聖人は数度の流罪・死罪に問われた。いわば大聖人は、その政治的言動によって権力の弾圧を受けたのである。
その日蓮大聖人の精神を受け継ぎ、国家と民衆の未来のため、政治的行動に挺身してきたのが創価学会の三代の会長である。
戦時中の軍部権力に対し国家諌暁を貫いた牧口常三郎初代会長は獄死。戸田城聖第2代会長も2年間にわたって投獄された。その遺志を継がれた池田第3代会長は、まったくの無実の罪による不当逮捕など幾多の迫害を乗り越え、世界でも類例のない民衆政党・公明党を創立し、日本の民主主義の建設のために大きな流れを作ったのである。
京都大学の梶山雄一名誉教授は、法華経の根本精神の一つとして「菩薩は世間に無関心であってはならない。政治・経済・文化を導かなければならない」との哲理を挙げ、大乗仏教を根本にした人々の政治参加を最大に讃歎
人間や社会を離れて宗教は存在しえない。宗教の政治参加は、人間の幸福や社会の繁栄に対する深い祈りと責任感の発露にほかならないのである。
2.宗教の欠如した政治は堕落する
一方、政治もまた人間を対象とする活動であり、人の幸・不幸に大きく関わるものである。その根本には、当然、深い精神性、人間性、高潔な倫理性が求められる。
世界の歴史をみても、多くの哲人政治家が宗教を希求し、志向してきた。
たとえばインド独立の父、マハトマ・ガンジーは語っている。「宗教の欠如した政治は、国家の首を吊るロープであります。いつの場合も、政治は宗教の説く真理の道に従って進むべき」(池田運訳)と。
ドイツのヴァイツゼッカー元大統領もまた「政治は精神に近づく道を求めるべきである。精神の領域からの批判的な声を嫌ってはならない。それに学ぶことを心得ているべきなのである」(加藤常昭訳)と断言している通りである。
◇
日本とは国の成り立ちが違うものの、民主主義大国アメリカの場合は、どうか。
アイゼンハワー元大統領は「アメリカの政治体制は熱心な宗教的信条の上に基礎づけられていなければ意味をなさない」(森孝一訳)と語っている。
これは単なるスローガンなどではない。米国では、それほどまでに政治の根本をなす土台として、宗教の役割が重要視されているのである。
たとえば、大統領の就任式である。
新大統領は「聖書に手を置きながら」職務に全力を尽くすことを宣誓する。これは初代大統領ジョージ・ワシントン以来の伝統である。また多くの大統領が、就任演説で聖書の文言を引用している。
さらにまたドル紙幣にも「In God We Trust(われら神を信ず)」と印刷されていることも有名である。
米国では建国以来、ごく自然な形で政治の基盤に宗教性が融合されているのである。
もちろん米国は、厳格な「政教分離の原則」を定めている。そのうえで専門家は、次のように指摘している。
「アメリカは歴史上、最初に国教制度を憲法によって否定し、信教の自由を保障した国だが、それは『政治における宗教的次元』を否定することではなかった。むしろ、政治を含む公的領域における宗教的次元は、積極的に肯定されてきた。このあたりが、日本における政教分離の議論ではじゅうぶんに理解されていないし、アメリカにおける政治と宗教の関係が、日本においてはなかなか理解されない原因となっているように思われる」(森孝一著『宗教から読む「アメリカ」』講談社)
「特定の宗教が政治に関わること。これは政教分離に違反することではない。このあたりについての理解が、日本においては混乱しているのではないだろうか。もしイデオロギーによる政治団体は認めるが、宗教や信仰に基づく政治団体は認めないとするならば、それこそ憲法違反であるというべきであろう」(同)
すなわち、米国では宗教的信条を政治体制の基礎として重視し、また米国における「政教分離の原則」とは、宗教が政治に参加していくことを何ら妨げるものではないのである。
奴隷制度廃止の運動やキング博士による公民権運動などの人類史的成果も、宗教の政治参加によってもたらされたものだという重い事実を忘れてはなるまい。
3.「信教の自由」こそ人権の基礎
世界の多くの人々が当然のごとく享受している近代の「基本的人権」も、決して初めから人類に与えられたものではない。17世紀イングランドの清教徒革命やフランス革命などを通じて、民衆が不屈の闘争のすえに、戦い取り、勝ち取ったものである。
その中心をなし、精神の自由に関わる全ての人権の基盤ともされるのが「信教の自由」である。
「近代の自由主義は、中世の宗教的な圧迫に対する抵抗から生まれ、その後血ぬられた殉教の歴史を経て成立したものである。それだけに、信教の自由は、あらゆる精神的自由権を確立するための推進力となったもので、歴史上きわめて重要な意味を有する。したがって、信教の自由は人権宣言の花形に数えられ、各国憲法のひとしく保障するところである」(芦部信喜著『憲法』岩波書店)
信教の自由を侵害することは、長年にわたって民衆が勝ち取ってきた人権と民主主義の珠玉の成果を破壊する行為であり、人類進歩の時計の針を逆戻りさせる愚挙であると言わねばなるまい。
4.「政教分離の原則」とは何か
日本国憲法は第20条で「信教の自由」を保障している。同条第1項は次の通りである。
「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」
日本国憲法は、もともと英語で書かれた草案の日本語訳に基づいている。そのため、日本語として今一つ主語がはっきりしない部分があり、それが無用の混乱を生んでいる。このことは、多くの法律家が指摘してきたところである。
この第20条も同様であり、一読すると、あたかも宗教団体に対して何かを命令しているかのように見えるが、全くそうではない。
では、この憲法第20条の本質とは何であろうか。
そもそも憲法とは、主権者である国民が「国家権力を制限する基礎法」(前出・芦部氏)であるとされる。
つまり国民が、自分たちの基本的人権を守るために、国家に対して権力の濫用を戒めた「命令書」とも言い換えられよう。憲法は、市民や一般団体の行動を制限するものではなく、あくまでも「国家の行為を制限」するものなのである。
ゆえに、この憲法20条もまた、国民の「信教の自由」を保障するために、国家を制限するために存在する。すなわち国が特定の宗教に特権を与えたり、逆に特定の宗教を弾圧したりすることができないように、制限事項を明確に定めているのである。当然ながら、宗教団体や宗教者の政治活動を制限する規定では全くない。
◇
「信教の自由」を保障するために、同じく憲法20条で規定されているのが「政教分離の原則」である。
この「政教分離の原則」に関しても、憲法学者の見解は概ね一致している。
「国家の非宗教性の原則または国教分離の原則」(宮澤俊義著『日本国憲法』日本評論社)「国家の宗教的中立性を明示した規定」(前出・芦部氏)と明確に解説している。
すなわち「政教分離」の「政」とは「国家」のことであって「政党」「政治団体」「政治活動」のことではない。「政教分離」は「国家」と「宗教」の分離を定めたものであって、政治と宗教の分離を定めたものではない。
これが憲法学の常識である。
英語でも「政教分離」は「セパレーション・オブ・ポリティクス・アンド・レリジョン」(=政治と宗教の分離)ではなく、「セパレーション・オブ・チャーチ・アンド・ステート(=教会と国家の分離)」と表現される通りである。
5.歴代政府の見解も一貫
「政教分離」をめぐる政府の見解も、憲法学の常識と一致している。憲法制定以来60年間、完全に一貫しており、微動だにしていない。
まず終戦直後の1946年、日本国憲法の制定が論議された「制憲議会」の議事録を引用したい。憲法担当大臣が次のように答弁している。
◇
松沢兼人委員「(憲法第20条に)『いかなる宗教団体も……政治上の権力を行使してはならない。』と書いてあるのであります、是
金森徳次郎国務大臣(憲法担当)「宗教団体そのものが政党に加わるということがあり得るかどうかは遽
◇
ここで確認されていることは「宗教団体の関係者が政党に加わり、政治上の権利を行使することは問題ない」ということである。
続いて質問者は宗教団体が政党を結成するケースに踏み込む。
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松沢委員「例えば『カトリック』党というような党が出来まして、是が政治上の権力を行使するというような場合はこの規定に該当しないと了解してよろしゅうございますか」
金森大臣「この権力を行使するというのは、政治上の運動をすることを直接に止めた意味ではないと思います、国から授けられて正式な意味において政治上の権力を行使してはならぬ、こういうふうに思っております」(1946年7月16日「第90回帝国議会衆議院 帝国憲法改正案委員会議録」。表記は現代仮名遣いに改めた)
◇
一切は明確ではないか。ここで金森大臣が明言しているのは「宗教団体が政党を結成しても問題はない」「その政党が政治上の運動(政権を目指す運動)をしたとしても問題はない」ということである。
すなわち、制憲議会において既に、以下の3点が明確に確認されているのである。
@宗教団体が政治に参加しても問題ない。
A宗教者の政党が出来ても問題ない。
Bその政党が政治上の運動をしても問題ない。
宗教団体の政治参加については、既に憲法制定時から徹底的に議論し尽くされ「全く問題がない」との結論が出ていたのである。
◇
ここで議論に出てくる「政治上の権力」とは何かについて言及しておきたい。
広く認められた憲法学の解釈に基づけば、国または地方公共団体に独占されている「統治的権力」のことをいい、具体的には「立法権、裁判権及び課税権、行政機関の職員の任命権等」(2000年5月19日の政府答弁書)のことである。
これを「特定の宗教団体に付与する」ということは、つまり、神社で神主が裁判をしたり、寺で僧侶が税金を集めたりするようなものである。現代の日本では考えられないことであるが、かつては多くの国で教会や寺院が統治的権力を行使したことがあった歴史的事実を踏まえて、この規定がおかれたものである。
論考「宗教団体の政治活動について」
(から続く)
これまで政府は、制憲議会で示された見解を一貫して堅持してきた。内閣の「憲法の番人」と呼ばれる歴代の内閣法制局長官による多くの答弁が厳然と残っている(別表1)。
また歴代の内閣総理大臣も「宗教団体の政治参加は問題なし」と明確に答弁している(別表2)。
たとえば1970年3月から5月にかけて、民社党代議士・春日一幸と共産党代議士・谷口善太郎が、執拗に宗教団体の政治参加を中傷する旨の質問主意書を提出した。
これらの背景には、政治的な思惑から宗教団体による政治参加を抑圧・牽制しようという悪辣な意図があったのである。
これに対し当時の佐藤栄作首相は、4回にわたって「宗教団体の政治活動は全く問題なし」とする答弁書を出している。
その後も国会を舞台に、同様の動きがあったが、その度に政府側から、宗教団体の政治参加が憲法上明確に保障されていることを確認する答弁がなされてきた。
6.憲法無視の暴論を破す
かくも揺るぎない「政教分離の原則」をめぐって、政治的な思惑や悪意に基づき、その趣旨や解釈を捩じ曲げ、創価学会の政治参加を抑圧しようと誹謗中傷を企てる輩が一部にいる。
そこで、これまで述べてきた内容と重複する部分もあるが、そうした暴論・妄説を以下に取り上げて反論を加えておきたい。
誹謗中傷@
「宗教者や宗教団体は政治活動してはいけない。憲法違反である」
↓
「宗教団体の政治活動を規制することこそ憲法違反である」
憲法の「政教分離の原則」は、あくまでも「国家」に対して「宗教」への干渉や特権付与を禁じたものである。宗教者や宗教団体の政治活動を禁じたものでは全くない。
そもそも宗教者や宗教団体の政治参加を規制することこそ、憲法第14条に定められた「法の下の平等」や同第21条の「表現の自由」「言論の自由」に違背する重大な憲法違反の行為なのである。
誹謗中傷A
「宗教団体を母体として政党をつくってはダメ」
↓
「憲法第21条『結社の自由』を否定する憲法違反の暴論である」
日本国憲法は第21条で「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と規定している。全ての国民や団体が、政治団体を含むあらゆる団体を作ったり、これに参加したりする自由が保障されているのである。
しかるに、宗教団体だけが政党を組織できないということになれば、宗教を信仰する者だけに「結社の自由」が認められないことになる。
これは「法の下に平等」に反する憲法違反の暴論である。
誹謗中傷B
「創価学会の施設を政治活動に使うなら、課税せよ」
↓
「『課税する必要なし』との判決が確定」
「創価学会の施設を政治活動に使うなら、課税せよ」と難癖をつけ、東京都知事らを相手に行政訴訟を起こした脱会者らがいた。
これに対し裁判所は、脱会者らの一切の請求を退けた。学会の支援活動における会館利用の実態を踏まえたうえで、学会の会館利用は「課税要件に該当しない」との明確な判決を示し、これが確定している(2004年4月、05年6月。いずれも東京地裁)。
誹謗中傷C
「学会と公明党は政教一致、政教一体だ」
↓
「学会と公明党との関係についての『ためにする』中傷である」
憲法に定められている「政教分離の原則」について、あたかも「政治団体」と「宗教団体」の「分離」であるかのように誤った解釈をして「政教一致」「政教一体」と騒ぐ者がいる。これは全くの妄説である。誰が言い始めたのか。
公明党結成(1964年)の翌年8月に、一部の宗教学者が行った講演で「政教一致運動」なる呼称を随所に使っていたという。
これが文献上確認できるうちで最初の「政教一致」発言ではないかとされる。
これを遡る62年、公明政治連盟が発足した直後に、やはり一部の宗教学者が雑誌で「政教分離に違反」云々と憲法の本旨を全く無視した暴論を書き立てている。
つまり「政教一致」「政教一体」とは、公明党の政界進出に反発した者が、悪意に基づくレッテル貼りのために捻り出した「反人権、反憲法の造語」といえよう。
7.創価学会の政治参加こそ宗教団体の模範
宗教の政治参加は、先進的な民主国家においては「常識」である。
国際宗教社会学会の元会長、カール・ドブラーレ博士は明言している。
「ヨーロッパでは宗教団体が政党をつくるのは、ごく一般的にあることです」
「我が国・ベルギーでもキリスト教を基盤とする政党(キリスト教社会党)があります。選挙に関しても、教会が組織力を動員し、学校や労組を通じても支援しており、大きな成功を収めています」
これに対し、一部の日本人は、宗教の政治参加に感情的な反発をみせる。その偏狭ぶりを示すエピソードがある。
米スタンフォード大学のネル・ノディング博士(名誉教授)は、日本を代表する著名な学者から「学会とは交流しないほうがいい」と言われたという。
博士が理由を尋ねると「学会は貧乏人と病人で出発した団体だから」と言う。
博士は「そうした庶民を救済するのが、まさに民衆運動の使命ではないでしょうか」と尋ねる。すると学者は「しかし今は政治的な力を持って、問題になっているのです」と反論した。
博士は、半ば呆れつつ、こう切り返した。
「庶民を糾合した団体が、社会的に大きな影響力を与えて、何が悪いのですか」
日本の学者は、絶句してしまったという。
知性の力で事象の本質を見極めようとする碩学と、偏見や感情に左右される「習い損ないの学者」。どちらの言い分が正当かは明々白々であろう。
◇
欧米の学識者の見解は一致している。
ドブラーレ博士は「宗教団体が、その信条に基づいて『社会は、このままでよいのか』と問題提起し、政治に影響を与えるのは当然のことです」とも断言している。
米タフツ大学のハワード・ハンター名誉教授は「宗教の政治へのかかわりに遠慮が必要などと考えるのは、まったくバカげています」と主張している。
さらに日本でも、学会の政治活動に期待する声がある。「革新政党が大組織の労働者にばかり目を向けているなかにあって、創価学会は政治の谷間に置き去りにされた『未組織労働者』に光を当て、彼らに生きる希望を与えていったのだと思います」(評論家の高橋隆治氏、『外から見た創価学会』第三文明社刊)
◇
「創価学会以前の大多数の宗教団体の信徒は、お布施を出していればそれで良かった。だが、創価学会は信徒に信仰活動への参加を要求した。現代的に洗練された信仰活動に信徒を参加させることで、信徒自身の力を引き出そうとしたのである。これによって、創価学会は『現代に生きている宗教』として成功したのである。『能動性』を得た信徒が、自らの家族や親類、さらに自分が参加する地域や社会へとかかわっていこうとするのは自然の流れである。その流れの延長線上に、創価学会の政治参加、公明党の結党がある」(評論家の佐藤優氏、『潮』2008年11月号)
◇
いずれにせよ、多くの学識者、専門家の見解にも共通するのは、この現実社会にあって、普遍的な精神性や人間主義の支柱に貫かれた学会の政治活動への満腔の賛意であり、讃歎である。
米デンバー大学のハーディング博士は語っている。
「正義とヒューマニズムに満ちた社会を築くためには、宗教的な信条を深く培った市民の存在が不可欠なのです」と。
換言すれば、学会の政治活動への批判もまた、学会が時代の先端をゆくがゆえの一現象ともいえよう。
学会による政治参加は、世界の民主主義の標準からみて、最も正統であり、先進的であり、模範的であることの証左なのである。
歴代内閣法制局長官の答弁 表1
@1994年10月12日 大出峻郎 内閣法制局長官
「政教分離の原則は、国及びその機関が国権行使の場面で宗教に介入し、あるいは関与することを排除するという趣旨である」「宗教団体が政治的活動をすることまで排除するという趣旨ではない」
A1999年7月15日 大森政輔 内閣法制局長官
「宗教団体が支援している政党が政権に参加しても、直ちに憲法が定める政教分離の原則にもとる事態が生ずるものではない」
B1999年12月3日 津野修 内閣法制局長官
「宗教団体と非常に密接な関係にある政党に属する公職の候補者が、その宗教団体の推薦、支持を受けて公職に就任し、国政を担当するに至る場合でも、その宗教団体と国政を担当する者とは法律的には別個の存在であります。したがいまして、宗教団体が政治上の権力を行使しているということにはならない」
C2007年10月16日 宮崎礼壹 内閣法制局長官
「信教の自由の保障を実質的なものにするため、国その他の公の機関が国権行使の場面において宗教に介入し、又は関与することを排除する趣旨」「宗教団体又は宗教団体が事実上支配する団体が政治的活動をすることをも排除する趣旨ではない」
歴代内閣総理大臣の答弁 表2
@1970年3月31日 佐藤栄作 首相
「憲法の定める政教分離の原則は、憲法第二十条第一項前段に規定する信教の自由の保障を実質的なものにするため、国その他の公の機関が、国権行使の場面において、宗教に介入し、または関与することを排除する趣旨である」「宗教団体又は宗教団体が事実上支配する団体が、政治的活動をすることをも排除している趣旨であるとは考えていない」(内閣衆質六三第二号)
A同年5月19日
「宗教団体が公職の候補者を推薦し、もしくは支持すること、またはこの結果、これらの者が公職に就任して国政を担当することを、この原則が禁止しているものとは、考えられない」(内閣衆質六三第六号)
B2000年5月19日 森喜朗 首相
「特定の宗教団体と密接な関係にある政党に所属する者が内閣の構成員になったとしても、当該宗教団体と当該内閣の構成員とは法律的に別個の存在であり、宗教団体が『政治上の権力』を行使していることにはならない」(内閣参質一四七第二九号)
C2008年10月2日 麻生太郎 首相
「政教分離は宗教法人の政治的活動を排除する趣旨でない」(参議院本会議)
※ほかにも、以下のような同趣旨の首相答弁がある。
細川護煕首相(93年10月6日、衆議院予算委員会)
羽田孜首相(94年5月24日、衆議院予算委員会)
村山富市首相(95年11月22日、参議院本会議)
橋本龍太郎首相(96年12月3日、衆議院本会議)
小渕恵三首相(99年11月17日、両院予算委員会合同審査会)