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狛弟子の狛一、狛乙はこのほど真打ちに昇進しましたので、のれん分けして独立部屋に移転しました。今後ともよろしくお願い申しあげます。狛太郎敬白。
各地の一の宮 総社・総鎮守などを称する神社
単独投稿の場合、狛一さんは、狛乙さんはで表示。
共同の投稿はで表すことにします。


秋山圭の創作狛犬

提供者:狛一さん
03.09.02
狛一さんのコメント:番外の狛犬さんです。嫁さんの母が、ちょっと前に村岡屋ギャラリーでの展示会で気に入り買って来ました。
秋山圭さんという北九州の作家さんの作品で、狛犬として展示してあったそうです。
狛太郎のひとこと:狛一さんの初投稿です。奥さんのお母さんのご協力ということで、どうも恐縮です。秋山さんは北九州の作家さんらしいですね。
あのギャラリーにはたまに行くのですが、こんな狛犬がいたなら是非欲しかった!ちゃんとアウンになってるし、実に可愛いです。奥さんのお母さん、いいものお持ちですね。きっとお守りになってくれますよ。


大町(おおまち)八幡宮

提供者:狛乙さん
03.09.18
狛乙さんのコメント:ホームページに私達の地元、大町の狛犬さんが無かったので送ります。
大町に住み始めて1年。歩いて5分の場所なのに初めて行きました。狛犬の建っている石には、何か書いてありましたが、読み取れませんでした。どのような写真を撮れば良いのか分りませんでしたが、こんな感じでよかったでしょうか?
(佐賀県杵島郡大町町大町)
狛太郎のひとこと:大町八幡宮は神亀元(724)年の創建と伝える古社で、横辺田郷(六角川北岸一帯)の総鎮守として崇敬されてきました。
狛犬は見事な岩狛ですね。この伸びやかで躍動感のあるなスタイルを生み出した砥川石工の創造力に、いつも感心しています。写真もパッチリです。大町町からは初の画像で、記念すべき一枚になりました。刻銘は慣れないとなかなか読みづらいですが、年号は途切れ途切れでも何とか推理できる場合がありますから、読める部分だけでも知らせて下さるとありがたいです。
これからもよろしくお願いします。


福母(ふくも)八幡宮

提供者:狛乙さん
03.09.24
狛乙のコメントさん:大町町、旧長崎街道沿いの佐賀銀行の先から少し北へ入り、階段を上がっていくと別世界が広がってました。神社へ行くとタイムスリップした気分になるのは私だけでしょうか? 樹齢400年の楠と、天井の絵が印象的なところでした。狛犬さんには、「藤津郡塩田村宮ノ本、石工・桑原鹿一、大正6(1917)年3月吉日」とありました。ここは台の背が高くて,精一杯、背伸びしての撮影でした。
(佐賀県杵島郡大町町福母)
狛太郎のひとこと:旧福母村は大町石炭史の端緒で、天明年間(1781〜89)には採掘が始まっています。近代に到ると杵島炭坑が起こり、創業者の名を取って「高取王国」と呼ばれるほど隆盛を極めたのです。その時期、積出港の住ノ江も活況を呈し、佐賀の香港と呼ばれたそうです。
さて狛犬は塩田石工の作品で、堂々とした風格ある蹲踞です。塩田石工のものは歯並びが良いですね。細部まで造り込むのが塩田石工の伝統です。この狛犬が奉納されたころは、大町から北方にかけて中小の炭坑を糾合して、高取王国が成長を遂げていく過程にあります。その後の炭坑の行く末もこの狛犬は見届けたわけで、炭坑史の生き証人(犬?)といえますね。


八の坪(はちのつぼ)天神社

提供者:狛乙さん
03.10.01
狛乙さんのコメント:久保田町新田にある、実家近くの天神様です。JA久保田から東へ行くと嘉瀬川堤防近くにあります。子供の頃から「おていじんさん」と呼んでおり、今回久保田町史にて初めて正式名称を知りました。
狛犬には、慶應三(1867)歳丁卯十二月吉と有ります。あごをべったりついて思わず微笑むかわいらしい狛犬さんでした、建物はだいぶ痛んでますが、月1回、地区の方がみんなでお掃除して大切に守られています。
長瀬神社の狛犬と似てると思いましたがどうでしょう。
(佐賀市久保田町新田)
狛太郎のひとこと:祭神の菅原道真は学問の神様として有名ですが、一方で雷神としての側面を持っています。京都で落雷被害が相次いだとき、これを不遇のうちに亡くなった道真の祟りとみた朝廷は、天神社を建ててその霊を慰めることにしたのです。
さて、狛犬はお馴染みの岩狛ですが、ちょっと変わった形をしています。「タロウ」を岩狛の典型例とすると、岩に乗せているのが前足でなくて顎であること、両前足で岩を抱くような格好であることなど、体勢に違いがあります。また顔立ちや体型も、タロウの厳しく俊敏な印象と違っておっとりした感じです。長瀬神社の狛犬に似ているというご指摘は鋭いと思います。確かにこんな感じですよね。長瀬神社の狛犬画像を送ってくれた狛奴さんも「かわいい」と言ってましたから、女性に受けるタイプなんでしょうか。


天子社(てんししゃ)

提供者:狛乙さん
03.10.03
狛乙さんのコメント:今日は三箇所目でやっと狛犬のいる神社にあたりました。江北町の旧長崎街道から参道を北へ登ると、大きな木が出迎えてくれました。狛犬には右面に大正14年4月17日中島和太助、裏面に石工岸川弥市とありました。撮影はまったく背が届かず見上げての撮影でした。お顔を見ることが出来ずざんねんでした。脚立が無いと無理でした。
(佐賀県杵島郡江北町上小田)
狛太郎のひとこと:当社は最初、神功皇后を祭神として創祀されました。
その後、天平年間(8世紀)には仲哀天皇と応神天皇を合祀して大森大明神と称していました。室町時代(14世紀)に再建されたとき、これを上中下宮に分けて、応神天皇を祀る中宮を天子社と称したのだそうです。
狛犬はなかなか堂々とした蹲踞です。岸川弥市は砥川石工かと思われますが、ヒゲや尾、体格など作風は佐賀市内(愛宕神社など)で見られるものに似ています。


乙護社(おとごしゃ)

提供者:狛乙さん
03.10.04
狛乙さんのコメント:天子社の隣に、乙護法と書いた鳥居があり狛犬さんがいました。うんは逆立ちしています!!これこそ長瀬神社そっくり!!興奮!「紀元二千五百四十年明治十三年庚○(○は辰に見えました)第六月○院(○は上に見えました)」建立。このあたりからは所々しか読めませんでした。
(佐賀県杵島郡江北町上小田)
狛太郎のひとこと:乙護社の祭神は乙護法善神といい、天竺(インド)の徳善大王の王子で、童形で示現する仏法の守護神です。極めて仏教色の強い神なのです。ただし町史によると乙護社は上記「上中下」宮の上宮にあたり、祭神は仲哀天皇と神功皇后の夫婦とされています。
なお、乙とは若いとか幼いの意味です。明治13(1880)年の干支は庚辰で間違いありません。「上院」はよく分かりません。上浣と書いた例を見たことがあるような気がしますが、不確かです。「上澣」であれば上旬という意味なのですが…。
さて狛犬です。 顔立ちと姿勢はまさしく長瀬神社そのものです。よく見つけましたね。
というより、よく気づかれました。ウンが飛び込む姿勢の岩狛は、私は長瀬神社でしか見たことありませんでした。こういう発見が狛犬探しの醍醐味ですね!ただ、狛犬本体のデザインは、長瀬神社とは違っています。肩を怒らせた爬虫類っぽいこのタイプを私は「恐竜型」と名付けていますが、久保田の王子宮、佐賀市の伊勢神社平尾天満宮などで同類を見ることができます。


社名非公開
(江北町内)

提供者:狛乙さん
狛乙さんのコメント:(某所にて)足元をよく見ると、縦横40センチ位の狛犬が!!これは亜狛犬ではないだろうか??鳥居が崩れたのでしょうか、社名を刻した石板を囲み、2体いました。
顔は崩れかけていましたし無造作に置かれている・・・連れて行かれないのだろうかと心配です・・・・・・
(佐賀県杵島郡江北町)
狛太郎のひとこと:ご心配はごもっともなので、場所は伏せることにしました。鳥居が崩壊して額だけが昔を伝えているとは、心痛む光景です。しかし狛犬が二頭とも健在なのに救われます。で、この狛犬は微妙です。首のくびれがあることや、体型が円柱状でないなど典型的亜狛犬とは違っています。しかし正面から見た顔の感じや、あるかなしかの四肢の表現などは亜狛犬そのものです。もしかして移行期のものかも知れません。それにしても、これは元々どんな姿勢で安置されていたのでしょうか。もっと立っていたとも思えるのですが、それにしては前肢が短すぎですしね。不思議な狛犬です。


熊野新宮社
(くまのしんぐうしゃ)

提供者:狛一&狛乙さん
03.10.13
狛一&狛乙さんのコメント:明治三十九(1906)年十二月吉日建設。「○江村六▽工」。 
○は読取不能、▽は石かな? 寄進者木須竹次郎、溝口次吉。耳がたれて、可愛いな〜なんて見てたらなにやら足元に物体が・・・・なんだコリャ??覗くと、なんと子犬ではないですか!! きゃ〜かわいいぃ ここは子授けの神様なんでしょうか?うんの顔がとっても母性溢れる顔に見えました。
(佐賀県杵島郡有明町)
狛太郎のひとこと:単に熊野大社と言うときは本宮、新宮、那智の三山の総称です。当社はそのうち新宮の神を勧請した神社ということになります。熊野信仰は中世に、「御師(おし)」と呼ばれる宗教者たちの活躍で広く流布しました。極めて神仏習合的で、山岳信仰の趣が濃厚です。
さて「○江村」ですが、明治22(1989)年の合併で誕生した「錦江村」であろうと思われます。
この錦江村はさらに、昭和30年に竜王村と合併して有明村が誕生しました。「有明町」になったのは、昭和37(1962)年のことです。
狛犬は素朴で優しい印象ですね。前足がやや前に湾曲した感じが古さを思わせます。ウンのお腹の下では子獅子が、両手で乳房にしがみついています。「子取り」は前肢の下に置くのが一般的ですが、このように具象化された授乳の意匠は初めて見ました。祭神の熊野速玉大神(はやたまのおおかみ)は子授けの神様というわけではなさそうですが、代わって狛犬が御利益を授けてくれるかもしれませんね。


天満宮
(島津城趾)

提供者:狛一&狛乙さん
03.10.16
狛一&狛乙さんのコメント:島津城址の小高いところに居ましたよ!!階段下の鳥居の右横にウン、階段上の右にウン、左にア(体長25センチの肥前狛犬?)の計3体がいました。アとウンの並びが逆に置いてありました。小さいけど、頑張って神社を守っているお姿に、頭をなでなでしたくなりました。
(佐賀県杵島郡有明町)
狛太郎のひとこと:平安末期、当地は白石氏の統治下にありました。その頃、島津の岡に築かれた山城が島津城です。白石氏は元寇の際にも活躍しており、鎌倉の御家人としてこの城から勇躍、博多を目指したのでしょう。
狛犬は典型的な肥前狛犬です。ただ、階段上の一対の方は、アウンが逆に置かれています。肥前狛犬はまっすぐ前を向く姿勢(つまり縦置き用)に造られていますので、逆に置いてもあまり違和感がないため、しばしば取り違えられています。この狛犬が造られたときには、島津城はもう城として機能していなかったでしょうが、あたかも古城を守るかのような姿が健気です。


牛間田(うしまだ)天満宮

提供者:狛一&狛乙さん
03.10.16
狛一&狛乙さんのコメント:文久九年酉○月吉日(○は菊に見えます)。世話人山口寿助、一番合戦五郎。○○元石工(○○は泉原にみえます)。茅葺の屋根が印象的な神社です。
(佐賀県嬉野市塩田町久間牛間田)
狛太郎のひとこと:文久は三年までしかないので、これは文久元(1861)辛酉年のことだと思われます。また菊月は九月の異称です。この牛間田の天満宮は、正暦年間(990〜995)に藤津郡冬野村と杵島郡牛間田村の氏神として創建されたと伝えられる有数の古社です。現在は上牛間田と下牛間田の氏神となりました。拝殿まで5柱の鳥居があるそうですから、相当に崇敬を受けた神社のようです。
狛犬は塩田石工の作品らしく、繊細で柔らかい髪の表現が魅力的です。ウンをよく見ると、前足を揃えて色っぽい仕草なのが笑えます。


海童(かいどう)神社

提供者:狛一&狛乙さん
03.10.17
狛一&狛乙さんのコメント:ア「明治三十一年戌九月吉日」、ウン「昭和参十一年戌九月吉日」。
ウンの後ろ足の部分はがれていて、破片が足元においてありました。見た目には分かりませんでしたが、アとウン、別々に出来たようです。
結構ひび割れがひどくて、痛々しい様子でした。それにしても、神社の蚊は血に餓えているのでしょう、恐ろしく吸われてしまいました。神社へ行く時は、虫除けスプレーが必要なようです。
(佐賀県杵島郡有明町)
狛太郎のひとこと:「明治31(1898)年は戊戌」「昭和31(1956)年は丙申」ですから、この一対は明治31年に同時に造られたと考えるのがよさそうです。このように、干支は読みにくい年号を識別するのにとても役に立ちます。
「大体そう見える」という程度でも、あとではっきりすることが多いのです。
狛犬は前足を踏ん張り、どっしりと腰を落とした姿に威厳があります。髪や髭も豊かで、とりわけ尾は凝った意匠のようです。それでいながら、全体としてはすっきりした像容に仕上がっており、石工の力量がしのばれる作品です。


志田(しだ)神社

提供者:狛一&狛乙さん
03.10.17
狛一&狛乙さんのコメント:昭和七(1932)年三月建設。○林、上野(○は橘に見えます)。
石工・小田繁八。発見!!アには、かわいい、おちんちんがありました。
(佐賀県嬉野市塩田町久間南志田)
狛太郎のひとこと:当社は南北志田地区の氏神で、松浦郡山代村(伊万里市)の青幡神社の分霊を祀ったと伝えられます。青幡神社の祭神・武甕槌(たけみかづち)神は松浦党の山代氏の守護神です。そこで、当社を創建した志田領主の鍋島十太夫という人物も、松浦党の子孫ということになります。
さて、狛犬は非常に変わった構図です。アが出雲式でウンが玉取りという一対は、初めて見ました。顔つきや尾の感じは、紛れもなく塩田石工の作風です。しかしアが動きのある姿勢の時は、ウンもそれに対応した構えとなるのが普通ですから、これは強い個性を意識した「意欲作」とか「問題作」の類なのではないでしょうか。アがモーションをかけているのに、ウンが泰然とやり過ごしている風情にも見えます。アにシンボルがあるということは、やはりこれはオスメスのペアとして造られたものです。


鳴瀬(なるせ)神社

提供者:狛一&狛乙さん
03.10.20
狛一&狛乙さんのコメント:
(上段)鳥居を見つけ、車を降りるとすぐ灯篭の上に狛犬を発見。
しかし!!何だこの格好は??右側にちんちんをしているようなあ=B
左側に倒立して足先をしっかり閉じ、少々首が辛そうなうん=B
「塩田馬場下村石工・筒井弥平」とありました。狛犬と台の部分以外は、新しく作り直してありました。
(下段)石段を登っていくと、右にウン左にアが見えてきました。なんとなく微笑んでいるように見える狛犬です。萬延元(1860)甲年六月吉祥日。萬延は古い字で書いてありました。(甲は申だったかもしれません) 。伊萬里横尾武右エ門、岩本作兵衛、田丸和兵衛とありました。水盤にも獅子?が彫ってありました。味納喜知へお昼を食べに行く途中で見つけました。ほかにもいくつかの神社が目に留まったので、「課題がいっぱいだね」と話しています。
狛太郎のひとこと:江戸時代前半、長崎街道は塩田を経由していました。
鳴瀬はその宿として栄えた町です。しかし18世紀初頭に塚崎(武雄)道が開発されたため、それ以降は幹線の地位を失いました。従って、17世紀末のケンペルは鳴瀬を通りましたが、幕末のシーボルトは通っていません。
(上段)は灯籠上の狛犬です。普通の狛犬では滅多にありませんが、灯籠上に置くときはどうしてか「直立と倒立のペア」が多いのです。ただ遠賀郡水巻町を中心とする地域では、この倒立した狛犬が多く見られます。なお石工の筒井弥平は、鹿島の救世神社の狛犬(明治44)の作者、筒井弥太郎と住所も同じであり、恐らく同門と推察されます。ただし作風はだいぶ異なります。
(下段)はオーソドックスな蹲踞です。豪華・細密な塩田石工の特徴は、まだ明瞭には現れていません。しかしびっしり並んだ歯並びに、その片鱗が見られます。この一対はまっすぐに前を向くタイプのようですから縦置き用だったと思われ、その点でも古風さを残しています。なお万延元年は庚申でした。


諏訪(すわ)大明神

提供者:狛一&狛乙さん
03.10.22
狛一&狛乙さんのコメント:有明町と白石町との入り組んだ場所にあります。
アにはおちんちんらしきものがありました。
尾がまっすぐ上を向き、お行儀良いのが気持ちよい狛犬です。
「石工藤津郡辺田・筒井文作」。
明治●八年▼末■旧十二月。●は兀の字の下の二つの払いの部分が上に突き出ている字。
▼は九の払いの部分が無い字。「乙」かも。
■は隹に似た字。
(佐賀県杵島郡有明町辺田字久治)
狛太郎のひとこと:尾の形が、デザインを重視する塩田石工の作風ですね。
尾は欠けやすいので、このように体から離して直立させないのが普通なのです。
「永石」「筒井」は塩田石工の代表的な姓です。さて「兀」に似た字は「廿」とも書き、
「二十」を表します。「十」を二つ並べた形なのです。
ちなみに、縦棒が一つ多いと「三十」です。
▼は、ご指摘通り「乙」でした(明治28(1895)年乙未)。■はちょっと分かりませんでした。こうして塩田石工の作品が増えてくると、やはりひとつの傾向というか、共通の個性が見えてくるようです。


天満宮(てんまんぐう)

提供者:狛一&狛乙さん
03.10.22
狛一&狛乙さんのコメント:茅葺屋根の古いが、きれいで大切に守られている所です。
が、農機具置き場、兼、神社になっておりました。その一番端に、肥前狛犬が一体、後ろ向きで奉納されてました・・・天を仰ぎ見て「前を向きたい!!」と言ってるのかも・・・・
(佐賀県杵島郡有明町)
狛太郎のひとこと:部落ごとに神社を維持するのは大変なことです。修理で間に合わなくなったとき、宮造りで新築するのは部落単位の経済では困難なことです。それで、本格的な神社建築は次第に失われる傾向にあります。残念なことです。しかし、趣のある茅葺きの建物で暮らしているこの狛犬は、まだしも幸せな方かもしれません。
ただ、やっぱり前を向きたいでしょうねー。

真打ち
プロフィル
狛一さんは釣り師にしてラーメニスト、狛乙さんはピアニスト兼家庭菜園主と、ご夫婦でマルチに活躍中。最近は狛犬研究にも精を出され、その収集力は抜群です。お二人の多彩で楽しい活動の様子は、サイト「よっし〜の今日もにこにこ」でかいま見ることができます。


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