団塊明石の会・・・ 思い出

我々が学生だったころの思い出、エピソード、それに関連して学校の近辺が今どうなっているのかを紹介し ます。現在の学生(後輩)達から情報の提供がありました。追加掲載を希望される記事や意見ががあれば、 幹事に連絡してください。随時、追加します。みんなで、このページの充実を図りましょう。個々の写真を クリックすると、大きくなります。
「昔を懐かしむ」以外の目的への流用・転用を禁止します。

11a魚住駅 11b魚住駅 11c駅北側






11d駅から学校への道 11e駅南側 11f駅から学校への道






11g駅から学校への道 11h駅から学校への道 11j駅から山電への道








魚住駅は近代化され、駅舎が階上になり、北側にも南側にも乗降でき、学校までも近くなりました。駅と学 校を結ぶ道路の両側は住宅街です。
11k新しい校門 2012年、校門が新しくなりましたので紹介しておきます。仕方がないことですが、我々が見慣れたもの がどんどんなくなりますね。写真をクリックすると、校名の文字が読み取れます。
12a明治屋 12b明治屋 校門の近くに、明治屋(牛乳屋兼お好み焼き屋)があり、美人の姉妹が働いていました。元気にしてるのかな?  オジサンとオバサンお元気ですか? クラ ブ活動が終わってから飲んだ牛乳、夕食後に食べたお好み焼き、何もかもが青春です。明治屋の後(跡)が、どちらの店か分からないので、両方掲載しました。
・・・・21:00過ぎに明治屋が閉まったら最も近い食堂が、国道2号線の 
13aながさわ 「ながさわ」と「神姫モーテル」でした。 寒い中を30分以上歩いた人達! 覚えていますか、昔風のドライブイン(大衆食堂)を。長距離トラックの 運転手に混じって飲み食いした夜食の美味しかったこと。江井ケ嶋酒造の2級酒(今は2級酒はないので しょうね)が置いてありました。その後、「ながさわ」は、ファミリーレストランになりましたが、先日訪ね たら、写真のようにコンビニに変わっていました。2013年に閉店したとのことです。「神姫モーテル」も 見当たりませんでした。ウーン! 残念!! 
話のついでですが、江井ケ嶋酒造は甲州街道(国道20号)沿いの甲府と諏訪の中間辺りにワイナリー(ワ イン醸造所)を持っています。偶然立ち寄ったのですが、なつかしくて、思わずレジのお姉さんに「私、若 い頃、江井が島の隣の魚住に住んでいました。」と言ってしまいました。
14a農協 14b駅前コープ 学校(学生寮)近くの唯一のスーパーだった農協は、今は写真のようになっています。我々の頃のスーパー は道路の東側だった気がしますが、写真は西側の建屋です。1階がAコープというスーパーになっています が、魚住駅前には「魚住モール」があり、スーパーはこの位置に出世したようです。・・・ 夕方5:00に鳴っていた音程が外れそうなサイレンのドボルザーク(遠き山に日は落ちて)は、10年位 前に、「夕焼け小焼け」に代わったそうです。・・・残念、思い出が一つ、少なくなりました。
15a図書館 15b保健室 用事もないのに医務室にタムロしていた人! 私は寮生活で、靴下を洗濯するのがイヤで、毎日素足でし た。・・・「風邪を引いたから薬を下さい。」・・・「靴下を履いてきたら薬をあげる」・・・懐かしい 会話です。これ以外の会話の内容を全く思い出しませんが、母親と同年代の看護婦さんとペチャクチャと おしゃべりしていました。家に帰っても、自分の母親とはほとんど話をしない年頃だったのに。・・・現 在は図書館(我々の時代にはなかった)の中にありますが、最近の若者もタムロしているそうで、ただし、 休み時間だけ。我々は、”だけ”ではなかった気がします。現在の看護師(2代目)さんに無理を言って、 写真に入っていただきました。ありがとうございました。
入学早々に驚いたこと・・・入学式で、学生代表で何かを受け取ったか挨拶した人が、「福」で始まる名 前の人でした。この人が入学試験の成績のトップかと思いきや、学生名簿はアルファベット順とのこと。 Aで始まる例えば「阿部」さんがいなければ、「ふ(Fu)」で始まる人は、かなり最初の方になりまし た。「山」で始まる人は、あいうえお順同様、相変わらず後ろでした。
入学式で、「本校は国立で、国の税金で設立されている。それを自覚し、感謝するために、国旗を掲揚して いる。」と言われた。特に強く自覚した訳ではないが、団塊の世代として経済発展の中心(一員?)となり、 みんなの力で社会に恩返しできたのではないだろうか。・・・カッコ良く、言い過ぎか!?現在は、入学式、 祝日など、特定の日に掲揚しているそうです。
数学の授業中に、ヒバリが鳴きました。都会育ちの先生、チョット耳を傾けました。その内にどこからか 「モー!」・・・・・「魚住にはウシがいるのですね。」・・・・・と感心しきり。しばらく、授業を中断。 今は車の音しか聞こえません。
修学旅行で中突堤から別府航路に乗りました。強風で海が荒れていたが出航しました。見送りに来ていた 一人の先生(当時既にかなりのお歳でした)が、突然、船が進む方向に、中突堤を先端までつまづきそうに なりながら走り出し見送ってくれました。今でも、思い出します。「亡国の民」も、”興国の民”になり、 60歳を大きく過ぎました。そろそろ羽を休めつつあります。今は、関西汽船が吸収合併され、別府航路は 大阪南港発のカーフェリーになっています。
修学旅行を引率した先生が、「流転・・・男命をみすじの糸に・・・」を歌われました。学校に帰ってから、 もう一度聞かせて下さいと頼んだら、「君たちのような若い人が、あんな退廃的な歌を歌っちゃいけない」 と言いながら、もう一度聞かせ てくれました。名誉のため、先生の写真は掲載しません。
修学旅行を引率した別の先生の話をもう一つ。バスの中で歌をせがんだら、授業姿勢は生真面目一直線の先 生、「私は歌は、これしか知りません」と言われて、「一つ出たわいのヨサ・・・以下省略」と春歌を歌っ てくれました。ありがとうござい ました。名誉のため、写真を掲載しません。
ある先生の部屋に行くと、机の上にハンダゴテが置いてあり、電源ラインにやや大きめの固定の抵抗をかま して通電しており、ハンダゴテの上には、ベープマットが。「これくらいの温度がちょうどいいんだよ」 ・・・ベープマットって、今でも売っているのだろうか。これも写真は無しです。・・・追伸:今はより安 全なサーミスタで加熱するそうです。電池式のコードレスタイプもあるようです。
卒業前に、先生にジョニクロ(ジョニーウォーカーの黒ラベル)を飲ませてもらいました。シルクハットの オジサンが大股で歩いているラベルで有名なスコッチです。ジョニ赤とジョニ黒があり、当時、赤は 5,000円、黒は1本10,000円くらいしたと思います。初任給が25,000〜30,000円で すから、いかに高級品だったか。チョッピリ大人になった気がしました。
高専祭の前夜祭でキャンプファイヤーをすることになり、線路の枕木が良く燃えると聞き、魚住駅に古い枕 木を貰いに行ったら、ここでは処置できないのでと、隣の駅に電話をしてくれました。隣の駅(多分、大久保 駅だったのでしょう。最短距離(線路上)で3.5Kmは離れています)までリヤカーを引いて行きました。 当時は”軽トラで”なんて考えもしませんでした。「使用済みとはいえ、国有財産をあげる訳にはいかない が、払下げならできる」と、粋な計らいでかなり安い金額で、譲っていただきました。そうだ、当時は国有 鉄道だったんだ。リヤカー一杯の枕木を、引っ張って帰ってきました。
持って帰った枕木を寮の前の空き地に井桁に組み上げ、消防署とご近所に驚かないように連絡をし、暗くな ってから、キャンプファイヤーをしました。当時、女性の学生はほとんどいなかったので、男ばかりで並ん で、8ビートのステップで、足並みを揃えて踊りました。今、振り返って想像すると、”ぞっとする光景” ですね。今は、キャンプファイヤーはできないとのことです。
51a本館3階から 校門から600mは両側が田んぼで、隠れることができない道を、授業を抜け出して、タオルを肩に20分 以上歩いて、住吉神社前の海岸まで泳ぎに行きました。「先生、ゴメンナサイ、失礼しました。」皆、若か ったのです。写真は、本館3階から見た現在の景色です。今は(今なら)、校舎の窓から、校門の外の道路 を歩いている姿は見えません。
51b住吉神社 51c神社から海を 51d神社前の海 50数年振りに住吉神社へ行きました。朽ち果てかけていた「能舞台」は美しく整備され、春の祭りでは能 が演じられるそうです。海から神社への参道も整備されていましたが、残念ながら懐かしさが吹っ飛びまし た。美しくなりすぎです。茶色く濁っていた海も、透明で、多分、我々が泳いだ頃より浅くなっていました。 Aの突堤は、当時もあったものだと思います。Bの突堤はさらに長くなっていました。
とある日曜日の夕方、誰かが「サメが釣れた」と言って、体長30cm弱のサメの子供(今思えばコバンザ メかもしれない)を持って、学生寮に帰ってきました。聞くと、我々がいつも泳いでいる海岸でとのこと。 それ以降、サメのママが怖くて、泳げませんでした。
53a中庭の池 夏の夜に、夕涼みするふりをして、中庭の池で、鯉釣りをした人はいませんか? 学生寮の夕食のゴハンを 少し残しておいて。ゴハン粒でも釣れるものです。さすがにそのコイを食べるほどの食いしん坊はいなかっ たと思います。警備の人の懐中電灯の灯りが近づくと、竿を隠して、オシャベリだけをして、遠ざかると再 び釣りをして。その池の写真です。
54a学生寮 毎晩、22:40(インターネット検索で調査)、スイッチを入れっぱなしのラジオから、ツン・ルン・ツン ・ルン・ツン・ルン・ツン・ルン・と独特の前奏が始まり、「夜明けのスキャット」が流れてきました。歌手名 (由紀さおり)は知りませんでした。毎日放送の明治製菓提供の「夜のバラード」という番組のテーマ曲で した。昭和44年頃とのことです。卒業直前です。今、再びこの歌がブームになり、”昔”深夜放送のテー マ曲だったと紹介されています。そうだ、これだ、我々の世代の話だと懐かしく聞いています。ついでに、 この番組の前か後ろかに荒木一郎の「空に星があるように」が流れていました。
毎晩、ラジオから「夜明けのスキャット」が流れてきたのは、22:40だったんだ。19〜20才の男 ばかりが数人、狭い部屋に集まり、くだらない(結果的に人格形成に貢献した)話をしている最中でした。 「そろそろ、ラーメン(1袋、20円くらいだったかな)でも食べるか」と誰かが立ちあがる頃でした。 今の寮生も似たような生活をしているのだろうか。チョット覗いてみたい気がします。この記事を読んだ 現役の学生(寮生)がいたら、教えて下さい、現在の5年生の22:40の姿を。私のメールアドレスは、 土曜日の寮官に聞けば分かります。
2014年5月:このHPを見た現役の学生達から、投稿(情報の提供)がありましたので、この欄に順次掲載します。情報の取捨選択は幹事に一任願います。
緑色文字・・・現役の学生達からの投稿 
黒色文字・・・我々(卒業生達)からの投稿 
投稿についてコメントのある人(学生・卒業生共)はHP幹事にメールをください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
56a男子禁制 56b女子寮 56c室内





先日、団塊明石の会のお話を伺いました。 HPに掲載できそうなB寮の写真を添付します。女の子ばかりが写っている写真はB寮でミーティングをしたときのものです。現在B寮には34名女子がいて、部屋は満室状態で談話室まで居室にしている状況です。
・・・・・・・・・・
22:40頃に何を(勉強? 夜食? おしゃべり?)しているのかも知りたいな。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2015年10月:現役の学生から、投稿がありましたので、紹介します。
この記事を読んで、私は「あぁ、寮生活って今も昔も変わらないんだなぁ」と感じました。 今では寮の設備は大きく変化し、C寮はすべて個室になりました。そのせいか誰かの部屋に集まるということが減った気がします。(下級生で大部屋だった頃は毎晩同級生が集まっていました。) しかし、普段の寮生活の22:40はどんな感じなのかと考えると、やはり同級生と談話室のテレビ(ラジオではなく)を見ながらくだらない(そして素晴らしい)話をし、夜中におなかが空けばカップラーメン(寮内の自動販売機にて180円で販売)を食べています。 今年度で私も高専を卒業することになりますが、潮寮で仲間と過ごした時間はきっと一生の思い出になるでしょう。
・・・・・・・・・・
OBのつぶやき
フーン。今は、テレビなのだ。ラーメンも、鍋で作らず、カップ麺なのだ。我々の時代より、豊かなのだ。ラーメンについて、当時の状況を紹介します。誰か、まめな人(達)がいて、当時は激安量販店などなかったのですが、どこからか、安いラーメンを探し、箱単位で買ってきて、共有スペースに置いていました。箱には単価が書いてあり、希望者はその金額を置いて、ラーメンを持って行きました。ラーメンの銘柄も、日清のチャルメラが多かった気がしますが、全く知らない銘柄もあったと思います。多分、@16円とか18円とか。日本全体がそうでしたが、かなり、貧しかったのです。
ラーメンについてのエピソードをもう一つ紹介します。
時々ですが、空腹を、手っ取り早く満たした方法・・・例えば、「日清のチキンラーメン」を袋の上から、両手で押しつぶしてから、袋を開け、30〜40mmのラーメンを、お菓子のように食べてから、熱い紅茶を飲むと、数分後にはお腹いっぱいになります。チキンラーメンは味が付いていますが、粉末スープが付いているタイプは、粉末スープを少量、手のひらに乗せ、それを舐めながら、砕いたメンを食べます。これらの最大のメリットは、2〜3人で、分け合えることです。健康上、好ましくないでしょうが、大丈夫。この方法でラーメンを分け合ったクラスメイトも、何人かは今、健在です。
飛行耐用年数(回数)を過ぎた自衛隊の練習機が、トレーラーで到着し、校門の前に下ろされました。こ れをみんなで押して、寮の前まで運び、おおはしゃぎ。主翼の上に立っても、戦争映画で見るように格好 良くは操縦席には乗れません。停止状態の機体はかなり斜め上を向いており、操縦席からは空しか見えま せん。滑走路から、よく外れないものだと感心しました。今は、この航空機もないそうです。
毎週水曜日になると、誰かが寮内の各部屋を回り、寄付(小銭)を集めて、少年サンデー、少年マガジン、 ビッグコミックなどを買ってき、それが各部屋を巡って行きました。当時(調べたところ、1968年10月か ら)、少年サンデーに横溝正史の八つ墓村が掲載されており、次の発売が待ち遠しかった記憶があります。 登場人物が複雑すぎて、当時はよく分かりませんでしたが、小梅、小竹の老婆二人と美也子さんは私の頭 の中にイメージができあがりました。その後の映画で、ストーリーを理解しましたが、美也子さんのイメ ージは一致しないままです。
59a広兼邸 八つ墓村の物語はもちろんフィクションです。映画が複数製作されていますが、どれかのロケ地を見つけ ました。岡山県高梁市に吹屋という地区があり、「広兼邸」という豪邸があります。映画の中のお葬式の シーンで、この屋敷が使われていると思います。物語では屋敷の地下に鍾乳洞がありますが、もちろんあ りません。隣の新見市に満奇洞という鍾乳洞があり、ここがロケ地と思います。吹屋地区は、あの物語が 実話だったのかという錯覚に陥りそうな雰囲気を持っていますが、すべて横溝正史の空想の世界です。横 溝ファンの人は、一度、訪ねてみてはどうですか。
ゴルゴ13も、1968年11月から、ビッグコミックに連載され、大ファンでした。卒業してから、単行本を 買い続け、気がつけば100冊近く溜まりました。480円/冊ですから、バカにならない金額です。 ・・・40才半ばで、このマンガ(劇画) から卒業し、溜まった本は、Book offに売りに行きました。
寮生活で、マージャンとビリヤードを覚え、高専祭で社交ダンスを覚えました。就職後、職場のマージャ ン大会とビリヤード大会では上位入賞しました。ダンスパーティーにも参加しました。「おまえ、学校で 勉強して来たんか!?」「はい! 勉 強”も”、しっかりとしてきました。」
多分、毎週水曜日だったと思うが、クラブ活動の練習が終わると、必死に着替えて電車に飛び乗り、家ま で走って帰り、TVの前に座り込み、「コンバット」を見ました。アメリカ人のあの正義感が好きでした。 仕事でアメリカに出張するようにな っても、最初の頃は、全てのアメリカ人がサンダース軍曹のように正義感に満ち満ちた人だろうと誤解し ていたほどです。両親は、「これは日本が負けた戦争だ!」と言って、私がコンバットを見るのを嫌いま した。なるほど、憎々しいドイツ軍は、 日本側です。
思い出の先頭に戻る ここをクリック
元の画面の先頭に戻る ここをクリック