我々が学生だったころの思い出、エピソード、それに関連して学校の近辺が今どうなっているのかを紹介し ます。現在の学生(後輩)達から情報の提供がありました。追加掲載を希望される記事や意見ががあれば、 幹事に連絡してください。随時、追加します。みんなで、このページの充実を図りましょう。個々の写真を クリックすると、大きくなります。 「昔を懐かしむ」以外の目的への流用・転用を禁止します。 | ||||||||
魚住駅は近代化され、駅舎が階上になり、北側にも南側にも乗降でき、学校までも近くなりました。駅と学 校を結ぶ道路の両側は住宅街です。 | ||||||||
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・・・・21:00過ぎに明治屋が閉まったら最も近い食堂が、国道2号線の 話のついでですが、江井ケ嶋酒造は甲州街道(国道20号)沿いの甲府と諏訪の中間辺りにワイナリー(ワ イン醸造所)を持っています。偶然立ち寄ったのですが、なつかしくて、思わずレジのお姉さんに「私、若 い頃、江井が島の隣の魚住に住んでいました。」と言ってしまいました。 | ||||||||
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入学早々に驚いたこと・・・入学式で、学生代表で何かを受け取ったか挨拶した人が、「福」で始まる名 前の人でした。この人が入学試験の成績のトップかと思いきや、学生名簿はアルファベット順とのこと。 Aで始まる例えば「阿部」さんがいなければ、「ふ(Fu)」で始まる人は、かなり最初の方になりまし た。「山」で始まる人は、あいうえお順同様、相変わらず後ろでした。 | ||||||||
入学式で、「本校は国立で、国の税金で設立されている。それを自覚し、感謝するために、国旗を掲揚して いる。」と言われた。特に強く自覚した訳ではないが、団塊の世代として経済発展の中心(一員?)となり、 みんなの力で社会に恩返しできたのではないだろうか。・・・カッコ良く、言い過ぎか!?現在は、入学式、 祝日など、特定の日に掲揚しているそうです。 | ||||||||
数学の授業中に、ヒバリが鳴きました。都会育ちの先生、チョット耳を傾けました。その内にどこからか 「モー!」・・・・・「魚住にはウシがいるのですね。」・・・・・と感心しきり。しばらく、授業を中断。 今は車の音しか聞こえません。 | ||||||||
修学旅行で中突堤から別府航路に乗りました。強風で海が荒れていたが出航しました。見送りに来ていた 一人の先生(当時既にかなりのお歳でした)が、突然、船が進む方向に、中突堤を先端までつまづきそうに なりながら走り出し見送ってくれました。今でも、思い出します。「亡国の民」も、”興国の民”になり、 60歳を大きく過ぎました。そろそろ羽を休めつつあります。今は、関西汽船が吸収合併され、別府航路は 大阪南港発のカーフェリーになっています。 | ||||||||
修学旅行を引率した先生が、「流転・・・男命をみすじの糸に・・・」を歌われました。学校に帰ってから、 もう一度聞かせて下さいと頼んだら、「君たちのような若い人が、あんな退廃的な歌を歌っちゃいけない」 と言いながら、もう一度聞かせ てくれました。名誉のため、先生の写真は掲載しません。 | ||||||||
修学旅行を引率した別の先生の話をもう一つ。バスの中で歌をせがんだら、授業姿勢は生真面目一直線の先 生、「私は歌は、これしか知りません」と言われて、「一つ出たわいのヨサ・・・以下省略」と春歌を歌っ てくれました。ありがとうござい ました。名誉のため、写真を掲載しません。 | ||||||||
ある先生の部屋に行くと、机の上にハンダゴテが置いてあり、電源ラインにやや大きめの固定の抵抗をかま して通電しており、ハンダゴテの上には、ベープマットが。「これくらいの温度がちょうどいいんだよ」 ・・・ベープマットって、今でも売っているのだろうか。これも写真は無しです。・・・追伸:今はより安 全なサーミスタで加熱するそうです。電池式のコードレスタイプもあるようです。 | ||||||||
卒業前に、先生にジョニクロ(ジョニーウォーカーの黒ラベル)を飲ませてもらいました。シルクハットの オジサンが大股で歩いているラベルで有名なスコッチです。ジョニ赤とジョニ黒があり、当時、赤は 5,000円、黒は1本10,000円くらいしたと思います。初任給が25,000〜30,000円で すから、いかに高級品だったか。チョッピリ大人になった気がしました。 | ||||||||
高専祭の前夜祭でキャンプファイヤーをすることになり、線路の枕木が良く燃えると聞き、魚住駅に古い枕 木を貰いに行ったら、ここでは処置できないのでと、隣の駅に電話をしてくれました。隣の駅(多分、大久保 駅だったのでしょう。最短距離(線路上)で3.5Kmは離れています)までリヤカーを引いて行きました。 当時は”軽トラで”なんて考えもしませんでした。「使用済みとはいえ、国有財産をあげる訳にはいかない が、払下げならできる」と、粋な計らいでかなり安い金額で、譲っていただきました。そうだ、当時は国有 鉄道だったんだ。リヤカー一杯の枕木を、引っ張って帰ってきました。 | ||||||||
持って帰った枕木を寮の前の空き地に井桁に組み上げ、消防署とご近所に驚かないように連絡をし、暗くな ってから、キャンプファイヤーをしました。当時、女性の学生はほとんどいなかったので、男ばかりで並ん で、8ビートのステップで、足並みを揃えて踊りました。今、振り返って想像すると、”ぞっとする光景” ですね。今は、キャンプファイヤーはできないとのことです。 | ||||||||
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とある日曜日の夕方、誰かが「サメが釣れた」と言って、体長30cm弱のサメの子供(今思えばコバンザ メかもしれない)を持って、学生寮に帰ってきました。聞くと、我々がいつも泳いでいる海岸でとのこと。 それ以降、サメのママが怖くて、泳げませんでした。 | ||||||||
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毎晩、ラジオから「夜明けのスキャット」が流れてきたのは、22:40だったんだ。19〜20才の男 ばかりが数人、狭い部屋に集まり、くだらない(結果的に人格形成に貢献した)話をしている最中でした。 「そろそろ、ラーメン(1袋、20円くらいだったかな)でも食べるか」と誰かが立ちあがる頃でした。 今の寮生も似たような生活をしているのだろうか。チョット覗いてみたい気がします。この記事を読んだ 現役の学生(寮生)がいたら、教えて下さい、現在の5年生の22:40の姿を。私のメールアドレスは、 土曜日の寮官に聞けば分かります。 | ||||||||
2014年5月:このHPを見た現役の学生達から、投稿(情報の提供)がありましたので、この欄に順次掲載します。情報の取捨選択は幹事に一任願います。 緑色文字・・・現役の学生達からの投稿 黒色文字・・・我々(卒業生達)からの投稿 投稿についてコメントのある人(学生・卒業生共)はHP幹事にメールをください。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 先日、団塊明石の会のお話を伺いました。 HPに掲載できそうなB寮の写真を添付します。女の子ばかりが写っている写真はB寮でミーティングをしたときのものです。現在B寮には34名女子がいて、部屋は満室状態で談話室まで居室にしている状況です。 ・・・・・・・・・・ 22:40頃に何を(勉強? 夜食? おしゃべり?)しているのかも知りたいな。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2015年10月:現役の学生から、投稿がありましたので、紹介します。 この記事を読んで、私は「あぁ、寮生活って今も昔も変わらないんだなぁ」と感じました。 今では寮の設備は大きく変化し、C寮はすべて個室になりました。そのせいか誰かの部屋に集まるということが減った気がします。(下級生で大部屋だった頃は毎晩同級生が集まっていました。) しかし、普段の寮生活の22:40はどんな感じなのかと考えると、やはり同級生と談話室のテレビ(ラジオではなく)を見ながらくだらない(そして素晴らしい)話をし、夜中におなかが空けばカップラーメン(寮内の自動販売機にて180円で販売)を食べています。 今年度で私も高専を卒業することになりますが、潮寮で仲間と過ごした時間はきっと一生の思い出になるでしょう。 ・・・・・・・・・・ OBのつぶやき フーン。今は、テレビなのだ。ラーメンも、鍋で作らず、カップ麺なのだ。我々の時代より、豊かなのだ。ラーメンについて、当時の状況を紹介します。誰か、まめな人(達)がいて、当時は激安量販店などなかったのですが、どこからか、安いラーメンを探し、箱単位で買ってきて、共有スペースに置いていました。箱には単価が書いてあり、希望者はその金額を置いて、ラーメンを持って行きました。ラーメンの銘柄も、日清のチャルメラが多かった気がしますが、全く知らない銘柄もあったと思います。多分、@16円とか18円とか。日本全体がそうでしたが、かなり、貧しかったのです。 ラーメンについてのエピソードをもう一つ紹介します。 時々ですが、空腹を、手っ取り早く満たした方法・・・例えば、「日清のチキンラーメン」を袋の上から、両手で押しつぶしてから、袋を開け、30〜40mmのラーメンを、お菓子のように食べてから、熱い紅茶を飲むと、数分後にはお腹いっぱいになります。チキンラーメンは味が付いていますが、粉末スープが付いているタイプは、粉末スープを少量、手のひらに乗せ、それを舐めながら、砕いたメンを食べます。これらの最大のメリットは、2〜3人で、分け合えることです。健康上、好ましくないでしょうが、大丈夫。この方法でラーメンを分け合ったクラスメイトも、何人かは今、健在です。
飛行耐用年数(回数)を過ぎた自衛隊の練習機が、トレーラーで到着し、校門の前に下ろされました。こ
れをみんなで押して、寮の前まで運び、おおはしゃぎ。主翼の上に立っても、戦争映画で見るように格好
良くは操縦席には乗れません。停止状態の機体はかなり斜め上を向いており、操縦席からは空しか見えま
せん。滑走路から、よく外れないものだと感心しました。今は、この航空機もないそうです。
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毎週水曜日になると、誰かが寮内の各部屋を回り、寄付(小銭)を集めて、少年サンデー、少年マガジン、
ビッグコミックなどを買ってき、それが各部屋を巡って行きました。当時(調べたところ、1968年10月か
ら)、少年サンデーに横溝正史の八つ墓村が掲載されており、次の発売が待ち遠しかった記憶があります。
登場人物が複雑すぎて、当時はよく分かりませんでしたが、小梅、小竹の老婆二人と美也子さんは私の頭
の中にイメージができあがりました。その後の映画で、ストーリーを理解しましたが、美也子さんのイメ
ージは一致しないままです。
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ゴルゴ13も、1968年11月から、ビッグコミックに連載され、大ファンでした。卒業してから、単行本を
買い続け、気がつけば100冊近く溜まりました。480円/冊ですから、バカにならない金額です。
・・・40才半ばで、このマンガ(劇画)
から卒業し、溜まった本は、Book offに売りに行きました。
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寮生活で、マージャンとビリヤードを覚え、高専祭で社交ダンスを覚えました。就職後、職場のマージャ
ン大会とビリヤード大会では上位入賞しました。ダンスパーティーにも参加しました。「おまえ、学校で
勉強して来たんか!?」「はい! 勉
強”も”、しっかりとしてきました。」
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多分、毎週水曜日だったと思うが、クラブ活動の練習が終わると、必死に着替えて電車に飛び乗り、家ま
で走って帰り、TVの前に座り込み、「コンバット」を見ました。アメリカ人のあの正義感が好きでした。
仕事でアメリカに出張するようにな
っても、最初の頃は、全てのアメリカ人がサンダース軍曹のように正義感に満ち満ちた人だろうと誤解し
ていたほどです。両親は、「これは日本が負けた戦争だ!」と言って、私がコンバットを見るのを嫌いま
した。なるほど、憎々しいドイツ軍は、
日本側です。
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