日顕宗を破す

2009.10.21. 創価新報


 凋落の一途をたどる邪教団・日顕宗。ここでは、日本仏教に悪影響を及ぼした檀家制度の悪弊を現代に引きずるその根本的体質を暴く。

 宗教の目的は人間を幸福にすることである。
 仏教の創始者・釈尊(しゃくそん)出家(しゅっけ)の動機は、生老病死という人間の根源的な苦悩の克服であったとされている。
 また、日蓮大聖人は「一切衆生(いっさいしゅじょう)同一苦(どういつく)(ことごと)(これ)日蓮一人の苦と申すべし」(御書587n)と仰せのように、あらゆる人々の苦しみをわが苦しみとする同苦(どうく)の精神で、民衆救済へ戦われた。
 その目的から逸脱し、形骸化した宗教は、人間を弱くし、愚かにし、不幸にする。
 鎌倉時代、大聖人はそういった形式化、権威化した仏教諸派を痛烈に弾呵(だんか)された。
 国主(こくしゅ)諌暁(かんぎょう)の書「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」には「仏閣(ぶっかく)(いらか)(つら)経蔵(きょうぞう)(のき)を並べ(そう)竹葦(ちくい)(ごと)(りょ)稲麻(とうま)に似たり祟重(そうじゅう)()尊貴(そんき)()に新たなり、(ただ)し法師は諂曲(てんごく)にして人倫(じんりん)迷惑(めいわく)王臣(おうしん)不覚(ふかく)にして(じゃ)(しょう)(べん)ずること()し」(同20n)と記されている。
 当時、寺院や経典、僧侶が国中に数多く存在し、一面、仏教が隆盛しているように見えた。
 しかし、権力者たちは仏教の正邪を見極めようとせず、悪僧の邪説が人々を惑わしていた。宗教者は幕府権力に迎合し、「布絹(ふけん)・財宝をたくはへ利銭(りせん)借請(しゃくしょう)を業とす」(同476n)、つまり蓄財に狂奔するという有様であった。
 人間の幸福≠ニいう根本目的を忘れた宗教の悪弊が時代の混迷を深めていたのである。
 そして日本仏教の形骸化は、江戸時代に幕府が推進した「檀家制度」によって極まる。
 現代の日本において、仏教が葬式仏教化した大きな要因は、この檀家制度にある。

檀家制度の歴史

 江戸幕府が開かれて間もない17世紀初頭、キリスト教の教勢を恐れた幕府は、キリシタンに仏教諸派への改宗を迫るようになった。そして毎年のように弾圧やキリスト教の禁止を繰り返すようになっていった。
 やがて幕府は、すべての人に寺院に所属することを強制し、「キリシタンではない」ことの証明書を、寺が発行するようになった。
 これを「寺請(てらうけ)証文」と言い、村ごとに「宗門人別帳」としてまとめられ、管理された。これは現代の戸籍にあたるもの。
 このようにして「檀家制度」が日本の社会に根付くようになり、幕府と寺院・僧侶による民衆支配≠フシステムが確立されていくのである。

寺による民衆支配

 寺請証文は、葬送儀礼や住居の移動、結婚など、社会的活動のあらゆる場面で必要とされた。
 もし、寺から寺請証文が発行されなければ、「宗門人別帳」から除外される「(ちょう)(はず)れ」となり、戸籍を失い、身分を抹消され、生活も大きく制限された。周囲からは村八分%ッ様の差別の憂き目にあった。
 寺院・僧侶が民衆の身分保障を握ったのだ。このシステムが構築される中で、寺院の権威は肥大化していく。僧侶は、信徒を傲然と見下すようになり、民衆は僧侶に対して畏怖(いふ)の念を抱くようになっていった。
 本来、仏教では、僧俗の平等を説いている。
 しかし、檀家制度が生みだす非人道的な主従関係が、日本仏教における僧俗観の(もとい)として定着していくことになった。
 現在、日顕宗が「法主(ほっす)信仰」「僧俗差別義」といった珍説を唱えているのは、そうした檀家制度がつくりだした悪しき僧俗観への、羞恥心なき執着である。

葬式仏教化

 檀家制度によって葬送儀礼も変化した。
 従来、民衆が自発的に取り行っていた葬儀が寺院の管轄となり、人々は所属する寺院を通して、追善供養などの儀式を行わねばならなくなった。多額の供養によって、僧侶の懐は大いにうるおっていった。
 葬式には坊主を呼ぶ≠ニいう風習は、この頃、日本社会に定着したものである。
 また「四十九日」「百箇日」「お彼岸」「お盆」などの法事が徹底され、大衆化されたのもこの頃である。
 悪僧どもにとっては、死人が一人でも多く出ることが望ましい。しかし死人の数は限られる。
 ゆえに親類・縁者に、何度も故人への追善の機会を持たせることによって供養を貪ろうと考えたのだ。
 仏教本来の教義と掛け離れた化儀(けぎ)の悪用≠ノよって私腹を肥やす僧侶が、檀徒を生活の(かて)≠ニして見るようになったのは必然と言えよう。
 日顕宗が登山、塔婆、戒名などを檀徒に強要し、供養を搾り取るあさましい姿は、その典型である。

折伏精神の忘却

 寺からすれば収入源≠ナある檀徒が減るのは死活問題であった。
 当初、檀徒の離檀(寺を替える)は、幕府から禁止されていたわけではなかった。
 各寺院は檀徒の囲い込みに執心。しかし、その方法は折伏ではなく、多くの寺院が離檀禁制≠フ偽書作成・徹底という姑息な手段に及んでいった。
 宗教の魂ともいうべき布教によって教勢を広げようという意思はさらさらない。手練手管の陰謀を(ろう)し、他宗との馴れ合いの中で、信徒から、いかに多くの布施を確保するかが目的なのである。
 離檀の禁止は次第に鉄則となり、檀徒が所属する寺を替えることはなくなっていった。
 また、幕府によって他宗破折(はしゃく)・自宗の教義宣揚が禁止されていたため、僧侶には、教義への理解を深めても、その知識を発揮する場がない。ゆえに民衆の幸福よりもカネ≠優先する寺院では、教義の練磨が行われなくなり、僧侶は折伏精神を失っていった。
 現代における腐敗教団≠フ代名詞的存在である日顕宗。やはり坊主が折伏をしない、できない、する気もない。
 折伏目標の達成率が1割、2割などという寺がざらなのも、折伏精神が欠落した坊主の責任である。しかし、そのことを棚に上げ、信徒をノルマで圧迫し続けている。
 また、平成元年(1989年)7月に、日顕が禅宗の寺に先祖代々の墓を建て、その法要を行っていたことが発覚した。仮にも日蓮正宗≠自称する教団の法主が、である。
 日顕の正体が破折(はしゃく)精神のない謗法(ほうぼう)法主≠ナあることの証左だ。
 日顕宗は現在に至るまで脱講者が後を絶たない。「檀家は減らない」という時代は終わっているのだ。
             ◇
 以上のように、檀家制度がもたらした悪弊が色濃い日顕宗。その愚行の究極ともいえる「正本堂破壊」や日顕宗の邪義について、以後、詳述していく。

日顕宗の邪義・愚行

C作戦と正本堂破壊

 1990年(平成2年)、学会への嫉妬に狂った日顕は「C作戦」なる陰謀を企てる。池田名誉会長の総講頭罷免、また学会に対する「解散勧告書」の送付など、根拠なき言いがかりをつけ、学会員の切り崩しを謀ったのだ。
 日顕は学会員のうち20万人が宗門につけばいい≠ネどと放言していたという。食い扶持(ぶち)≠ニして20万人が必要だったのだろう。結局はカネである。信徒の幸福など完全に無視した、およそ仏法者とは思えない無慈悲な発言である。
 あろうことか、平成の世にあっても信徒は搾取する存在≠ニいう時代錯誤の発想から脱却していなかったのである。
 このC作戦によって(あら)わになった日顕の信徒蔑視(べっし)、信徒無視の体質。その病根は深く、やがて「正本堂破壊」という事件≠ヨと発展していく。
 正本堂とは、72年(昭和47年)に800万信徒の355億円もの供養によって建立(こんりゅう)された「民衆仏法の殿堂」ともいうべき建造物であった。世界中から人々が集まり、平和を祈念する姿は、大聖人が目指された世界広宣流布の夜明けを感じさせた。
 また、その建築美は世界からも極めて高い評価を受けた。供養に参加した信徒の誇りであり、希望そのものであったのだ。
 しかし日顕は98年(平成10年)に、明確な理由もなく正本堂を破壊するという暴挙に出た。宗内の僧侶の反対を押し切り、そして供養を重ねた信徒の真心など、まったく無視して。
 この一連の経緯が象徴しているのは、日本における仏教の腐敗と堕落に甘んじきっている日顕、及び日顕宗の僧侶たちの脆弱(ぜいじゃく)な信心である。
 先に確認した通り、檀家制度以降、布教を禁じられた各宗は、信徒を支配するための安易な策に躍起になった。
 収奪した供養で絢爛(けんらん)たる大伽藍(がらん)を建立し、宗教的権威を誇示する寺院まであらわれた。つまり、信徒が建てた℃實@に帰属する建築物を、その威圧をもって信徒を支配する≠スめに利用したのである。
 この前時代的感覚を現代にまで引きずる日顕が犯したのが「正本堂破壊」という大罪であった。
 日顕にとって正本堂は、自分を権威化する伽藍ではなかった。正本堂はあくまで世界平和を標榜する存在であった。また、世界広宣流布実現に躍進する創価学会の偉大さを象徴していた。
 そのことが、日顕にとっては耐えがたかったのだろう。嫉妬に狂い、愚行に及んだのである。
 いまや、民衆の寺離れに対し、既成仏教でさえ、その体質改善の必要性に気付いている。華美な伽藍などで信徒の心はつかめるはずもない。何より、信徒に奉仕することなくして何のための聖職者か。
 時代の変化に取り残され、依然として僧侶が信徒を支配していた頃の栄華に固執する日顕宗。自浄能力、自己革新の精神が欠落したこの邪教団は、もはや誰からも見向きもされなくなった。信徒もかつての2%にまで激減。滅亡への坂道を転がり落ちていく無様な姿は哀れというより他ない。

法主信仰

 日顕宗が終始、主張するのは、法主を信仰の対象とする「法主信仰」「法主絶対論」である。
 宗門の公式文書(能化(のうけ)文書)には「本仏(ほんぶつ)大聖人、戒壇(かいだん)(だい)御本尊(ごほんぞん)、歴代の御法主上人(しょうにん)が、その内証(ないしょう)において、一体不二(ふに)尊体(そんたい)」と記されている。これは、歴代法主と御本尊が不二だと主張する邪義に他ならない。
 大聖人は「()曼荼羅(まんだら)()く能く信ぜさせ給うべし」(御書1124n)と仰せだ。御本尊根本こそが、日蓮仏法における正しい信心である。
 また「日興(にっこう)遺誡(ゆいかい)置文(おきぶみ)」には「時の貫首(かんず)()りと(いえど)も仏法に相違(そうい)して己義(こぎ)(かま)えば(これ)(もち)()からざる事」(同1618n)と。法主であろうと、自分勝手な主張をすれば用いてはならないとの戒めである。このような戒めが存在すること自体、「法主は絶対である」という法主絶対論を否定しているといえる。

神秘的な血脈観

 日顕宗で「法主信仰」なる考えが生ずる根底には、前の法主から相承(そうじょう)を受けるだけで仏の悟りが伝えられるとする神秘的な血脈観≠ェある。
 大聖人は「日本国の一切衆生に法華経(ほけきょう)を信ぜしめて仏に成る血脈(けつみゃく)()がしめんとする」(同1337n)と仰せになり、成仏(じょうぶつ)の血脈は特定の人ではなく万人にあると断言されている。また、「信心の血脈なくんば法華経を(たも)つとも無益(むやく)なり」(同1338n)と信心の血脈以外を明確に否定されている。
 信心に関係なく、相承を受けるだけで仏であるとする日顕宗の血脈観は邪義以外のなにものでもない。

僧俗差別義

 日顕宗には僧侶が上で、信徒は下≠ニいう「僧俗差別義」が根深く存在している。
 大聖人は「僧も俗も(あま)(おんな)一句(いっく)をも人にかたらん人は如来(にょらい)使(つかい)と見えたり」(同1448n)、「此の世の中の男女(なんにょ)僧尼(そうに)(きら)うべからず法華経を持たせ給う人は一切衆生のしう(主)とこそ仏は()らん(そうろう)らめ」(同1134n)と仰せになり、僧俗に差別がないことを断言されている。
 日顕宗の信徒蔑視の体質は、単に信徒を支配し、カネづる≠ノしたいがためである。
 万人救済を説く日蓮仏法の本義を見失った日顕宗は、日蓮仏法とは全く無縁の邪教団なのだ。

化儀の悪用

 日顕宗は、葬儀、法要、塔婆などの化儀を悪用し、金儲けの道具としてきた。
 それらの化儀が大聖人御在世からのものではなく、檀家制度によって定着した習慣であることは先に述べた。にもかかわらず「本宗伝統の法要化儀の一切は、その大綱において、大聖人以来、いささかも変わるものではありません」(解散勧告書)とうそぶく日顕宗の迷妄ぶりは、目に余る謗法だ。
 また日顕宗は僧侶が葬儀を行わなければ成仏できない≠ネどと吹聴している。これは「一生成仏」の法理を否定する大罪である。
 大聖人は「されば過去の慈父(じふ)尊霊(そんりょう)存生(ぞんしょう)に南無妙法蓮華経と唱へしかば即身成仏(そくしんじょうぶつ)の人なり」(御書1423n)と各人の成仏は生前の信心と行いによることを明確に仰せになっているのだ。
 大聖人の仏法を自分たちに都合のいいように曲解し、信徒から収奪する日顕宗を断じて許してはならない。


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