page
Top 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 14 15 16 17 18 19

狛友(こまとも)から頂いた写真と情報を掲載します。
お気軽に情報をお寄せ下さい。
メールの添付ファイルとしてお送り下さい。楽しいコメントも期待します。
写真等をここに掲載する以外の目的で利用しないことをお約束します。
しかし万一盗用や転用された時、当方では対処いたしかねます。
従って、そうした場合に支障のあるデータは送らないで下さい。
なるべく欲しいデータは@奉納年A石工名B大きさ(目分量可)C神社名と所在地D神社由緒(由緒看板の写真など)Eあなた自身の感想、などです。また極力、斜め前からの写真を一枚入れて下さい。


八幡宮(はちまんぐう)

提供者:DogOneさん
09.01.14
DogOneさんのコメント:上町の今宮神社から東へ300m、八田江川の右岸にあります。
(上段)体長62cmで、大正7年3月の建立、石工・田代誠一の銘があります。
保存状況は良好で、立派な顎鬚と尻尾をもっています。
(下段)ほかに、引退した1対の狛犬が、 敷地のふちに他の石像群と並んでいます。前足が折れてチンチンしたような吽像。わしゃ眠いよとでも言いたげに隣の石柱に寄り掛かった阿像。
おそらく初代の狛犬だったと思われます。
(佐賀県佐賀市東与賀町下古賀字船津)
狛太郎のひとこと:400年前、肥前国主の龍造寺隆信が当地に本陣を置いたので、それを祀ったものとされます。「本地八幡宮」とも称するのは、「本陣」の転訛と考えられているようです。
(上段)どこがどうとはっきり指摘できないものの、全体的な印象として「古めかしさ」「垢抜けなさ」が感じられ、大正年製とは思えない素朴な雰囲気が逆に魅力です。田代石工の名は私のデータ中にはなく、様式的にもどういうものか不詳ですが、かなり個性的であることは確かです。
(下段)この初代の狛犬たちの表情といい座っている様子といい、現役を終えた安堵感に浸っているように見えますね。お互いに少しそっぽを向いているのが気になりますが、おおむね幸せな老後を送っているに違いありません。背景のエアーズロックのような塊とよくマッチしています。


若宮(わかみや)神社

提供者:DogOneさん
09.01.15
DogOneさんのコメント:場所は、県道東与賀線の下古賀バス停から、ドコモの無線鉄塔の下を通って東へ650m位行ったところで、お寺の手前にあります。「大きな口をあけ刳り貫きの玉を覗かせた阿像」と「下唇を噛み大きな歯をむき出した吽像」があります。鼻の穴も大きくて愛嬌があります。体長は77cmと79cm。明治36(1903)年6月14日建立、石工・北村勝次(西川副船津)の銘があります。若衆の寄進のようです。保存状態が良く、大きな牡丹の花も彫ってあります。拝殿は、昭和58年8月に改築されています。
(佐賀県佐賀市東与賀町下古賀上町)
狛太郎のひとこと:当社の祭神は「町史」にも明記されていません。しかし若宮とは、多くは八幡神(応神天皇)の御子である仁徳天皇を指しますから、当社も八幡系統の神社と考えられます。
狛犬は岩狛で、様式は砥川型となります。玉を噛んでいるのも砥川型の定番です。ただし標準的な同タイプに比べて非常に大きな口が目を引きます。豪快に笑っているようにも見えて、実に愛嬌があります。陽光の下で明朗な印象が一層高められており、また岩の牡丹も鮮やかです。


住吉(すみよし)神社

提供者:DogOneさん
09.01.16
DogOneさんのコメント:場所は、先の仲割の龍王神社から国道444号を西へ700mほど行った住吉の信号機を右に曲がり、(海の方へ)250mほどのところにあります。
体長は76cm、明治15年住吉村有志の寄進で建立。石工・橋口茂一(天草下浦村)の銘があります。なぜ天草の石工なのか不思議ですが、干拓地との関連があるのかも知れません。
阿像の下顎が欠損しちょっと悲惨な顔で、前足や三つ尾の先端などにも欠損があります。
吽像は, 頭頂と前足に欠損補修がありますが、まだ健在です。たてがみと尾に特徴があるようですが、『狛犬学事始』(ねづてつや著)を読んだくらいでは簡単には表現できませんね。
(佐賀県佐賀市東与賀町大字田中住吉)
狛太郎のひとこと:海神の表筒男命(うわつつのおのみこと)、中(なか)筒男命、底(そこ)筒男命を祀っています。この3柱はひと組で「住吉三神」と呼ばれ、綿津見三神(海童神社など)とは対応関係にあります。どちらも九州起源と考えられており、同一神説もあります。
天草石工の作だとすれば、今のところ県内唯一です。そういえば、髪とヒゲがつながって首を取り巻く意匠と扇状の尾が、やはり天草狛犬(大浦阿蘇神社など)に似ています。天草石と言えば凝灰岩で柔らかく、陶石などとして有名ですが、激しい破損状況を見れば狛犬もその種の石であるようです。原石を持ち込んだのか、完成品を取り寄せたのか、興味は尽きません。
天草からの出稼ぎに関する記事を数本見つけました。耕作地に恵まれない天草は、各地の干拓事業などにおける労働力供給地であったようです。当地の近隣の嘉瀬町には「天草江」なる地名があって、有明海干拓に関連して当地にも天草から人が来ていた可能性があります。
土木技術者として石工も必要だったはずで、この狛犬もそんな交流の産物かも知れません。


大野(おおの)神社

提供者:DogOneさん
09.01.17
DogOneさんのコメント:場所は住吉社よりさらに西へ750m位行った旧道沿いにあります。
体長は75cmと72cm。明治25(1892)年8月、有志の寄進で建立。石工は筒井茂七(塩田)の銘があります。ほかに石○石田勝○○(治郎?)、山田作平の銘がありますが、石材の提供者でしょうか。像は風化がかなり進んでおり、阿像は顔面の欠損、前足のセメント補修。吽像は顔面・前足・胴体のセメント補修がしてあり、表情は殆ど読めません。尾の先端は折れていますが3峰のようです。阿像の盤台には牡丹が彫ってあります。
(佐賀県佐賀市東与賀町大字飯盛大野)
狛太郎のひとこと:大野神社は旧称を沖神社といい、有明海沿岸地方に特有の水神を祀ったものです。これを綿津見神として祀る例もあるようですが、本来はもっと素朴なローカル神だったはずです。臨海地域だけに、龍王、綿津見神、沖神などの水神が多く祀られているようです。
狛犬は激しく損傷していても、一見して塩田型と分かるものです。長く柔らかい髪と髭が特徴で、県内産では最も装飾性に富んでいます。それは塩田石が柔軟で加工しやすいためですが、そのことは耐用年数の短さにもつながるのです。「筒井」氏は塩田石工の代表的家系です。


天満宮(てんまんぐう)

提供者:DogOneさん
09.01.18
DogOneさんのコメント:遊園地のそばに小さなお宮がありました。下古賀(田中)の集落の中にあります。像は高さ45cmの小型で、彫りはあまり沢山はありません。阿像は下顎が欠損し、セメントで丸く肉盛りしてあり頭が見えるだけです。吽像は前足を欠損補修、尻尾の先端は折れたままです。不鮮明ですが明治33(1900)年〇月、村の氏子中の寄進ですが、石工の銘はありません。祠の中には瓦焼きの鯱がありましたが、1体は口の部分が一部欠損、もう1体は尻尾が外してありました。
(佐賀県佐賀市東与賀町大字下古賀田中)
狛太郎のひとこと:このあたりはクリークが直線的に張り巡らされ、碁盤目状を呈していることから、近世以降の計画的干拓施工地であることが分かります。比較的新しい入植地であり、それだけに農家の苦闘の歴史が刻まれているはずですが、今は穏やかな風景が広がっています。
狛犬は毛並みの美しい塩田型です。特に尾の毛筋がゆるやかにカールして先端に収束していく様は、塩田型の真骨頂と言えるものです。またその際、毛筋同士が正確に平行を保っているほど、幾何学的美観が際立つものです。この狛犬はそうした特長を備えており、優品の一つです。


八幡(はちまん)神社

提供者:DogOneさん
09.01.19
DogOneさんのコメント:場所は広域農道から300mほど南へくだった所で、大きな楠が目印です。体長は75cm。明治29年10月、「村中」の寄進で石工淵野勇蔵(塩田五丁田村)の銘があります。阿像の写りが悪くて変な色になりましたが、大きな目玉、立派なたてがみや尻尾が見事です。保存状況は良好で、よく手入れされています。
(佐賀市東与賀町大字飯盛字下飯盛)
狛太郎のひとこと:応神天皇など7柱の神を祀っています。社伝によると源頼朝が弟の範頼に鶴岡八幡宮から勧請させた、とあります。約800年前ともなれば、当時の海岸線はどうだったのか気になるところですが、昔は上飯盛に鎮座していたらしいので、矛盾はなさそうです。
狛犬は塩田型です。ご投稿のお陰で、東与賀町には塩田型が多いことが判明しました。
これには何か歴史的経緯がありそうですが、今のところ分かりません。
この大きな目と丸顔という特徴は、他にも数例見ることができます(堤雄神社妙見神社)。
この2社では石工名はありませんが、いずれも明治30年の奉納であり、年代作風とも近いことから、これらも渕野氏の作品である可能性が高いと思います。尾の意匠がとりわけ見事です。


御霊(ごりょう)神社

提供者:うめぞーさん 
09.01.20
うめぞーさんのコメント:
先般は、私の下手くそな写真を載せて頂きありがとう御座いましたm(__)m
調子付いて、再び奈良町の神社の狛犬さんでも。
奈良町の真ん中、元興寺のすぐ南にある『御霊神社』です。
台座の前の部分に何か彫られているのですが、殆ど読む事ができません。

脚に結ばれているリボンのような紐は、子供が神隠しにならないためのお呪いだとか?私が見ている限りでは、こういう面構えの狛犬はあまり見かけないような気がします。本殿の前にも一対いますが、真っ白な御影石の新しい物のようで、写真は撮って来ませんでした。
見慣れた扇状のフサフサ尻尾に比べると、縄文土器の装飾を思わせる造形的な尾をしています。この神社、どういう訳か「えんむすびの神さま」をアピールしています…
本殿の祭神の一柱、井上皇后なんて、どう考えても光仁天皇との仲、破局してますよ(-_-;)
(奈良県奈良市薬師堂町)
狛太郎のひとこと:第49代光仁天皇と井上皇后、皇太子の他戸親王を祀っています。
井上皇后は晩年、天皇を呪詛したかどで廃后、親王も廃太子となり、不遇のうちに亡くなってしまいました。この理不尽な事件の当事者が縁結びの神とは、確かに不可解です。それにしても当時の人々には、陰陽師の世界が、実生活と分かちがたく結びついていたのですね。
狛犬は関西以西から北九州あたりまで、地方ごとに変化をしながら、広く分布しているタイプのようです。いわゆる浪花型とはスタイルも材質も異なりますが、タドンのような目と、縁取りのある口にはその面影がうかがえます。そういうことから、これもやはり大阪発祥ではないかと考えていますが、時代的な前後関係や地域ごとの傾向など、考証に足るデータはまだありません。


宮陣(みやのじん)神社

提供者:hisaLinさん
09.01.21
hisaLinさんのコメント:宮の陣で休憩したときのです。
近辺は筋肉隆々の狛犬があるなか、ひ弱な狛犬で印象深かったです。
(福岡県久留米市宮ノ陣町5-12-1)
狛太郎のひとこと:佐賀県との県境、筑後川のほとりに鎮座しています。「宮の陣」の名は、征西将軍懐良(かねよし)親王が、九州南朝方を糾合して足利将軍方と戦った「大保原の合戦」で、当地に陣を張ったことに由来します。その懐良親王と、後任の良成親王を祀っています。
狛犬は、この地域では体格のよい筑後型が優勢な中、胴も四肢も細い珍しい存在です。しかし目鼻口の形、オープンスタンスの足位置などから、これも筑後型の一派であることは確かです。耳と髪の造り分けがなく、筑後型のプロトタイプか、派生型ではないかと思われる一品です。


大己貴(おおなむち)神社

提供者:hisaLinさん
09.01.22
hisaLinさんのコメント:これは、秋月にサイクリング行った時、立ち寄った時みた狛犬さんです。
(福岡県朝倉郡筑前町弥永697-3)
狛太郎のひとこと:延喜式所載の於保奈牟智神社と目される古社です。大己貴神は日本最古と称する奈良の大神(おおみわ)神社の祭神とは同神で、当社の旧称も大神神社です。両社には周辺地名を含めて多くの共通点があり、邪馬台国東遷説などにからみ、興味深い事実です。
狛犬は肩幅の広いがっしりした体格です。当地は広義では筑後地方に分類されますが、狛犬の型は筑後型ではありません。以前に投稿いただいた垂裕神社のものによく似ていますね。
当社とは地域も近いので、両者は同じ作者か工房で造られたものではないかと思われます。


筥崎宮(はこざきぐう)

提供者:hisaLinさん
09.01.24
hisaLinさんのコメント:福岡でも有名な神社なんですが、末社?に、こんな狛犬さんが・・・唐獅子(中国)風?・・・ですか?
(福岡県福岡市東区箱崎一丁目22番1号)
狛太郎のひとこと:延喜21(921)年の創建にかかる式内の名神大社で、筑前国一宮、戦前の社格は官幣大社と、きらびやかな来歴を誇る古社です。さもさりながら、国重文の楼門や九間社の本殿など数々の文化財群は重厚かつ華麗で、まことに見応えがあります。
狛犬は池島殿など5柱を祀る東末社のもので、明らかに中国のものです。どちらも開口で毛筋などをみてもアウンの区別はなさそうです。胸にはプレートを下げ、枯れ木のようなものに前肢を懸けています。また前肢には防具の籠手を着けたような模様が刻まれています。


十六天(じゅうろくてん)神社

提供者:hisaLinさん
09.01.25
hisaLinさんのコメント:唐津に輪行したときのです。通常の狛犬(上段)、肥前狛犬風(下段左)、それと壁に寄り添っていじけた狛犬さん(下段右)が印象的でした。
(福岡県糸島市二丈町武501番)
狛太郎のひとこと:糸島地区から雷山方面にかけて、十六天神社が分布しています。十六天の正確な由来は不明でしたが、大般若経の守護神たる十六人の護法善神ではないかと思われます。大般若経は天台密教などで重視されるとあり、この地域でそうした信仰が流布していたことを示唆するものです。明治以降仏教色を払拭して、神社として存続したものでしょう。
(上段)眉をつり上げた険しい表情なのに、顔立ちそのものはあどけなさの残る少年のようです。耳が横に張り出す形は、この地域では多く用いられています(綿津見神社など)。
(下段左)この地域に肥前狛犬が多いことは、ご投稿により初めて知りました。佐賀との長野峠を通じた交流が盛んだったことを裏づけるものです。肥前狛犬は最大400年前の様式であり、交流は少なくとも江戸初期には密接になっていたことになります。
(下段右)壁に寄りかかっている姿が、追いつめられて怖がっているようにも見えます。
下段の左右はそれぞれ単立のもので、配偶者を失ってどことなく侘びしさの漂う佇まいです。


八坂(やさか)神社

提供者:hisaLinさん
09.01.27
hisaLinさんのコメント:これは、京都をサイクリングした時のです。余りにも有名すぎる神社なんで、躊躇しましたが・・・
(京都府京都市東山区祇園町北側625番地)
狛太郎のひとこと:八坂神社はもと祇園社、牛頭天王などと称し、社伝によれば斉明天皇2(656)年に渡来人の伊利之が、新羅の牛頭山の神霊を勧請して創祀したとされています。
主祭神の須佐之男命は祇園精舎の守護神牛頭天王と同神とされ、護法神的な性格を付与される一方、武塔天神とも習合して疫病退散の神ともされます。
(上段)丸々と太った体に派手なたて髪と尾をまとっています。徹底的に装飾性を追求した造形には目を惹き付けられますし、なかなか威厳もあります。浪花型とは別種のようにも見えますが、前肢の角度や顔立ちにその面影を見ることができ、やはり同系統のようでもあります。
年代の前後関係が不明ですが、浪花型の発展形ではないかと想像されます。
(中段)やはり装飾性豊かな一対ですが、こちらは浪花型の影響が濃厚です。髪と尾のボリュームが強調され、表情もやや厳めしいものの、丸っこい体つきと笑ったような顔は紛れもない浪花型です。このタイプは、京都ではポピュラーな存在です。(下御霊神社A大将軍八神社
(下段)これはブロンズでしょうか。力強く、俊敏そうな体つきは、鎌倉彫刻さながらです。


高城(こじろ)神社

提供者:hisaLinさん
09.01.29
hisaLinさんのコメント:これは、輪行時に通った神社で遭遇した狛犬です。ひょうきんな顔たちがユーモラスで心和みました。
(長崎県島原市中野町丙1330番)
狛太郎のひとこと:島原半島は雲仙岳の裾を多くの河川が浸食し、谷と高地が交互に並んだ地形をしており、その舌状高地の突端附近には、中世の山城が多く築かれました。当社もそうした城の一つで、某城主の遺徳を慕った領民が祠を建てて祀ったのが始まりとされます。
しかしその城主の名は残っていません。祭神は道案内の神、猿田彦命です。
狛犬は独特のものです。鼻から上唇辺りの形と前肢のスタンスは筑後型を思わせますが、全体の印象は全く違います。大きな目と牙は金色に彩色され、口中の玉も塗装されています。
耳をピンと立て、立派な角もあります。こうした意匠は壊れやすい上に、原石の大きさに対して、本体はその分小さくならざるを得ません。しかしそんなことは気にしないといった風情です。


龍王宮(りゅうおうぐう)

提供者:DogOneさん
09.01.30
DogOneさんのコメント:空港通りのイオンスーパーセンタに近い「立野」の集落で、すぐ東にドラッグストア・モリの店の背中が見えます。神社名は「龍王宮」です。明治33(1900)年庚子4月の建立で高さ74cmの蹲踞型ですが、腿が平べったい形をしています。貴サイトのどこかで解説してあったようですが、さて何処だったかな。顔はたいてい手前下をむいていますが、これはほぼ向き合って上を向いています。尾は太い簡素な形です。氏子中の寄進で、石工の銘はありません。だいぶ苔が着いていますが、まだしっかりしています。
(佐賀県佐賀市東与賀町大字下古賀字立野)
狛太郎のひとこと:当社は龍王すなわち八大龍王の名を冠していますが、祭神は大綿津見神となっています。これは推測ですが、本来の祭神は護法神としての龍王だったのを、明治の神仏分離令を機に、日本神話から同じ水神の綿津見神を選んでリプレースし、純然たる神社として存続することに決めたのではないでしょうか。またこの神は通常、表・中・底綿津見神として3柱一組で祀られるので、大綿津見神という一個の神格で表されるのは珍しいケースと言えます。
狛犬は丸味を帯びた塩田型です。長く柔軟な髪とヒゲに、びっしり並んだ歯列により、一見してそれと分かる一品ではありますが、ご指摘の通り大腿部が扁平で、更に前肢もほとんど四角柱です。また前肢間が狭く、胸の表現が殆どありません。さらに小鼻が高く顔の向きも上向きです。これらは拙サイトで「古代型」と名付けた一群の特徴に類似します。すなわち、以上の特徴は古さを表す要素であり、明治期の作としては異例なほど、古風を保った作品です。


天満宮(てんまんぐう)

提供者:DogOneさん
09.01.31
DogOneさんのコメント:上古賀の八幡・天満宮から東へ300mほど行った、鍛冶屋という集落の北端にあります。細い路地と小さな祠で見つけにくいかも。社名を書いたものがありませんが、○浦社(明治11年寅10月吉辰。○の部分が欠けて社名が読めません)という碑が立っているのでもしかしたら?。その傍に鎮座しています(一寸アングルが悪かった。手振れ?)。
肥前狛犬風で, どちらが阿吽なのかはわかりません。右の像は高さ32cm、盤台は25×35×7cmの前方後円です。顔面の横一文字の彫りは吽の口かも知れません。
左の像は高さ35cm、盤台は24×30×7cmの前方後円。背が低く見えますが台座のせいです。顔面が剥離して表情は見えません。惜しいです。銘はありません。
(佐賀県佐賀市東与賀町下古賀鍛冶屋)
狛太郎のひとこと:明治初年頃の当地は40戸ほどの大集落で、その殆どが鍛冶職を営んでいたと伝えられます。家屋建築や造船に使う「和釘」が主力製品でしたが、洋釘の製造開始とともに急速に廃れてしまいました。当時の盛況は、今は集落名にその名残りを垣間見るのみです。
また明治後期の神社合祀令により、神社の統廃合が行われた結果、鍛冶屋天満宮は本庄町鹿の子の天満宮に「寄せ宮」(合祀)され、「当時の鳥居及び山犬等も移転してしまった」(東与賀町史)、とあります。その鳥居や山犬(狛犬)は、鹿の子天満宮に現存しています。
狛犬は「○浦社」(剥離による欠字)石祠の両脇に置かれていますが、本来の一対かどうかは微妙です。上記の事情から察するに、「寄せ宮」で天満宮が廃祀されたあと、今度は近隣の小祠がここに集められ、その際この狛犬も移転してきたものと思われます。典型的な肥前狛犬に比べると像容が整っていることや、盤を有することなど、比較的後期のものと察せられます。


沖祇(おきがみ)大明神

提供者:DogOneさん
09.02.01
DogOneさんのコメント:佐賀市八戸町の「石工平川清彫刻」と銘の入った、高さ70cm(阿)と75cm(吽)の狛犬さんがいました。牡丹の飾りも鮮やかな見事な彫りです。大正13年8月、久保田宿・石川又八の寄進のようです。この祀は嘉瀬川右岸の河川敷に在ったそうですが、河川改修(昭和27〜8年頃)で堤防の外に移設されたそうです(犬の散歩で来た長老の話)。
移設前は、2本の大きな楠と桜並木に囲まれた、村人たちの憩いの場だったそうです。
狛犬や2基の鳥居を初め祭壇、他の石碑群とともにここに移設された由。その時のせいか知れませんが、阿像の歯(上下とも)が欠けているのが惜しまれます。玉も咥えていたいたようだと話しておられましたが、今は在りません。奥の鳥居は、元の高さより随分深く埋め込まれて低くなっているそうですが、文政3(1820)年庚辰8月の銘が刻んであることから、随分昔からあるお宮であることがうかがえます。近くには造船所も在ったそうです。
(佐賀県佐賀市久保田町大字新田大立野)
狛太郎のひとこと:口碑によれば慶長年間、この宮の側に舟を繋留した老漁夫が、不思議な光るものを発見します。「我信仰スル沖嶋ノ神霊此地ニ降臨マシマスモノト信ジ云々」とあるので、当社の鎮祭も有明海沿岸に広がる「沖の島」信仰の一環であることが分かります。
狛犬は平川清の作品です。清は大正〜昭和にかけて活躍した恐竜型の巨匠で、岩狛を発展させた独自の境地を確立しました。その作風は動的な中に優美さを保ち、リアルでありながら生々しさを封じた絶妙なバランスが身上です。(王子宮平尾天満宮


賀茂皇(かもこう)神社

提供者:かぐらさん 
09.02.03
かぐらさんのコメント:こんにちは、宮崎に戻ってきました、かぐらです。仙台の賀茂皇(かもこう、かもすめらぎと読む人も)神社で見た、なんとも楽しい狛犬の写真を送ってみます。
昭和12(1937)年に作られたようで、寄贈者には二人の女性の名前がありました。神社の前には昭和型の狛犬がいるのですが、このユニークなペアは本殿の後ろの方に鎮座しています。
まさに護りをがっちりかためている神社でした。
(宮城県仙台市宮城野区岡田字明神東1-1)
狛太郎のひとこと:かぐらさん、初投稿有難うございます。この賀茂皇神社は850年頃に勧請とされる古社です。神亀元(724)年には、現在の多賀城市に陸奥国府兼鎮守府が築かれて内地化が進められており、そこから近い当地に、山城国一宮の賀茂社が創建されたのは必然だったと思われます。大和朝廷の蝦夷地進出には、信仰や価値観の統一も要したはずだからです。
狛犬は70年も前の作品なのに、現代アートのようにユニークです。脚間は浅くレリーフで表し、前面もヒゲや髪を配しない簡略な加工に留めています。一方で顔面の表現には力がこもっています。見開いた目にはヒトミが彫られ、眼光の鋭いところを見せつけていますし、歯列はまばらながら、噛まれたら却って痛そうです(^_^;)東北地方にはなぜか個性的な狛犬が多いようです。


岩城八幡(いわぎはちまん)神社

提供者:TAKOさん
09.02.04
TAKOさんのコメント:(鎮座地は)しまなみ街道生口島北IC南、約5km。
(上段)浪花型。寛政十二(1800)年申三月吉日。現役で出会えた事に感謝します。
吽は袈裟掛けに致命的な亀裂が見られます。材質的に補修は難しいですが、何とか・・・
(下段)尾道型。大正八(1919)年五月。いいですね。
前足が玉に乗っている幅が微妙にいいと思います。
(愛媛県越智郡上島町岩城島 1312)
狛太郎のひとこと:上島町は、瀬戸内海中央に点在する芸予諸島の中でも、愛媛県として最東部に位置する島々で構成されます。当社はその島々のうち、岩城島南端の港付近に鎮座しており、平安中期に伊予守となった源頼義が勧請したと伝えられる古社です。
(上段)大阪で浪花型が確立した時期を寛政年間と考えていたのですが、その頃すでに、瀬戸内海の離島にこれだけの浪花型があったのを知るにつけ、編年の難しさを痛感させられました。
典型例とは幾分おもむきは異なるものの、不敵な笑顔が実に印象的です。
(下段)厳めしい顔立ちに均整のとれた体型、複雑で豊かな尾を持つ尾道型です。玉に添えた前肢の位置もご指摘の通り、ごく自然で危なげがありません。それにしても、玉を真球に造るのは至難のようで、これだけの石工にしていびつさを免れ得ていません。原石の制約で不可避なことなのか、それともあまり真球にはこだわらないものなのか、是非知りたいところです。


奈良豆比古(ならつひこ)神社

提供者:うめぞーさん 
09.02.05
うめぞーさんのコメント:奈良町を出て、奈良市奈良阪町の『奈良豆比古神社』です。
(上段)一の鳥居の前に鎮座する一対。昭和十八年十二月、春田才治朗、春田明次(吽)、春田音松、喜多瀧三(阿)各氏によって奉納されました。ちょっと俗っぽい顔つきですが、この辺で角のある子は珍しかったので。ここでも足にリボンを結んでいますが、これも子供の神隠しよけでしょうか。
(中段)お行儀の良いペアは、二の鳥居の前に。『明治三十七、八(1904,5)年日露戦役従軍』と刻まれた台座に座っています。奈良坂町在郷軍人として、それぞれ十人程度の方々の名前も彫られています。犬歯が小さめで眉も真っ直ぐなので、穏やかめの顔に見えるのでしょうか。
尻尾は巻き毛のある扇形です。
(下段)本殿の前にはこのような子達がいました。40a程度の子犬体形、先日の『御霊神社』の狛犬の子犬時代という顔つきです。台座には『施主 辰巳屋嘉七』の文字が見えますが、奉納年はありませんでした。
(奈良県奈良市奈良阪町奥垣内2489)
狛太郎のひとこと:延喜式内の奈良豆比古神社の後裔とされる古社です。主祭神の平城津彦(ならつひこ)神はその名からみて当地の地主神であり、そこに志貴親王と春日王が合祀されたもののようです。なお志貴親王は御霊神社祭神の光仁天皇の父にあたる方です。
(上段)鎌倉彫刻をモデルにしたもので、引き締まった体に筋肉が浮き出た精悍な容貌です。
整いすぎて個性に乏しいものの、伝統様式として根強い人気を誇るモチーフではあります。
(中段)こちらはぐっと庶民的な印象で、厳めしさより近所のおじさん的な親しみやすさが持ち味です。完成した狛犬を見て、施主の軍人会の方々の反応はどうだったのか、気になりますね^^
大阪最古と言われる住吉大社の狛犬に似ているせいか、古めかしい印象を受けます。
(下段)石肌の様子からは非常に古そうに見えます。ウンの眼光鋭いドングリまなこと、固く結んだ唇が作る独特の表情には、何か内面の精神性さえ感じてしまいそうです。


與田寺(よだ・じ)

提供者:ishizakiさん 
09.02.06
ishizakiさんのコメント:厄除けに行って、薄暗い所で経文を聞かされたら眠りそうになりました。いろんな経文を読むようで、般若心経が出てきたときには、暗誦しているから意識が戻りましたが…。「おんころころ」、っていうのは観音様でしょうか。
(香川県東かがわ市中筋466番地)
狛太郎のひとこと:與田寺は天平11(739)年に行基が開いた古刹で、後に空海によって真言宗寺院に改められたとあります。四国八十八箇所総奥の院ということですが、地図で見るとそれほど辺鄙な地ではなさそうですね。調べてみたら、「おんころころ…」は東密における薬師如来の真言(マントラ)とありました。資料によれば当寺の本尊は薬師様ですから、なるほどでした。
ア像が破顔一笑、前歯を見せて朗らかな表情なのに対して、ウン像は苦虫を噛みつぶしたようにおし黙っています。その対比が面白いのと、アウンはどうやら造り分けられているらしいのも興味を引く点です。狛犬は本来ひとツガイの動物ではないので、形が違って当然なのです。
この狛犬では、耳の形が異なるように見受けられます。ただし他の部分は判然としません。


荻浦(おぎのうら)神社

提供者:hisaLinさん
09.02.07
hisaLinさんのコメント:ここは、唐津に行った時に立ち寄りました。小高い丘にあって、周りは新興住宅地でした。周りとの余りにものアンバランスが印象的でした。
(福岡県糸島市荻浦144)
狛太郎のひとこと:主祭神は天照皇大神となっていますが、昔は老松天神とも言ったそうなので、本来は天満宮だったようです。また十六天神も祀っているらしく、神仏習合的な要素もうかがえます。航空写真で見ると、当社のこんもりした森を中心に、住宅が整然と建ち並びつつあります。当社はこの新しい町の氏神として、これからも見守っていくことになるのでしょう。
狛犬はかなり古そうな形をしています。脚間と腹下を彫り抜かず、四肢はレリーフで表されています。また普通は足下に一体成形される盤がありません。これは肥前狛犬の特徴に合致します。前原糸島地区に肥前狛犬が多いことが、hisaLinさんの投稿の中から浮かび上がってきましたが、これもその系統のものです。(加布里天満宮八幡宮満吉天満宮熊野神社


小犬塚(こいぬづか)天満宮

提供者:hisaLinさん
09.02.08
hisaLinさんのコメント:ここは、柳川方面を走ったときに立ち寄ったんですが、笑い顔が真剣で思わずもらい笑いしましたデス。
(福岡県久留米市三潴町玉満)
狛太郎のひとこと:鎮座地は室町中期、鎮西探題の渋川氏が築いた犬塚城の跡です。探題は幕府が設けた九州統治のための機関ですが、有力各氏は従わず、争乱に終始し次第に形骸化しました。犬塚城も攻め落とされて渋川氏は撤退、秀吉の九州平定時に廃城となりました。
狛犬は鋭いギョロ目にインパクトがあります。アは口が大きく、口角が上がっているので、笑っているように見えますが、安心していると実は威嚇しているといったおもむきです。写真でははっきりしませんが、アは巻毛、ウンは直毛に造り分けられているようですし、足の位置がオープンスタンスです。これらのことは筑後型に共通するもので、場所柄からもその系統と考えられます。


三島(みしま)神社

提供者:hisaLinさん
09.02.10




@





A
hisaLinさんのコメント:田園風景が広がる中にポツリと神社がありました。
(上段)小さいながらも、楼門までありその中に肥前狛犬?さんが迎えてくれました。
その横に木製の狛犬(投稿してません)さんもいました。
(下段)拝殿前には、眼の印象的な四角顔(笑)の狛犬さんが鎮座してました。
(福岡県柳川市立石)
狛太郎のひとこと:全国の三島神社の根本社は伊豆の三嶋大社か、愛媛県大三島の大山祇神社のどちらかであるといわれますが、両社の関係はよく分かっていません。さて、戦国時代に柳川を領有した蒲池氏も三島神社を氏神としていました。そんなわけで当地には三島神社が多く見られるのですが、これがどちらの系統の三島神社かはよく分かりません。
@これは肥前狛犬です。戦国末期に佐賀で発祥した様式ですが、筑後川を隔てただけの筑後地方にも流布し、或いはこの地方でも造られたと見られます。頭部の上面に集中する顔面の造作、浅いレリーフで表現された四肢など、最も早い時期の典型的な態様を呈しています。
A一見しただけでは分かりにくいのですが、よく見るとこれは筑後型です。顔立ちはまるで違っているものの、肩の筋肉の盛り上がり方、前肢のスタンス、皮膚の処理、さらに足首のアンクレットのような隆線など、どれをとっても筑後型の基本を踏襲しています。


天満宮(てんまんぐう)

提供者:hisaLinさん
09.02.11
hisaLinさんのコメント:これは、島原の口之津から諫早まで走ったときに休憩した神社です。夏だったので、暑ぐるしくないかいと思いました。
(長崎県南島原市南有馬町戊)
狛太郎のひとこと:島原湾に沿って走る島原半島の輪行は、さぞ快適だったことでしょう。
当社は半島の東南部に位置し、島原の乱で天草四郎が籠城戦を展開した原城からも遠くない場所です。この地域の寺社は乱の兵火で潰滅したため、大半は乱後の再建か創祀と言われています。そんな血なまぐさい出来事も、今は四百年の時がすっかり洗い鎮めてくれたようです。
狛犬は体中に巻毛の渦をまとった豪華ないでたちです。その下に流れる房も豊かで、ほんとにこれでは夏は暑そうです(笑)。アは玉を噛み、ウンは玉取りと凝っており、目にはヒトミが刻まれるなど、石工が技巧の限りを尽くしたような作品です。時代は分かりませんが、手彫りの風合いであり、石工がこの作品に注いだ時間と労力が容易に想像できて、見応えがあります。


天満(てんまん)神社

提供者:hisaLinさん
09.02.12
hisaLinさんのコメント:福岡から、鳥栖を通って久留米まで走ったときに立ち寄りました。
なかなか風化が来てましたが、眼がとても印象的でした。
(佐賀県鳥栖市儀徳町)
狛太郎のひとこと:儀徳町は鳥栖市の南部に位置し、市の周縁部に当たる静かな農村地域でした。鹿児島本線の肥前旭駅を擁し、福岡県久留米市までは一駅という利便性から、近年は久留米のベッドタウン的な発展の様相も見られます。
狛犬は相当古そうです。顔面も風化によって、元の顔立ちとはかなり変わっているようです。
しかし、鳥栖地区で優勢な筑後型でないことだけは確かです。扁平な大腿部と前に投げ出すような後肢の処理などは、古い砥川型によく見られる特徴です。なお、オカッパの髪型のように見えるのは、長い垂れ耳と髪との区分が、風化によって摩耗し消滅した結果です。


和多津海(わだつみ)神社

提供者:hisaLinさん
09.02.15
hisaLinさんここは、熊本から大牟田まで行く途中でしたが、神社の前に公園(庭園)があってモミジが綺麗に紅葉してました。
(熊本県玉名市岱明町鍋)
狛太郎のひとこと:岱明(たいめい)町の名は、昭和30年に岱明村が成立した際、町北端の小岱山地と、南に臨む有明海から採られました。町域の南半は干拓による低平地が広がり、農村地帯であるとともに、漁港も擁しています。そのため地図を見ると、龍神宮、厳島神社、塩竈神社など水や海関連の神社が多く存在しており、当社もその一環として勧請されたものでしょう。
狛犬は過剰な筋肉をまとわないすっきりした体型であり、とっつきやすい造形ということができます。しかし髪とヒゲには入念な細工が施されており、特に、毛の房が首をぐるりと取り巻くような意匠は、この狛犬のワンポイントとなっています。これは天草地方のものと共通しており、地域的特性の広がりを考える上で参考になるものです。(大浦阿蘇神社上津浦諏訪神社


佐房八幡(さふさ・はちまん)社

提供者:DogOneさん
09.02.16
DogOneさんのコメント:佐房の八幡宮は、佐房バス停から川沿いに少し行って左へ下ると、すぐあります。高さは, 阿像65cm、吽像57cmの蹲踞。太い前足と長い犬歯が印象的です。
明治41年5月、征露従軍軍人中の寄進で、石工は今泉武の銘がありますが、住所は欠けがあって読めません。像自体の保存状況は良好です。玉はくり抜きで綺麗に整形してあります。顔のアップを見たら、瞳が刻んであるのには驚きました。
(佐賀県佐賀市川副町西古賀佐房)
狛太郎のひとこと:弥生時代には現在のJR長崎線あたりが海岸線だったとされます。その後河川が造る自然干拓に加え、中世には人工による干拓も始まりましたが、戦国末期頃にはまだ、川副町の南半は有明海だったようです。ちょうど当社の辺りが海岸線だったことになります。
狛犬は砥川型と塩田型の特徴を併せ持つもので、ややずんぐりした体型の蹲踞です。同町内の淀姫神社の石工に「枝吉(佐賀市北川副町)今泉武市」があり、巨勢町の修理田神社(未掲載)に「枝吉石工今泉武一」があって、時代と作風から両者は同一人物と考えられます。当社の「今泉武」もこの「今泉武市(一)」と同一人ではないかと思われるのですが、どうでしょうか。


天満(てんまん)神社

提供者:DogOneさん
09.02.17
DogOneさんのコメント:高さは 阿像76cm、吽像72cmの蹲踞。双方とも岩が柔らかいようで、阿像は下顎が欠け、胸と前足にも剥離があり一寸悲惨です。吽像は走毛に欠けと一部に剥離がありますが、まだ大丈夫なようです。設置年は「■■15年5月」と、年号が読めませんが、鳥居は明治25(1892)年6月、常夜灯と馬も明治25年辰です。若しかしたら大正15年かも。
寄進者は、講中■中で多数の名前が刻んであります。石工は、阿像が「シヲタ石工ツルタ藤太郎」、吽像は「塩田石工■田■次郎」となっていますが、どうみても鶴とは読めません。
像のスタイルは似ていますが、尾の渦が「阿は横に」「吽は尻上がりに」並んでいるので、やはり別人の作だと思います。顔はやや上向きにつくってあります。ちなみに、同じ参道にある馬は「塩田石工鶴田■太郎」、菰樽?1対は「塩田石工鶴田藤太郎」となっています。阿吽の像で作者が違うのは海童神社でもありました。
(佐賀県佐賀市川副町小々森)
狛太郎のひとこと:天正4(1576)年に、龍造寺隆信が威徳寺の昌泉に命じて、大宰府天満宮を勧請しました。干拓の町に不可欠な、水を司る八大龍王も合祀しています。
狛犬は立派な塩田型ですが、風化が著しく、顔面をはじめ、塩田型の特徴である繊細な毛筋などが失われているのは残念なことです。奉納年については、「■■十五年」はやはり「明治二十五年」であろうと推察します。同じ鶴田藤太郎の作品である「菰樽のようなもの」(恐らく米俵)の製作年が明治29年ですから、「大正15年」では時代が離れすぎるからです。


若宮(わかみや)神社

提供者:DogOneさん
09.02.19
DogOneさんのコメント:嘉瀬川右岸、嘉瀬橋の袂、大字徳万字町東にある「若宮社」です。
ぴんと立った耳、飾りのない大きな尻尾の狛犬さん。体長57cmと54cmの岩狛で、石工の銘はありませんが「萬延元(1860)庚申仲冬吉良日」と刻んであります。
香椎神社の吽と後足の位置、尾やたてがみの形、前歯が尖っているなど、似たところもあります。嘉瀬の四面宮の吽の歯も尖っていましたね。これも砥川系ですか?
(佐賀県佐賀市久保田町大字徳万字町東)
狛太郎のひとこと:創建年代は不詳ですが、町史によると龍造寺隆信との関係が記されています(香椎神社文書)から、少なくとも戦国時代以前であることが分かります。また「宮司窪田因幡守」ともあり、安元3(1177)年に香椎神社を勧請した窪田因幡守の子孫が代々、当社の神主を兼務していたことが分かります。これらのことから、相当古いお宮であろうと推察されます。
狛犬は典型的な砥川型岩狛です。前立の岩に前肢をかけて半ば立ち上がり、後肢をピンと伸ばした姿は定番の蹲踞に比べて変化に富み、躍動感のある良い造形です。この岩狛というスタイルを生みだしたことが、砥川石工の最大の功績と言っても過言ではありません。
香椎神社の狛犬も、まさにこのタイプです。しかし四面神社のものはこの系統ではありません。


天満宮(てんまんぐう)

提供者:DogOneさん
09.02.20
DogOneさんのコメント:体長は71cmと73cmで、H19年の台座取替えで銘は失われています。阿の顔面が剥がれたのか、セメントで貼り付けた後があります。歯が欠けてしまっていますが、他は健在です。毛並みのすっきりした鬣や大きな尾・歯などが目立ちます。
(佐賀県佐賀市川副町大字南里字野々古賀)
狛太郎のひとこと:当社は「北山の畑瀬村」から移された由です(古文書)。なぜ山深い畑瀬から、はるばる海に近い当地に移転したのかは謎ですが、何らかの理由により、村民の集団移住があったことが想像されます。その畑瀬村は今、ダム建設により一部が湖底に沈むことになっているのであり、長い歴史の間には色々なことがあるものだ、との思いを強く抱かせます。
狛犬は流麗さが持ち味の塩田型です。この二股になっている長い尾も塩田型によく見られる様式で、柔らかく伸びる髪の房とともに、像の美しさの二大要素となっています。ところで、古い台座に新しい狛犬を設置したものは時折見かけますが、逆に台座だけを更新した例は多くありません。折角なら刻字も復元してくれていれば良かったのですが・・。


御領(ごりょう)神社

提供者:hisaLinさん
09.02.21
hisaLinさんのコメント:
天草の輪行時のものです。見てのとおりで熊本地方(天草?)独特でしょうか。
(熊本県天草市五和町御領6846)
狛太郎のひとこと:当社は阿蘇12神及び地方神3柱の15柱を祀っており、江戸時代には十五社宮と称していました。ということで、阿蘇神社系のお宮であるようです。なお当社の二の鳥居は、天保11(1840)年に大庄屋長岡興就が奉納したものです。長岡氏は苛政に苦しむ百姓の窮状を老中に直訴して処刑された、地元の恩人です。鳥居の奉納はその5年前のことでした。
狛犬は襟巻きのように、ぐるりと首を取り巻いた髪とヒゲが特徴です。この襟巻きのような形は天草の他の狛犬にも共通の意匠ですが(大浦阿蘇社上津浦諏訪社)、これが天草独特であるかは即断できません。似たものは和多津海神社や熊本の他の神社にもあるからです。


天満宮(てんまんぐう)

提供者:DogOneさん
09.02.24
DogOneさんのコメント:平成12年10月に個人で奉納された体長50cmと55cmのコマヤンです。大堂神社の新しい狛犬に似ていますが、玉の代わりに舌を出した珍しい形をしています。
(佐賀県佐賀市川副町大字南里字坂井)
狛太郎のひとこと:佐賀市内を潤した多布施川の清流は、やがて八田江川となって有明海に注ぎ込みます。その河口の上流数`の辺りに当社は鎮座しています。最近の干拓地と違って、複雑に入りくんだ水路が、徐々にしか広がらなかった古い干拓地であることを示しています。
狛犬は愛好家には甚だ評判の悪い、現代岡崎型です。江戸〜明治期の狛犬が次々に耐用年数を迎える中、その代替として全国を席巻しつつあります。それなりに整った姿をしているのですが、いかんせん、工業製品的な質感と貧相な尾が災いして、人気のほどはイマイチです。


天満宮(てんまんぐう)

提供者:DogOneさん
09.02.26
DogOneさんのコメント:西南里の集落の西寄りにある天満宮です。
体長64cmで、明治2年1月、石工・武富傳三郎(在所銘なし)の作です。25個の栗ボーロを刻んだ鬣(たてがみ)や豪華な尾が目立ちます。阿像の歯に欠けが有りますが、他は健在です。
(佐賀県佐賀市川副町大字南里字西南里)
狛太郎のひとこと:南里は旧佐賀郡川副町の北端に位置した部落で、鎌倉末期頃にはこの辺りが海岸線だったと言われます。川副町内では最も早く陸地化していた場所で、現在の海岸からは遙かに離れていますが、搦(からみ)など干拓にまつわる地名が残されています。
狛犬は均整の取れた肢体と、豊かな髪・尾で目を奪う美しい姿です。DogOneさんが言われる
「栗ボーロ」は、中年以上には懐かしいお菓子の名で、ここでは即ち経巻渦を指しています。
これが沢山あるほど髪にボリュームと変化を与え、見た目も豪華になります。その分、石工の手間は膨大となり工賃も高価だったはずなので、経済的にも豪華だったわけです。なお、「武富」は与賀神社狛犬の「砥川村武富傳■」(1801)をはじめ、砥川石工に多く見られる姓です。


天満宮(てんまんぐう)

提供者:DogOneさん
09.02.27
DogOneさんのコメント:同じ西南里の東寄りにある天満宮です。体長72cmと70cmで、石工・寄進年とも銘はありません。灯篭に宝暦12(1762)年2月の銘があり、狛犬も古代型ではないかと思われるので可なり古い作品ではないでしょうか。鬣(たてがみ)の栗ボーロ(経巻渦)は
西の像(上記)よりさらに多く、50個と48個あり、尾も2峰1渦6毛と2峰11渦と賑やかです。
(佐賀県佐賀市川副町大字南里字西南里)
狛太郎のひとこと:上記の天満宮と同じ西南里にある、もう一つのお宮です。明治の合祀令で神社数は激減したと言われますが、江戸期には部落毎に氏神を祀っていたはずです。
西南里に2社があるのは、当時はここに2つの部落があったことの名残ではないでしょうか。
狛犬は確かに古代型の雰囲気を持つ作品です。顔の仰角が体の角度の延長線にあることや、飾り気のない前肢などによってその印象があるのですが、実際には次の世代の作品です。
丁寧で複雑に彫られた髪やヒゲ、装飾性に富んだ尾を見れば、古代型の古拙さを完全に脱却していることが分かります。また安永6(1777)年の松原神社の狛犬と比較すると、これが宝暦年製の灯籠と同時期ではないことがよくご理解頂けると思います。これはもっと新しいものです。


八幡宮(はちまんぐう)

提供者:DogOneさん
09.02.28
DogOneさんのコメント:体長73cmと75cmですが、太い前足、肉付のよいふっくらした腿、大きな尾が全体を非常に大きく見せます。玉の径も9cmある。大正6(1917)年1月、石工・北原彦六の銘があります。在所の「坂■村」の■は読めない。牛でも井でもない。境内の奉献塔2対も同氏の作でした。鬣(たてがみ)は渦より直毛が多く、尾は殆ど渦(菊水型?)。数は吽が阿の2倍くらいある。渦の形も見慣れた栗ボーロ(経巻渦)でなく、見事な鳴門渦です。鼻の穴も前向きでなく外に開いた形です。
(佐賀県佐賀市川副町大字南里字東南里)
狛太郎のひとこと:創建年代は天平10(738)年と伝えられます。この年大洪水が起こりましたが、流れついた木片によって溺死を免れる者が多かったため、この木片で八幡の神像を造って祀ったとあります。これほど古いとなると、当時の海岸線の位置が気になるところですが、川副町の中でもこの辺りだけは、弥生時代以来の古い陸地であったようですからひと安心です。
狛犬は県内の狛犬らしからぬ、派手な外貌を呈しています。特に渦が密集する尾が豪華で、しかも渦の形がご指摘のように独特のデザインです。さらに体側には大きな牡丹花を配するなど、装飾性を追求しています。塩田系統ではないかと思うものの、石工の「北原」氏は初めて見るものであり、或いは県外から持ち込まれたものかも知れないと想像する次第です。
page
Top 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 14 15 16 17 18 19