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狛友(こまとも)から頂いた写真と情報を掲載します。
お気軽に情報をお寄せ下さい。
メールの添付ファイルとしてお送り下さい。楽しいコメントも期待します。
写真等をここに掲載する以外の目的で利用しないことをお約束します。
しかし万一盗用や転用された時、当方では対処いたしかねます。
従って、そうした場合に支障のあるデータは送らないで下さい。
なるべく欲しいデータは@奉納年A石工名B大きさ(目分量可)C神社名と所在地D神社由緒(由緒看板の写真など)Eあなた自身の感想、などです。また極力、斜め前からの写真を一枚入れて下さい。


葛木坐火雷神社(笛吹神社)

提供者:くろのすけさん
08.03.01
くろのすけさんのコメント:すっかりご無沙汰してしまいました。何かと忙殺されておりまして、なかなか狛犬に会いに行くことができない状況です。それでも、今年初めての狛犬写真を撮ったので、添付します。ちょっとユーモラスな、丸い目が浮き彫りになっています。
関西地方の狛犬のことはあまりよくわかりませんが、HPでいわれる浪花型系でしょうか?
吽型台座の背面に、天保3(1832)年の紀年銘がありました。
(奈良県葛城市笛吹字神山)
狛太郎のひとこと:ご多忙の中、投稿ありがとうございます。
当社名は「かつらぎにます・ほのいかづち」神社と読み、また笛吹神社とも通称せられます。
延喜式内の名神大社で、また10代崇神天皇の時には既に鎮座していたという古社です。
主祭神火雷神は火の神、鍛冶の神ですが、併祀の天香山命(あめのかぐやまのみこと)の故事に因んで、笛吹神社と呼ばれることが多いそうです。天香山命は天岩戸事件の折、笛を吹いて天照大神の心を慰めたとされる神です。
狛犬は18世紀的面影を残した浪花型です。この狛犬が奉納された天保年間には、既に次世代浪花型(参考:三島神社)が普及していたはずで、この作品は見る人にいささかノスタルジックな印象を与えたものと想像されます。幾分胴長で体が寝ており、顔立ちも忿怒相にしては威圧感がありません。そんな「あか抜けなさ」が、逆に親しみやすさを醸し出しているようです。


著(ちゃく)神社

提供者:TAKOさん
08.03.09
TAKOさんのコメント:12個体目となった備前焼狛犬? 欠損部分が多い焼き物狛犬の中では完全品と思われます。狛犬にも感動しましたが、自然が残る所で、メジロなど人の近くには寄り付かない鳥が逃げない。自分から寄ってきてこちらを見ている。いい島、上島町です。
(追記)東寺古文書で国会図書館を検索しましたが、検索できませんでした。今日まぁ試しとグーグルで検索すると、「東寺百合文書」でゲットです。やはり当時は「客宮」となっているようです。いつから「著神社」になったかは不明です。狛犬を媒体として、資料を見て時代を感じる、何と贅沢な趣味なのでしょう。あぁ〜、それから私は古文書が読めません。最近になって台座の草書の年号が何とか読めるようになったばかりです。勉強しなくては。
(愛媛県越智郡上島町弓削引野)
狛太郎のひとこと:上島町は04年に上島諸島と魚島群島が合併して誕生しました。
瀬戸内海の中央付近にあって、尾道市因島とは指呼の間に位置し、愛媛県最北域の町です。
お送り頂いた資料によれば、東寺古文書の応長元(1311)年条にある「客宮」が、現在の著神社であるようですね。客→著という転訛は音韻学的にどうかは分かりませんが、他に手掛かりがなければそう考えるのが自然な気がします。元の社名の「客」については、門客神(もんきゃくしん)あるいは客神(まろうど)が想起されますが、どうでしょうか。 ところで、石に刻まれた文字の判読には本当に苦労しますね。特に草書体や異字体だとお手上げのことがあります。
狛犬は立派な備前焼の作品です。焼物らしい柔らかな線と面で構成され、特有の渋い色彩に包まれています。ウンの頭頂には立派な一角が施され、伝統様式が順守されています。


若草山仏頭石(ぶっとうせき)

提供者:くろのすけさん
08.03.30
くろのすけさんのコメント:奈良の若草山の麓、静かな木立の中に、知る人ぞ知るユニークな仏頭石があります。仏様の頭の下部が六角柱になっており、各面に観音様をレリーフするという面白いものです。で、これが何で狛犬に関係があるかというと、、実は、いるんです。
浮き彫りになった各面の観音様の前に、向き合っているお狗さま(?)が!厳密には狛犬とは云えないかも知れませんが、こんなのもあるということで、ご報告させて頂きました。ちなみに私には判読できませんでしたが、ものの本によれば、「永正十七年(1520)」の銘があるそうです。
(奈良県奈良市春日野町)
狛太郎のひとこと:若草山は奈良公園にある標高342mの小山で、麓には大仏で有名な東大寺とその鎮守社である手向山八幡宮などが鎮座しています。
 さて、この仏頭石というのは初めて見ました。
丸彫りの頭部があり、塔身は六角柱で各面に全身像のレリーフ、さらにその下部には向かい合う狛犬という手の込んだ細工が施されています。写真では少し分かりづらいのですが、よく目を凝らすと、右図のような輪郭が浮かび上がってきます。仏教遺物には古いものが多く、この作品も室町時代のものです。保存状態は良好です。


春日大社(かすがたいしゃ)

提供者:くろのすけさん
08.05.01
くろのすけさんのコメント:
藤原氏の氏神であった春日大社。写真は二の鳥居にある狛犬です。台石の記銘を見ると、谷井友三郎という人が、昭和四十三年に奉納したものと分かります。
谷井友三郎とは、平城遷都1250年祭(S35=1960)などをプロデュースするなど、奈良の政界、興行界の重鎮であった人物だということです。
春日大社鎮座1200年、ならびにご自身の金婚式を記念しての奉納というのがユニークに思いました。


(左)春日大社の参道には多くの石灯籠が奉納されており、中には変わった形状のものもあります。おまけの写真では、お地蔵さんを刻んだ龕部を二匹の獅子(?)が支えています。これなども面白いので写真に撮っておきました。


(奈良県奈良市春日野町)
狛太郎のひとこと:春日大社は延喜式内の名神大社で、和銅3(710)年、藤原不比等が鹿島神宮の武甕槌命を勧請したのに始まり、神護景雲2(768)年には経津主命、天児屋根命、比売神を祀って、現在の4殿4神の形態ができました。いずれも藤原氏の祖神とされる神々です。
あと2年で奈良遷都1300年を迎えますが、50年前の1250年祭も盛大に執行されたようです。それを主導した谷井氏の経歴や人物については、ネットで知ることができました。
立派な人だったようですね。晩年、色々の思いを込めて、この狛犬を奉納されたのでしょう。
狛犬は40年前の岡崎型です。均整の取れた堂々とした体格が好まれてか、昭和以降急速に普及しました。あまりに数が多く、また均質で個性に乏しいとの評価はあるものの、ある程度の年数を経ることにより、それなりに落ち着いた佇まいを呈しています。


八多喜(はたき)天満宮

提供者:TAKOさん
08.05.04
TAKOさんのコメント:嘉永元(1848)年戊申六月吉日、石工名無し。
(尾道型の)狛犬はよく見ますが、四角の台に乗っているのはあまり見かけません。浪花型と尾道型が合体して変形したのだろう?と思われます。(尾道型なのに大玉取りでないのは)多分、玉を形成する石の量が無く、四角にして模様を彫りだしたのではないでしょうか。
(この)天満宮は人の気配が無く、廃墟に近い状態です。近くには祇園神社が在り、その大祭には目白押しの状態です。(両社の)格差は耐え難いものがありますが、仕方ないでしょう。
狛犬の顔が上向きになったのも、涙がこぼれるのを耐え、神に仕える仕事を全うする…
そんな気がしてくる一日でした。
(愛媛県大洲市八多喜)
狛太郎のひとこと:以前TAKOさんから、伊予〜長浜〜保内と愛媛県西部の狛犬の流れを見ると、長浜あたりに狛犬文化圏の区切りがあるとの考察を頂いていましたが、それは松山藩と大洲藩の国風の違いのほか、一級河川肱川という自然境界もまた、両者を分ける要因になっていたのではないでしょうか。当社はその肱川が作る大洲盆地北部に鎮座し、狛犬文化圏が交錯していたと考えられる地域に位置しています。
狛犬のスタイルは尾道型ですが、典型例とは異なり、特に顔立ちは関西風です。またそれ以上に、尾道型に必須の大玉に乗っていないのが驚きです。
(下左)その代わりに四角な台に前肢を掛けており、岩狛のような風情でもあります。その台にはびっしり牡丹花のレリーフが施され、玉でないことを埋め合わせようとするかのようです。
また、この一対はアウンの左右が、通常とは逆に配置されており、何かと異例な作品です。
(下右)境内と社殿。涙をこらえて上を向く…TAKOさんのご感想もむべなるかなであります。


高売布(たかめふ)神社

提供者:まだまださん 
08.05.08
まだまださんのコメント:先日、兵庫県三田市にサイクリング行った時、高売布神社の狛犬がどうも気になってメールした次第です。文化13(1816)年の作で、石工は不明。
高さが土台も入れて160pはあります。巨大で、なんとも幼稚な、素朴な感じ。文化の時代とも思われず、どこかにモデルがあるのはと・・。狛太郎さんのお知恵拝借したく、メールした次第です。あつかましいお願いですが、鑑定のほどよろしくお願い致します。
祭神は天稚彦命と下照比売命です。あまりお祭りしてる神社は少ないとおもいます。
(兵庫県三田市酒井字宮の脇)
狛太郎のひとこと:出雲の国譲りのとき、天稚彦命が交渉役として遣わされましたが、彼は出雲の当主大国主命に心酔し、その娘の下照比売を娶って土着してしまいました。これを糾弾する天上界との応酬の末、天稚彦は当地で客死します。敵対する一門に属する男女の悲恋という主題は、シェークスピアにも通ずるものですが、この話はそれより九百年近く前の『古事記』に記されているものです。なお、この神を祀る神社は、当社以外には確かに多くはなさそうです。
狛犬は実に珍しいものだと思います。ご指摘の通り、文化年間には関西には既に浪花型が普及しており、敢えてこの古風な造形を世に出した工房には、独自の主張があったのでしょう。
モデルがあるのでは、というご意見にも賛成ですが、寡聞にして私にはそれが何であるか分かりません。石造狛犬の系統は藩政時代に確立したものなので、類例があるとしたら、やはり旧三田藩の域内ではないでしょうか。まだまださんとのツーショット画像からもこの狛犬の巨大さが実感されますが、それにしても一度見たら忘れられない大胆なフォルムです。


大魚(おおうお)神社

提供者:くろのすけさん
08.05.18
くろのすけさんのコメント:大魚神社はその名が示す通り海神を祭祀するもので、有明海の「沖の島」信仰とも関わりを持った、民俗を考える上でも興味深い神社です。その古い伝説を護るかのように、堂々たる肥前狛犬が社殿をガードしています。これは保存状態も比較的良好で、関節のある足のレリーフや背面、尻尾の表現、そしてとりわけその独特の風貌と、何とも言えぬ風格があると言えないでしょうか。見様によっては抽象芸術作品のようにも受け取れそうです。
(佐賀県藤津郡太良町栄町)
狛太郎のひとこと:「昔、横暴な庄屋を村人が談合して沖の岩礁に置き去りにしたところ、大魚が現れて庄屋を連れ戻した」(太良町史)。以来村人は大魚を畏敬し、これを祀りました。
その大魚とは「ブリ」であるといい、地元ではブリを食べず、またブリを商う人は、ここでは商品を隠して通ったとも記されています。しかし、念のために太良町役場に聞いてみたところ、「ブリは普通に食べる」という回答をいただいたので、思わず笑ってしまいました。
さて狛犬ですが、肥前狛犬としては異例のスマートさです。ピンと伸びた背筋に長い前肢が呼応して、一種の緊張感を伴った優美さを醸し出しています。これに似たタイプの肥前狛犬は、当サイトには今のところ見当たりません。ただ、「厳木町の肥前狛犬」(厳木町教委)所載の白山神社(厳木町)のものに、長い足、関節、脊梁の表現、後ろ髪の意匠などが似ています。
それだけでは何とも言えないものの、白山神社のものは正徳3(1713)年であり、これもその頃の作と推定することは、それほど無理ではないのではないかと考えます。


御手水(おちょうず)権現

提供者:くろのすけさん
08.05.28
くろのすけさんのコメント:御手水の滝を背に、山中に鎮座する御手水権現の肥前狛犬です。こちらは素朴な小型犬で、何とも可愛らしい一対です。この一対は向き合うのではなく、社殿を背にして共に正面を凝視しており、一生懸命にその任を務めています。この姿を見ると、末永く現役であって欲しいと念ぜずにはいられません。
尚、御手水権現の祭神は大山祇神とされていますが、その御神体は何と12面の懸仏です。鳥居脇には十三仏といわれる石仏が並んでいるなど、神仏混淆の修験道の色彩の濃厚な神社です。
(佐賀県藤津郡太良町御手水)

狛太郎のひとこと:町史によりますと当社の起源について、景行天皇が巡幸の折ここで手を洗われたという説と、多良岳信仰に関連づける説が紹介されていますが、いずれも史実とは認めがたい話です。しかし元禄6(1693)年に諫早領主(当時は太良町は諫早領でした)が祭祀を再興したとあり、起源が江戸時代より前にさかのぼることは確かです。いずれにしても、起源は自然発生的で民間信仰的なものであったようです。
狛犬は肥前狛犬です。小さいながら良く均整が取れており、細部の加工にも技術の確かさが窺われます。特にア像のわずかな開口部に刻まれた歯列の表現などは、簡素にして的確であり、同種のものに比べて洗練されています。また頭と体を区分する頚部の自然さも、他にはあまり見られないものです。写真ではよく分かりませんが、脚間もかなり深く彫られているようです。
以上のことから、この個体は肥前狛犬の作製に習熟した職人の作品であるように思います。


葛城(かつらぎ)神社

提供者:TAKOさん
08.07.06
TAKOさんのコメント:祭神は味(金+且)高比古根命(あじすきたかひこねのみこと)と八重事代主命。石工名無し。奉納者名無し。土台は明治で、狛犬は安政の頃っぽいです。
類似の狛犬が無く特定できません。わからない事だらけの神社ですね。
(由緒書には征南将軍淌良親王が参詣されたとありますが)多分、直接に親王が寄られたのではなく、側近の誰かが寄った?と思うのがはずれが無いかもしれません。それにしても、この頃の朝廷の権力に絶大なものを感じます。
私が生まれ育った出雲の神様、出雲大社の大国主神と、多紀理毘売命との間に味(金+且)高比古根命がお生まれになった事になっているのが古事記ですが、名前は阿遅「金且」高日子根神となっています。この神様は、大国主神が八通りの呼び方があるのに対し、一つ少ない七通りの別名が有る神様でした。古事記では須佐之男命から七代目で大国主神が出現されますが、日本書記では素戔鳴尊の息子さんとなっています。
(愛媛県松山市浅海本谷)
狛太郎のひとこと:祭神の名の「すき」は金へんに且ですが、変換候補にありませんので「金+且」と表しました。「国譲り」の段に登場する神で、日本書紀にも古事記にもその名が見えます。しかしその現れ方はいかにも唐突で脈絡がないので、肝心な記事が欠落しているか、あるいは別の神話を接合したものではないかと疑われる部分です。いずれにしても、ここにこの神が登場しなければならない必然性が、編集者の構想上にはあったのでしょう。
記紀ともに記載のある重要な神に違いないのですが、佐賀県では馴染みが薄い神です。
また由緒にある「征南将軍」、「淌良親王」は全く分かりません。どういう方なんでしょうね。
狛犬は御影石のようですが、髪や尾の彫りは比較的深く、盤にも牡丹花があしらわれるなど、固い素材にしては手の込んだ細工が施されています。丸いタドンのような目が、同じ旧北条市の荒神社のものに似ており、この地域に共通する形式かも知れません。


根津(ねづ)神社

提供者:狛若さん
08.07.20
狛若さんのコメント:7月の12日から14日まで、東京のお孫ちゃんに会いにゆきましたが、13日は、われら熟年夫婦二人で、今世間の注目を集めている谷中・根津・千駄木(通称谷根千=ヤネセン)を一日歩いてきました。そこで、どっかりと存在感を示していた根津神社を訪れましたので、いくらか写真を撮って来ました。どうやら”ワン子しぇんしぇい”も未訪問と思われましたので、写真をメールします。
それにしても、重厚などっしりとした神社であり、狛犬でした。さすがです。
(東京都文京区根津一丁目)
狛太郎のひとこと:ヤネセンは知りませんでしたが、地図を見るとなぜか聞いたことのある地名が並んでいます。行ったこともないのにどうしてかと考えるに、小説などの舞台としてしばしば登場するからではないかと思います。路地歩きの名所として脚光を浴びているそうですが、江戸の残り香を感じながらの散策はさぞかしと羨ましい限りです。
さて根津神社ですが、そのヤネセンの一角に7千坪もの境内を占め、本殿拝殿をはじめ楼門、唐門までが重要文化財という堂々の旧府社です。景行天皇の時代に日本武尊が創祀と伝える古社で、文明年間太田道灌が社殿を再興、その後、歴代徳川将軍の崇敬を受けました。
狛犬は逞しい体つきとフォーマルな佇まいが、こうした大社によくマッチしています。これは古狛犬復刻のひとつの潮流を成すもので、滋賀県大宝神社の重文狛犬を祖形とします(と断言してしまっていますが、私の説でありオーソライズされていません)。類例は全国に普及しており、東京では第六天榊神社中目黒八幡神社など、九州では警固神社などで見ることができます。


久伊豆(ひさいず)神社

提供者:狛只さん
08.07.24
狛只さんのコメント:ご無沙汰しています。10万カウント達成、まことにおめでとうございます。
お祝いに、久しぶりに投稿させていただきます。
先日、埼玉県越谷市内を愛車で走っていましたところ、興味ある看板を目にしました。
これは名狛が住んでいるに違いないとカンが働き、Uターンしてお詣りしました。
広大な境内と立派な社殿と大勢の巫女さんと…、
それはともかく、「文政十(1827)年八月」銘のある見事な狛犬さんに対面することができました。
さらに、社殿には珍しい「足止めの狛犬」が…。10万カウントのお祝いに「足止め」はどうかと思いましたが、狛犬の魅力を捉えて離さない「狛犬天国」のすばらしさを表すものとして、アルバムに加えていただければ幸いです。
帰宅後調べてみたら、この神社は平安時代中期の創建で、徳川将軍が鷹狩りの際参拝したという由緒あるお宮さんでした。
さて、このお宮さんの社名は? これは「クイズ」ではありません。
(埼玉県越谷市越ヶ谷)
狛太郎のひとこと:これまでこのサイトを支えてくださり、心よりお礼申し上げます。特に、東京の狛犬について、多少とも知見を深めることができたのは、狛只さんのご助力の賜物です。
これからもどうぞよろしくお願いします。今回もまた、興味深い狛犬をお送りいただきました。
まずは狛只さんの「クイズ」への解答です。久伊豆神社は「クイズ」とも読めるため、その方面の祈願参拝が増えているらしいことが分かりました!
しかし当社は、そんな微笑ましいエピソードとは別に、荒川流域に分布する100社近い同名神社の一つで、鎌倉時代に創建された越谷の総鎮守という、由緒ある古社なのでした。
(上段)文政年の見事な江戸型です。この型は19世紀に確立したと推察していますので、当時としては最新流行のモデルだったはずです。当地は日光街道越谷宿であり、江戸との往来も繁かったので、江戸文化はあまり時差なく伝播したと考えられます。従って、ここにいち早く江戸の最新型が導入されたのもむべなるかなであります。
(下段)見るからに古さの漂う18世紀型の狛犬です。19世紀以降のいわゆる江戸型に対してこの時代の作品群は、レリーフが浅い、デッサンがぎこちない、体が寝ている、顔の向きが前方、後肢の表現が貧弱であるなど、幾つかの要素によって古さを醸し出しています。
この時期のものを狛太郎の分類では「江戸型の前世代型」と名付けました。この個体の場合、「獅子は巻毛、狛犬は梳毛」という古来の法則を順守している点が貴重です。


八坂(やさか)神社

提供者:ishizakiさん 
08.07.27
ishizakiさんのコメント:(左)四角い狛犬、(右)横から見たところ、四角い!
(狛犬を見ていて)気がついたのは、あ、うん(の区別)が無いのもあります。
(神社に)必ずしも狛犬があるとは限らないようです。
私が知る限りでは、江戸時代以前のものは無いのではないかと思います。
(高知県長岡郡大豊町杉)
狛太郎のひとこと:大豊町は、高知から愛媛県川之江まで、四国山地を貫いて縦断する高知自動車道と、有名な早明浦ダムから流れ出て四国を横断する吉野川との交点近くに位置します。当社境内の大杉は樹齢3000年、樹高60mの巨木で、当社祭神の素盞鳴尊の手植えと伝えられます。そういえば、大蛇退治ばかりが有名な素盞鳴尊ですが、植林の神としての側面も併せ持っていたのでした。これに従えば、尊の活躍した時代は3000年前ということになります。
狛犬はishizakiさんのおっしゃる通り、笑ってしまうほど四角い狛犬です。原石のボリュームを目一杯生かそうとした結果であるようです。鼻先と右足先を、方柱の角にあてているのも同じ動機によるものです。しかしレリーフはきっちりと深く、装飾性を犠牲にする意図はなかったようです。
台座に新改村とあるところから、昭和29年の合併以前の作品であることが分かります。
また、ご指摘の通りアウンの区別のないこともあり、その前に、狛犬自体もあったりなかったりというのが実情です。佐賀の場合、設置率は6割から高くて7割です。神社に石造狛犬を奉納する習慣は江戸初期前後からと推測しており、それ以前は概ね木造の室内用でした。


高田(たかだ)八幡神社

提供者:TAKOさん
08.08.09
TAKOさんのコメント:
(上段)明治十八(1885)年、石工酒井吉平。タイプ的には古そうですが、123年物でした。
(下段)大正五(1916)年三月十五日、石工安藤寅一。92年前ですが、このタイプでは非常に状態が良く、欠損部分がありません。南予地域では人気があり、これからが楽しみです。
体力の限界を感じた旅でした。松山までの帰路に不安を感じ、津島町にある遍路宿で一泊。
あくる日は雨で、ただ帰る一日となりました。9月15日まで連休が無く困った状態です。
狛犬が呼んでいます。行かなくては・・・ では又
(愛媛県宇和島市津島町高田稲中)
狛太郎のひとこと:松山からの長駆大遠征、お疲れさまでした。旧北宇和郡津島町は愛媛県の最西南域に位置する町で、豊後水道の北灘湾に面し、魚類、真珠などの養殖が盛んです。
当社はその北灘湾に注ぐ岩松川の河口を少し遡った地にあり、応神天皇などを祀っています。「天治2(1125)年再建」の棟札が現存するといいますから、相当な古社です。
(上段)浪花風の狛犬で、歯を食いしばったウンの表情に愛嬌があります。やや華奢な体つきや、ウンの角などに古めかしさがありますが、明治の作品でしたか。しかしそれでも123年も前のことであり、明治はすっかり遠くなってしまったのですね。
(下段)尾道風の大玉取ですが、巨大な頭部に大きな口を開いた極端なデフォルメに、思わず目を惹き付けられます。尾の形は扇型であり、尾の先端が前方に伸びて後頭部に接着するタイプ(波賀部神社阿智神社など)とは路線を異にしています。素材も花崗岩ではなさそうですし、このあたりまで来ると、尾道型にも独自性が加わってくるようです。


神社名不詳

提供者:ishizakiさん
08.08.24
ishizakiさんのコメント:とにかく小さいです。一円玉が写っているのと対比しても30cmくらいです。剣山のリフトと頂上の中間あたりのものですが、何の神社かはネットで調べても良くわかりません。地図の大剣神社とはかなり離れてます。
http://www.turugisan.com/images/map_big.jpg
この地図で、リフトと頂上の真ん中あたりは二つの道がありますが、大剣のものかもしれませんが、良くわかりません。頂上への登山道から2-3mのところにあったものです。
彫ってある字は無いようです。地元の人にでも聞かないとわからないかもしれません。
(徳島県三好市東祖谷菅生)
狛太郎のひとこと:石鎚山(愛媛県1982m)に次ぐ西日本第二の高峰、剣山(1955m)の山頂近くに鎮座する神社の狛犬です。大剣神社ではなさそうであり、社名と詳しい場所は不明ですが、上記地図とishizakiさんのコメントで、およその位置は見当がつきました。有難うございました。
狛犬はごく小型のものです。ウンの右かかとの後ろに置かれた一円玉で、全体の大きさが想像できます。肥前狛犬などごく初期の石造狛犬は、概ね小型です。室内用の木造狛犬をモデルにしたからではないかと推察しているところですが、この狛犬は小さいながら、発生期のものよりデッサンも彫刻もはるかに洗練されていますので、江戸中期以前には遡らないようです。


横峯寺(よこみねじ)

提供者:TAKOさん
08.09.17
TAKOさんのコメント:四国遍路60番札所、横峰寺。JR予讃線伊予小松駅南約7km。
奉納年、石工名無し。文化(1804〜1817)の薫りが感じられる浪花狛犬。
文政(1818〜1829)になると、横綱朝青龍関とそっくりな顔になるので。 
「おせったい」の気持ちが遍路の助けになり、何とも言われない気持ちで日々を打ち続けられます。一度は体力と相談して、歩き遍路をしてみたいですね。では又。
(愛媛県西条市小松町石鎚)
狛太郎のひとこと:西日本最高峰の石鎚山(1982m)の北側中腹に位置し、八十八ヶ所の中でも難所とされる60番札所です。峻険な山々が屏風のように連なる四国山地は、徒歩で巡った往時のお遍路には、とりわけ厳しい苦難の行程だったと察せられます。
狛犬はそんな事情も知らぬげに、にやりと笑ったような表情が独特です。
綾延神社
日尾神社常盤神社石鎚神社に同系があり、不敵な面構えが実に印象的です。
この型が当地で生まれたものか、他に源流があるのか、なかなか興味深い一品ではあります。


金比羅大権現(だいごんげん)

提供者:TAKOさん
08.10.06
TAKOさんのコメント:天保九戊戌(1838年)八月吉日、今治石工・深見武兵衛。
三島本宮狛犬の文政六年(1823年)の作品から15年も経過すると、随分と浪花の影が薄れるのにびっくりしました。秋風の中、(バイクで)走るのは辛い時期になりましたが、もう少し東へ行ってみようかなぁ〜と思っています。
(愛媛県新居浜市山根町)
狛太郎のひとこと:元禄4(1691)年に開発された別子銅山は、当時世界最大級の産出量を誇り、日本の近代化を支えるとともに、かの住友財閥隆盛の出発点とも基盤ともなった産業遺産です。昭和48年に閉山して幕を閉じましたが、その後別子銅山記念館が営まれ、280年に亘る栄光の歴史が紹介されています。瑞応寺はその別子銅山記念館と同じ町内にある曹洞宗の古刹で、金比羅大権現は瑞応寺境内に鎮座する同寺の鎮守社です。
狛犬は堂々たる浪花風の蹲踞です。親しみやすい顔立ち、豊かで華麗な髪、バランスの取れた肢体、いずれもが優品の名に値する作品と思います。ご指摘の大三島大山祇神社も今治石工の作で、系統的な同一性が明らかです。また別宮大山祇神社は石工名は不明ですが、やはり同系と見られます。これらを今治型と称することのできる状況が段々整いつつあります。


若宮稲荷(わかみやいなり)神社

提供者:へのさん
08.10.09
へのさんのコメント:すっかりご無沙汰しております。
お元気ですか?私は相変わらず啜っております!
さて、今日はオモシロイ狛犬を見たのでメールします。
今日、仕事で長崎市伊良林の若宮神社へ行ったのですが
お稲荷さんを祀ってあり狛犬が「キツネ」でした。
コレって結構当たり前なのでしょうか??
とりあえず写真をお送りいたします。
(長崎県長崎市伊良林町)
狛太郎のひとこと:お久しぶりです。相変わらずのご活躍は、ブログHENO HENOで拝見しています。麺一筋の傍ら、狛犬にも暖かい眼差しを注いでいただき、有難うございます^^
由緒によると当社は延宝元(1673)年に、かつて河内国千早城に祀られていた稲荷神社を、ここに勧請した由です。千早城は楠正成の居城で、鎌倉幕府の大軍を少勢で退けた逸話が有名ですが、明徳3(1392)年には落城、そのまま廃城となっています。以来300年近くを経てここ長崎に勧請された経緯はよく分からないものの、後年長崎奉行が新参道を開削、また幕末には坂本龍馬はじめ多くの志士が参拝するなど、深く崇敬を受けてきました。
キツネは稲荷神の眷属とされるため、稲荷神社には多くキツネの一対が置かれています。
キツネの姿態は狛犬ほど多様化していませんが、それでも、巻物をくわえていたり、宝珠を持っていたりと、それなりに変化をつける試みがなされています。キツネの場合もアウンに造られていることが多いのですが、このキツネはどちらも口を閉じています。


石清水(いわしみず)八幡神社

提供者:ishizakiさん
08.10.12
ishizakiさんのコメント:さて、この狛犬はいつの年代のものでしょうか。
狛犬は・・ いつ寝んだい?
後ろに書いてある年号が汚れていますが、大正十年です。
まさか、天正十年だとは思えませんし、、、。周囲の鳥居も大正十年です。
(香川県東かがわ市入野山字下山)
狛太郎のひとこと:讃岐山脈に発した湊川は五名ダムを経て東進し、細長い低地を形成しながらやがて播磨灘に注ぎます。当社はそのまだ山がちな上流域に、川に臨んで鎮座しています。
元禄年中再建とありますから、創祀は少なくとも江戸初期以前のものであることは確実です。
さて、狛犬はいつ「寝んだい?」という問いには分かりませんと答えるほかありませんが(笑)、「年代」の方は見当がつく場合があります。風化で文字が薄らいでいても、江戸期のものには干支が併記されていることが多いので、年号、年数と照合すれば確定できることが多いからです。
ところで、天正年間にも石造狛犬がないことはないのです。しかしこれほど大型で様式化されたものはまだありません。これは明らかに「大正」なのですが、風化はかなり進んでいるようです。元々彫りが浅いのか、目鼻立ちや髪の毛筋もうっすらと原形を留めているに過ぎません。
前後肢の間隔が狭く、その分、体が立っているのが特徴です。


本渡諏訪(ほんど・すわ)神社


提供者:hisaLinさん 
08.10.26
hisaLinさんのコメント:自転車で三角駅から天草までサイクリングした時、休憩しようと立ち寄って見つけた狛犬です。ココの狛犬さんは、見てびっくりしました。見ての通り、吽像が子を抱いてます。全国でも珍しいのではと思います。
(熊本県天草市諏訪町8−3)
狛太郎のひとこと:hisaLinさん、初投稿有難うございます。
上古、有明海を取り囲む熊本、佐賀、長崎は、一括して火の国と呼ばれる非常に広いエリアを為していました。火の国は肥の国とも言い、その後、肥前肥後に分かれたのですが、元の国名の「火」とは八代海に見られた「不知火」という現象に由来する、という話が古事記に見えます。
当社はその八代海を取り巻く天草諸島の主島である、下島の海浜に鎮座しています。
弘安6(1283)年、信州諏訪大社より勧請され、天草氏の総氏神として崇敬されました。
狛犬は堂々とした、風格ある玉取りと子取りの一対です。子を抱く意匠は比較的多く見られるものですが、この子獅子は大きさが際立っています。その割に、尾の形が親と違ってまだ幼いことを表しているようで、微笑ましく感じられます。一方、ア像が通例と異なり、閉口であることはかなり珍しいと思います。また、鼻ヒゲは沈線で表現するものが多い中、この狛犬では立派な房状に造られています。これは熊本狛犬の特色といえるものかもしれません。(参考:老神社


貴船(きふね)神社

提供者:hisaLinさん
08.10.27
hisaLinさんのコメント:ここの狛犬さんは、見てのとおり灯籠の上に狛犬さんがいて、灯篭の下から昇り竜が一緒になっています。
変わり狛犬?変わり灯籠?どちらでしょうか。吽像の全体像(灯篭を含む)撮り忘れたんですが、こちらは下り竜になっていました。
コメントよろしくお願いします。

(長崎県南島原市南有馬町吉川名甲3番)
狛太郎のひとこと:南島原市は平成6年に南有馬町など8町の合併で誕生した、新しい市です。島原半島の南端に位置し、熊本県から伸びる天草諸島とは、有明海を閉じるような形で指呼の間にあります。今は別々になった長崎・佐賀・熊本が、上代には環有明海地域として、ひとかたまりの「火の国」であったことがよく理解できる地形です。
狛犬はここでは、灯籠の笠石の飾りとして造られています。普通この位置には宝珠が設置されているのですが、このように狛犬が置かれていることも珍しくありません。ただその場合狛犬の姿勢は、一方は立ち上がり、他方は逆立ちというものが多く、このように両方が蹲踞というのはむしろ珍しいと言えそうです。また竿石には龍が巻き付く意匠が施されており、非常に豪華な造りです。水を司る龍神は、海辺のこの町にとって特別な意味を持っていたのかもしれません。


菊池(きくち)神社

提供者:hisaLinさん
08.10.28
hisaLinさんのコメント:ここは、自宅の近所にありますが、普通見る狛犬とはちょっと違ってまして、犬かライオンのように見えるんですが、どう思われますか?
(福岡県福岡市城南区七隈7丁目)
狛太郎のひとこと:鎮座地は福岡市の南部、脊振山系から福岡平野に突き出すように隆起した油山の裾に近い場所です。祭神の菊池武時は肥後菊池氏12代の当主で、元弘3(1333)年に後醍醐天皇の綸旨を受けて蜂起、九州探題を攻めましたが敗れて戦死しました。菊池氏はその後も南朝方の旗頭として、征西将軍懐良親王とともに九州南北朝時代に足跡を残しました。当社は福岡藩主黒田氏が天保3(1832)年、武時戦死地とされる当地に建立したものです。
狛犬は紛れもなくライオンの雌雄像ですね。それもかなり写実的です。ただ、体つきを見るとどことなく狛犬っぽい印象があり、彫刻家の作品というよりも地元の石工さんの作品なのではないか、という気がします。狛犬もおおもとをたどればオリエントのライオンだという説が有力なので、こういうのもありかなという感じです。


八幡(はちまん)神社

提供者:hisaLinさん
08.10.30
hisaLinさんのコメント:狛犬さんが手招きしてます。珍しいのかわかりませんが、初めて見ました。住所は、たぶん間違いないと思いますが、確認お願いします。
(長崎県島原市八幡町7681番)
狛太郎のひとこと:所在地は間違いありませんでした。ちなみに八幡町は「やはたまち」と読むようです。当社が臨む島原湾の九十九島(つくもじま・岩礁群)は、寛政4(1792)年の「島原大変」(普賢岳の噴火と大地震)で町西部の眉山が崩壊、3億立方b超もの土砂が湾に流れ込んだ痕跡といいますから、当地も甚大な被害を受けたことでしょう。平成3年の大火砕流ではその眉山が盾となり、今度は被害を免れています。自然の暴威は人知の及ばぬ理不尽さです。
狛犬は恐らくこの地域以外ではまず見られないものです(類例:猛嶋神社)。渦巻きのような眉にもじゃもじゃのヒゲ、細身の体つきや片手を上げた姿勢など、実にユニークです。強いて言えば、この体の立ち上がり具合は、灯籠狛犬から発達したものかも知れません。灯籠の場合は狭い足場に置くため、直立や倒立のものが多いからです。今のところこのタイプに関する情報は殆どなく、何とも断定はできないのですが、石工が優れた力量の持ち主であることは確かです。


登立(のぼりたて)菅原神社

提供者:hisaLinさん
08.10.31
hisaLinさんのコメント:

(上段)神社名簿で調べたら、(住所は)たぶんこの辺と思います。出雲式ですよね。岩国でも同じような型を見たんですが、岩国の場合は前腕に玉?を持ってました。
こちらは、持ってないみたいです。また、角があります。


(下段)出雲式のほかにもう一対あるようですがとのこと。
送らせていただきます。
ヒゲの立派な面白い狛犬です。


(熊本県上天草市大矢野町登立)
狛太郎のひとこと:天草の島々を縫って走るパールラインが、宇土半島を離れて最初に渡る島が大矢野島です。領主のキリシタン大名小西行長が滅亡の後、当地の領民は後任者の苛政と弾圧に苦しみ、ついに寛永14(1637)年に蜂起しました(島原・天草の乱)。この乱は宗教戦争の色合いも強く、一揆軍の総大将はクリスチャンで当時16才の美少年、天草四郎時貞でした。
その四郎の出身地が、ここ大矢野島であるという説があります。
(上段)狛犬は出雲式です。頭を下げ、後肢を立てて威嚇する姿は画期的であり、各地でこれを模した作品が造られています。当社のものも、体つき顔立ち、それに尾の形など、本場の出雲式とは異なる点が多く、いわば「ご当地」出雲式であるようです。そうした例を幾つかご紹介しておきます。(「伏尸神社」、「蒲生八幡宮」)
(下段)こちらもかなりユニークな狛犬です。均整の取れた体に、しっかりした彫刻が施されています。一見スタンダードな造りなのですが、顔立ちは相当に個性的です。渦巻いて立ち上がる濃い眉、モミジのような鼻ヒゲ、角張ったアゴなど、ただ変わっているだけでなく、内面性さえ窺わせるような風貌です。アウンともに、男らしい良い顔をしています。


桜坂(さくらざか)天満宮

提供者:hisaLinさん
08.11.01
hisaLinさんのコメント:
笑顔のかわいい狛犬です。小さい神社風の建物と狛犬があるだけでした。
(福岡県福岡市中央区桜坂二丁目)
狛太郎のひとこと:福岡城址の南方数百mの地にあり、小高いエリアに鎮座しています。
「神社風の建物」ということですが、ネットで見つけた写真では、典型的な神社でした(笑)。
小規模ながら、流造(ながれづくり)と言う伝統的な神社建築です。
狛犬はとても素朴で可愛らしい風貌です。口の形と髪の流れ方が筑後型に似ていなくもありませんが、尾が棒状であることや、アウンの耳を造り分けていないことなど、違いもあります。
前肢上腕に腕輪風の隆線、足首にもアンクレットのような飾りが見られます。関節の表現はよく見かけますが、上腕部のものは明らかに関節ではなく、装飾性を意識したものと思われます。
古いもののようですが、各部の彫りを見ても、素朴ではあるけれども稚拙ではありません。


若一王子宮(にゃくいちおうじぐう)

提供者:ishizakiさん
08.11.02
ishizakiさんのコメント:大杉の比較的近くの、さめうらダム近くで奇妙な神社がありました。
川の対岸に神社があるらしいですが、林の中で良くわかりません。
この狛犬も四角っぽいです。
(高知県高岡郡本山町寺家)
狛太郎のひとこと:国道439号線が、早明浦ダムを流れ出したばかりの吉野川と寄り添うように近づいた辺りに、当社の鳥居とこの狛犬があります。しかし神社はその対岸の林の中に佇んでいるのです。当社は隣の長徳寺の鎮守として、平安時代に熊野神社から勧請されました。
本山郷30ヵ村の総鎮守であり、中世検地帳に神領570石と記された地方の大社でした。
狛犬は立派な尾道型です。この巨大な玉を取るスタイルが特徴ですが、狛犬本体の姿は意外にバラエティに富んでいて、顔立ちから尾の形まで、実は様々です。ノミ一本で真球を造るのはかなり難しいらしく、一見して分かるほどいびつなものも少なくありません。
しかしそこが逆に手作りの味わいとも言え、狛犬鑑賞に深みをもたらす要素でもあります。


安長寺(あんちょうじ)

提供者:hisaLinさん
08.11.03
hisaLinさんのコメント:普通は神社に狛犬さんはいると思ってたんですが、お寺にいました。
どう思われますか?
(福岡県朝倉市甘木772)
狛太郎のひとこと:安長寺は平安時代、甘木安長なる豪族が建立したと伝えられ、「甘木」の地名は同寺の山号「甘木山」に由来するとされます。古くから寺と町が一体的に発展してきたことを窺わせます。また甘木=邪馬台国説もあるほど、往古より生産力の豊かな土地でした。
狛犬は典型的な筑後型です。筋肉隆々の体に派手な目鼻立ちで、すぐにそれと分かる造形が特徴です。写真でも分かる通り、アは垂耳、ウンは立耳と造り分け、ウンは有角が決まりです。
さらに、ちょっと分かりにくいですが、アは巻毛、ウンは直毛に造り分けられています。
なお、お寺にも狛犬がいることがあります。江戸期までは神仏習合が普通でしたから、同じ境内に寺社が両立していたり、神社とも寺ともつかぬ態様のものもありました。明治の神仏判然令でやむなく分離したものの、一部には旧態を留めたものがあり、これもその例かと思われます。


日吉(ひよし)神社

提供者:hisaLinさん
08.11.06
hisaLinさんのコメント:住宅街にこじんまりとあった神社です。
ここには、狛犬さんと一緒に一対の狛猿?が、居りました。だけど、リアルすぎて・・・?
もしも狛猿?ならば福岡ではめずらしい?と思いますが。
(福岡県福岡市博多区麦野六丁目)
狛太郎のひとこと:ここは福岡市の南端にあたり、大野城市との境に近い場所です。難読地名「雑餉隈」に位置しているわけですが、この「ざっしょのくま」なる地名は通称なんだそうですね。町名だとばかり思っていました。付近は一方通行の細い道が入り組んだ一角であるようです。
(上段)オーソドックスな蹲踞で、ウンは玉取です。細かい歯列がびっしり彫り込まれ、緩やかなネジリが加えられた棒状の尾の毛筋も優雅です。丁寧な仕事ぶりに好感が持てます。
(下段)全国日吉神社の総本宮は滋賀県の日吉大社です。祭神の大山咋命(おおやまくいのみこと)は山の支配者で、別名を山王(さんのう)とも言うため、日吉神社はしばしば山王宮とも呼ばれます。猿はその山王の神使(しんし)であるので、この系統の神社には猿の彫刻が置かれていることが多いのです。それにしても、ここまでリアルなものは、珍しいかもしれません。


岡湊(おかのみなと)神社

提供者:hisaLinさん
08.11.13
hisaLinさんのコメント:また、追加の狛犬をメールします。
目がひょうきんな狛犬さんです。
(福岡県遠賀郡芦屋町船頭町12-48)
狛太郎のひとこと:「遠賀(おんが)」は古くは「岡」と呼ばれており、日本書紀に「岡県(おかのあがた)」、「岡水門(おかのみなと)」などと記されています。当社名はその古称を伝えるもので、その名の通り、遠賀川の河口に鎮座しています。祭神の大倉主神は倉庫の守護神と思われ、古くから港町として栄えていたことがうかがわれます。
狛犬はまさに「ひょうきん」な顔立ちで、丸い突出した目といい、笑っているような口元といい、本来意図すべき「忿怒相」とはかけ離れた仕上がりになっています。唇の回りの縁取りのような表現は、当地では多く見かけるものです。全体に細密な彫刻はなく、素朴で古拙な味わいです。


岡湊神社・追加レポート

提供者:hisaLinさん
10.06.27
hisaLinさんのコメント:前回投稿した岡湊神社の追加です。整理してたら見つかりました。神社は遠賀川の河口付近にありましたが、狛犬さんは飯塚、朝倉地方に多いように思いますがどうでしょうか?
狛太郎のひとこと:朝倉型が遠く離れた当地にまで進出していたとは、ちょっとした驚きです。
やはり遠賀川を通って水路で運ばれたのでしょうか。それとも長崎街道を陸路で運ばれたのでしょうか。いずれにしても、遠路ここまで到達していたと思うと、ある種の感慨を覚えます。


加布里(かふり)天満宮

提供者:hisaLinさん
08.11.20





@






A






B






C
  
     D


hisaLinさんのコメント:
心和む狛犬を投稿させていただきます。糸島、前原市辺りはこういった狛犬が多いようです。
これも、自転車で唐津まで走ったときに撮ったものです。

国道202号線沿いにあって、結構大きな神社でした。
鳥居をくぐると同時に、狛犬@がお出迎えしてくれてビックリしたと同時に笑っちゃいました。
ABCは最初のインパクトが大きかったせいか余り印象が残っていません。
D最後に天満宮の神社の横に小さな神社があって、そこに鎮座してた狛犬で、またまたビックリしましたが、とても可愛い狛犬さんでした。
(福岡県糸島市加布里545)
狛太郎のひとこと:明治29(1896)年に怡土郡と志摩郡が合併して糸島郡が成立するまで、加布里村は前原村などと共に、怡土郡に属していました。怡土郡と志摩郡は各々、「魏志倭人伝」に記された「伊都国」「志摩国」に比定するのが定説となっており、この地域が非常に古い時代から、「奴国」(福岡市)などと共に、海外にも知られる有力地であったことを物語っています。
@は佐賀で江戸初期前後から造り始められた「肥前狛犬」です。佐賀から持ち込まれたものか、現地で造られたものかは分かりませんが、石造狛犬のルーツとも言える貴重なものです。はなはだ風化していますが、アの口の開き方がこの型にしては大きく、しっかりした歯列の表現もあることから、比較的時代を下るものではないかと思います。
Aア像の足元が不鮮明ですが、何かに足を掛けているようです。ウンが玉取りなので、これは子取りではないかと思われます。前後や左右の脚間を狭く配置して、彫り込みを最小限に留めているのは、加工度を抑えることで、強度を確保する工夫であるようです。
B5対の中では最も洗練されており、近現代の作品と思われます。特徴はびっしり並んだ歯列と、横に張り出す耳です。耳などは欠けやすいのでこうした意匠はあまり用いられないのですが、この地域ではほかにも類似したものが見られます。(雷神社波多江神社雉琴神社etc.)
C最近急速に普及しつつある現代作品です。海外製作のものも多く、画一的であることや細工がおざなりであることから、狛犬鑑賞界でははなはだ不評です(笑)。しかしこれも一時代を築いた作品群として、後世一定の評価を受けないとも限りませんから、そうむげにもできません。
D紛れもない肥前狛犬で、しかも状態が非常にいいです。肥前狛犬は一般に30a未満の小型犬であるため、前脚間、前後脚間を彫り抜かないことで強度を保っています。これは単体ですが、僅かに口を開いているのでア像のようです。これがこの地域に見られることは、雷山西の長野峠経由で佐賀−前原地域の交流が行われていたあかしかと思われます。


満吉(みつよし)天満宮

提供者:hisaLinさん
08.11.27
hisaLinさんのコメント:糸島、前原はいいとこですネ。
また自転車でその地の人と会話して、狛犬さん尋ねたくなりました。
(これは)肥前狛犬かどうか、わかりませんが・・・
ひょっとしたら、肥前狛犬の前だったりして?
(福岡県糸島市二丈町満吉)
狛太郎のひとこと:二丈町は福岡市から佐賀県唐津市に至るルートの中間地点に位置し、南に二丈岳を背負い、北には唐津湾を望む町です。古くから開け、歴史遺産も多いようです。
狛犬は、これも肥前狛犬です。この地域には本当に肥前狛犬が多いようですね。
風化により顔立ちなどは全く分かりませんが、四分の一円をなす側面観に長方形の正面観、また四肢をレリーフで表す技法など、このタイプの特徴はよく残されています。2〜300年前のものと思われますが、現在でも社殿の前で現役で頑張っているのは嬉しい限りです。


大浦阿蘇(おおうら・あそ)神社

提供者:hisaLinさん
08.11.30 hisaLinさんのコメント:
私が三角から天草まで自転車で走ったときのものです。
国道324号線と海辺の道(島原湾沿い)で、登立菅原神社から本渡諏訪神社の間に撮った狛犬さんです。

(上段)1番目の狛犬さんは、鳥居の横に鎮座してまして、相方はいませんでした。

(熊本県天草市有明町大浦1072)

(中段、下段)
見てのとおり首の周りに襟巻きをしたような様相で、年代は大変古く見えます。目もギョロっとしてます。

狛太郎のひとこと:最初は神社を特定できませんでしたが、あとで色々と追加資料をいただいたお陰で、社名や場所などが判明しました。有難うございました。
当社は肥後国一宮の阿蘇神社から勧請したもので、健磐龍命(たけいわたつのみこと)を祀っています。天草地方の社寺の多くは、寛永14(1637)年の島原・天草の乱で灰燼に帰して廃絶した由ですが、当社は乱以前の古文書にも記載のある稀な古社といわれます。
(上段)単立の小型の狛犬で、肥前狛犬に似た姿をしています。しかし耳の位置や顔立ちなど違いもあり、やはりこれは当地産の初期の狛犬であるようです。あとの2対に見られる襟巻きのような髪の表現がここで既に見られ、これがひとつの伝統となっていることがうかがえます。
(中段と下段)ともに似通った感じの狛犬で、とりわけ首回りの襟巻状の髪の房が目を引きます。最も古そうな上段の狛犬にもこれが見られることから、これを天草特有の意匠と仮定できそうです。なお、中段の狛犬では足の短さが顕著で、この特徴は阿蘇神社と共通するものです。


上津浦諏訪(こうつうら・すわ)神社

提供者:hisaLinさん
08.12.02
hisaLinさんのコメント:ココの狛犬さんは、首の周りに渦巻き(あご髭?)がありました。
太い眉毛もありました。こちらも、目もギョロっとしてます。
(熊本県天草市有明町上津浦1193)
狛太郎のひとこと:明暦3(1657)年に時の庄屋が、長崎諏訪神社を勧請したものです。
寛永14(1637)年の島原・天草の乱で当地方の社寺の大半が焼失、民心も荒廃していました。
そこで代官鈴木重成が地域の安定をはかるため、社寺の復興、新設に力を注いだのです。
当社もその一環として創祀されました。
狛犬は口の大きさと、びっしり並んだ歯列が特徴的です。また、胸に回り込んだ髪の渦は上記の大浦阿蘇神社の狛犬たちと共通であり、やはりこれが天草狛犬の特色と考えられそうです。尾の形は棒状とも扇状とも見えますが、棒状だとしても単純な芯と枝だけのものではなく、装飾性に富んだもののように見受けられます。
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