今日は久しぶりにひとりで帰ることになった。蒼梧はと言うと、授業が終わるなり携帯に入れられたメールを見て仕事場にすっ飛んでいってしまった。携帯鳴るなり走ってくなんて安い男ねと嫌味ったらしく言ってやると、それはきみのせりふじゃないでしょと返されたが、果たしてそれはどういう意味だったのか。…いや、本当はなんとなくわかっているのだけれど。
 取り残され、周囲から受けたあやしい視線には、とりあえず困ったように笑って見せておいた。

 ひとまずさして予定もないしと、駅までの道のりを遠回りしながら帰ることにした。最初は女友達を誘おうかと思いもしたが、最近自分が少しばかり友達づきあいから身を引いていたその隙に、すっかりまとまるところにまとまってしまったようで。野暮なことはせずひとりで学校を出たのだった。
 そういえば明日は土曜だし、なんなら着替えを取りに帰って、それから蒼梧の家で待っているのもいいかもしれない。断りきれないではじめたモデルの仕事も、なんだかんだで楽しくやっているらしく、撮影後にはにこにこしながら撮ってきたポラを見せてくるのだ。若干、自分を好きすぎるきらいもあるが。



 そうやって、これからの予定を考えつつ歩いていると、ふと、人気の無い薄暗い路地の前で足が止まった。
 …なんだかいやな予感がした。


 かつての記憶が戻ってからというもの、当時持っていた能力までもがすっかり戻ってきているように感じた。ありがたくなく、今までは見過ごしていたあらゆることを自然と感覚でキャッチしてしまうせいで、いらぬ雑事を目にしてしまうことが多くなった。
 予兆程度のそれならば、紫陽花の力で未然に例の機関に事件扱いにするのを防ぐことも出来る。まったくお上はなにしてるのかしら、などとブツブツ文句を言いながら、頼まれもしないのに世のため人のため。
 過去の清算、だろうか。とは言え罪状はあるものの自分には非はないのだけれど―――。とは言っても、今更無実を証明する事もできないだろうし、しようとも思わない。蓮華としての誇りもあったが、七重紫陽花としての人生もそれなりに楽しめているのだし。

(でもめんどくさそうだと見なかったフリするあたり、やっぱ慈善事業とも言いがたいのよね)

 そこらへんあいつはうまいのよねと思わずため息をついた。蒼梧の持つ力は純粋に戦うための力だ。荒療治と称して多少の犠牲により事件未満のそれを解決する事も不可能ではないが、あまり利口なやり方とは言えない。それを言い訳にして、すっかりそのテの事柄からは遠ざかっているのだ。良心の呵責、と言うのは聞くだけ無駄なことなのかもしれない。それは、翡翠だったころの彼を知っていればなんとなくわかることで。

 少しだけ悩んだあと、結局その路地に足を踏み入れることにした。もしも面倒なことになっていたら、いつものように見なかったフリをしてしまえばいい。そのくらいの軽い気持ちで。
 しばらく進んでいくと、薄暗い路地に、不自然に浮かび上がる小さな建物が見えた。なにかの店、だったのだろうか。よく見ればとなりの建物もシャッターが閉じられていた。区画整理などでどうにもならなくなった地帯なのだろうか。

 しかしせまい空から差し込んでくる薄明かり程度の場所で、その建物だけがはっきりと見えるわけは。
 かすかに、閉じられたシャッターの隙間から漏れ出る青い光に気がついた。

(…青?)

 その青には見覚えがある。青い光、それは紛れもなく能力の発光。いやな予感の発信元はやはりここらしい。
 しかし力を使っているとなると、もしかすると、シャッターの向こうでは予想よりもずっと派手な事態に陥っているのかもしれないが。

 面倒は避けたい、と思っていたはずなのだが、自然と足はその建物の方へ向かっていた。一歩一歩、近づくたびに肌にヒリヒリとした痛みが走る。裏手へまわり、中をのぞける場所は無いか探していると、ごく小さな窓が見つかった。鍵もかかっていないようだったが、サッシのすべりが悪くて、音を立てぬようにそっと開けてみる。



「(あ…れは!?)」











「おーい蒼梧、携帯鳴ってる」
「え?」

 撮影を終え、パイプ椅子に深く腰掛けながらダラダラとしゃべっているとき、カメラマンが寄ってきた。

「ほらよ、おまえいい加減その恥ずかしい着メロやめないか?彼女にヒカれるぞ」
「あはは、もうやめてくれって何度も言われてますよ」

 渡された携帯は、恥ずかしげも無く「恥ずかしい」と好評の着信メロディを奏でている。表示される名前を確認せずとも、この「恥ずかしい」着メロをセットしている相手はただひとりだった。今となっては現場にすらすっかり浸透してしまったが。


「もっしもーし、どうしたの?」
『翡翠!今大丈夫!?』
「…レンカ?」

 小さく名前を呼んでからはっとした。この場所での彼女の名前はもちろん紫陽花のほうで通っている。
 幸い聞かれていなかったようで、特にこちらを注視している人はいなかった。それから自然にその場を離れると、なにがあった、と押し殺した声で聞いた。
 明らかに普通ではない状況と言うのは、すでに声の様子から感じ取れた。

『大変、ちょっとあたしの手に負えそうにないかも…』
「なにかあったのか?」
『なんか、能力者の男の子がひとり、いて』
「…能力者だって?」

 前々から、紫陽花が能力に過敏になっていることは気づいていた。もしそれで上に知れたら…と言う不安はあったが、事件となってからでないと動き出さないあの重い腰を思い出して放っておいたのだ。
 しかしそれも予兆の段階だからという、一応の安全が保証されていたからのことで。まさか実戦にまで手を出しているとなると、安心はもろく崩れ去ってしまう。記憶を取り戻すと同時に思い出した能力は、まだ不完全なのだ。

『なんか劣勢だったから思わず手を出しちゃったんだけど…そしたら向こうが逆上しちゃって』
「きみは大丈夫なのか?」
『うん…まぁ、大丈夫とは言いがたい、んだけど…いまは大丈夫。隙をついて逃げられれば逃げるつもりだけど、男の子今ダウンしちゃってるし…だからできれば来れたら来てほしいなー…なんて』

 紫陽花の声のうしろに、ガタガタと大きな物音が聞こえた。いまは大丈夫、の言葉が逆に不安を募らせる。

「おい、ほんとに大丈夫なのか?」
『今は、ね。なんか向こうも放出しきったみたいで、流れ出た気を収集してる。…から、しばらくしたら、デカいの一発来るかもしんない』
「…レンカ、いいか。逃げられると思ったらひとりででも逃げるんだ。でも無理をするくらいならその場にじっとしてるんだ。俺は直に行く。場所は?」
『高校の近くの大通りに行けばたぶんわかると思う』
「わかった。くれぐれも、気をつけて」

 乱暴に電源を切ると同時に走り出していた。
 あんなことを言ったが、紫陽花がひとりで逃げる選択をしないことはわかりきっていた。

 思わず眉をひそめ、唇を噛締める。
 なぜ、よりによって。ひとりのときに。








「ねえだいじょうぶ?しっかりしてよー、お願いだから!」

 思わず倒れこんできた少年を抱きとめたはいいものの、強い衝撃を食らったせいか気絶したまま目覚めないでいる。
 かつての紫陽花ならば、ある程度のダメージは簡単に癒すことはできたのだが、やはり紫陽花の体で覚醒して日が浅いせいか、なかなかうまくいかない。なんとか時間をかけてやってみてはいるものの、外傷が少しばかり治ったくらいでやはり目覚めない。軽い脳震盪でも起こしているのかもしれない。

 ため息が漏れる。思わず蒼梧へ連絡したものの、正直なところ彼のこともどれくらいアテにしていいのかわからなかった。ささやかながらこまめに力を使い感覚を取り戻しつつある紫陽花とは違い、自分の知る限りの彼は蒼梧になってからと言うものすっかり遠ざかっていたのだ。
 共倒れ、なんてことになったら誰がどう処理するのだろうと一抹の不安も覚えながらも、とりあえず目を覚まさない少年にできるかぎりの力を尽くしてみる。きっと翡翠ならなんとかしてくれる、そんな確証の無い希望を抱きながら。


 ふと、空気の流れが変わったのに気づいた。
 どうやら、向こうの準備は万端らしい。

「少々手間取ってしまったな…」

 足音が近づいてくる。

(ああ、こっちは準備どころかすでに消耗しかかってるって言うのに!)

 少年に翳していた手を引いて、あたりをうかがう。自分に出来るのは、とにかくこの少年と自分の身を守ることだけだ。
 すでに紫陽花の存在は相手に知られている。先ほど少しだけ確認できた相手の情報は、自分と同じくらいの年齢の男だと言うこと。
 一体何のきっかけで道を誤ったのかはわからないが、結果として弱いものいじめという構図はいただけない。正気などどうに失われているようだし。



「だが、おまえたちにも同じだけ時間はあったんだ、さぞ感動的な最期のことばを考えられたろうな」

 足音の聞こえてくる方向に体を向け、身構える。
 正確な位置が把握できなくなっている。焦りのせいか集中しきれず、力の波動を感じ取れない。

「さて、そろそろ終わりにしよう。聞かせてくれないか」

 気配がいつのまにか背後に移動していた。思わず紫陽花の背中に緊張が走る。動きのキレも格段によくなっているようだ。足音が止まる。

「…昔から作文って苦手だったのよね」

 胸の前で手のひらを硬くにぎって、守りを固めるための力をこめる。閉じた指の隙間から漏れ出る光が相手にばれぬよう気をつけながら。

「だから悪いけど、もう1時間くらいくれないかしら?」


 勢いよく振り返った。と同時に、男から繰り出される光波。
 間一髪、向けた右手で防御壁を作った。しかし片手で防ぎきれるほど、休息後の相手はやさしくない。少年の頭を膝に置いてから両手で応戦するも、それでもまだ、相手が勝っている。


「シールドをはれるのか。少しは使えるようだな」
「さあ、どうかしら?」
 
 意地だけで不敵に笑って見せるが、実際には笑える余裕など微塵も無かった。だんだんと、自分たちを覆う壁が脆くなってきていることに気づいていたが、維持するので精一杯で、これ以上の力をこめることは不可能だった。
 容赦ない相手の攻撃。しかし、一瞬だけその力が緩んだ。

「さて、どこまでもつかな?」

 男がにやりと笑った瞬間、その手のひらがより強い光を発した。
 とびきりのが来る、紫陽花も身構えるが、力はほとんど尽き掛け、これ以上の強度のシールドを作り出すことは不可能だった。

 まともに食らうか、せいぜい防げても1割程度だろう。
 覚悟を決めて、目を閉じて諦めかけたときだった。

 おろされたまぶたごしに、はっきりと強い光を感じた。
 ゆっくりと目を開けたが、どうやらあの世ではないらしい。さきほどと同じ光景。ただひとつ、自分と倒れたままの少年を庇うようにある、絶大な安心感をのぞいては。


「レンカ!!」
「も…う、遅いじゃない、の…!」

 聞きなれた声に、思わず安堵して肩の力が抜けた。うしろに倒れこみそうになるのを蒼梧に支えられてるが、結局その場にしゃがみこんでしまった。どうやら完全に力は尽きていたようだ。


「きみはその子を、」
「うん。…気をつけてね」
「ああ、正直どうなるかわかったもんじゃないけどね」

 せりふは頼りないものだったが、その優しい声は張り詰めていた紫陽花を安心させるには充分だった。少しだけ綻んだ表情を見て、今度は蒼梧が安心して男を振り返った。


「さて」

 信じられないくらいの冷たい声。

 蒼梧がいやらしくにじり寄る。ホコリや砂まみれのコンクリートに、靴底が擦れる音が響いた。
 思わず2、3歩後退りした男は、蒼梧から男子高校生にしてはふさわしくないほどの力量を感じていた。

「よくもうちの伴侶傷つけてくれたな…、この借りはきっちり返させてもらうぞ」