「稲荷先生、評判いいみたいじゃないですか、カウンセリング」

 

 無意識に、思わずキッと睨みつけてしまうところだったが、踏みとどまった。
「(アブないアブない、いくら苛立ってるとは言え常磐くんの担任に悪印象はよくない…)


 しかしそれにしても今の稲荷にとっては、カウンセリングのカの字も聞きたくないときだというのに。
 カウンセリングのカは常磐馨のカ。
 よくもまぁ、人の気も知らないでこの人はにこにこニッコニコ…!


 …いや? 待てよ、よく考えろ稲荷周平。
 この人は担任、愛しい常磐義弘の担任、担任…。


「さすが先生、これこそ生徒に好かれる所以ですよね」


 チャーンス。
 何ていいタイミングで欲しい言葉を持ってきてくれるのだろうと稲荷は感謝さえした。


 稲荷周平の心の中に、カチンコの音が鳴り響く。


「いいえ…、私もまだまだですよ」
「何をおしゃるんですか、連日のカウンセリング希望者の長蛇の列、謙遜するにも程があります」
「いや、そういうんじゃなくて…。どんなにたくさんの生徒に好かれてもね、たったひとりの生徒にでも嫌われてしまっては何の意味も無いんですよ」
「嫌われる?稲荷先生が? まぁ、一体どんな生徒が…」

 あまりの稲荷の沈痛な表情に、明らかに心配そうに見つめてくる。
 稲荷は心の中でしめた、と叫んだ。

「そういえば山形先生の担任クラスでしたっけ、2年C組は」
「ええ、そうですけど…、まさか、わたしのクラスの…?」
「仕方の無いことなんですけどね、私の力が足りないばかりに」
「あ…の、差し支えなければ、教えていただけませんか?」


 ナーイス。
 ああ、なんてこの女性は思った通りの言葉をかけてくれるのだろう。
 きっとこの様子じゃ、このあとも思ったとおりに動いてくれることだろう。

 あと10歳若かったら、是非とも口説きにかかっていたところなのだが。



「…常盤、義弘くんです」



















「おにーちゃあーん、か・え・ろー!」
 おそらく他学年の教室に、何の恥じらいも躊躇いもなくズカズカ入ってこれるのは、学校中探しても馨だけだろうと義弘は思う。
 しかし馨には慣れっこの2-Cメンツは今更驚くこともなく、むしろ寄ってたかるハエ(木更津護)もいる。
「やー馨ちゃん!今日もカワイイね!」
「(無視)ねぇねぇ、馨アイス食べて帰りたい」
「えーヤだよ、オマエ歩きながら物食べるとすぐこぼしてベタベタになるだろ」
「馨ちゃん、俺おごったげるよ、一緒に行かない?」
「(無視)むぅー、じゃあいいよぅ、あ、でもコンビニ寄ろうね、今日サンデー発売」
「おまえいつからサンデーなんて読んでたの?」
「あれ奇遇だね馨ちゃん、俺も愛読してる!」
「(無視)お兄ちゃんが読むんでしょ、ほら、早く帰ろー!」
「わかったから離せよもー、あ、じゃあな木更津」
「ああいたんだ木更津くん」
「馨、何オマエ気付いてなかったの?」
「うん。隣でハエとんでるかなとは思ってたけど木更津くんだったんだね。じゃ、バイバーイ」
「うん…ばいばーい…」
 しかし木更津護(17)はまだ気付いていなかった。
 そんな報われない彼を、哀れんだような目で見つめていた一人の少女を…。







「常磐くん!」
 上履きを履き替えたところで、義弘は山形に呼び止められた。
「先生?あれ、俺なんか今日言われてましたっけ?」
「いいえ…、あのね常磐くん」
「おにーちゃーん、早くー!」
「あら、馨ちゃんもいるの?」
「え? ああ、まぁ…。馨、ちょっとこっち来い」
 なぁに?とそれまで下駄箱の陰からのぞいていた馨が、飼主に呼ばれて駆け寄る仔犬のように義弘のもとへ駆け寄ってきた。

「あのね、ふたりとも、ちょっと聞いて欲しいんだけど…、」
「どうしたんですか、え、俺こないだ赤点とかありましたっけ?」
「ううん、そうじゃなくて、稲荷先生がね…」
「I・NA・RIー!? ヤだヤだ、馨今すっごいその名前聞きたくなーいー」
「稲荷せんせい、でしょ。ねぇ常磐くん、あなた稲荷先生のこと嫌いってほんとう?」
「…はぁ?」
「キライだなんてそーんな生ぬるいもんじゃ、うぐ」
 勢いに乗って言葉を続けようとした馨は、口を義弘の手にふさがれて息を飲み込んでしまった。
「…稲荷、せんせい、がそう言ったんですか?」
「ええ、なんだか見ているこっちまで胸が痛くなるようなせつない表情で…」
 いまだ口は塞がれたままだが、体で批判を表そうとする馨をなんとかもう片手で押さえつけた。
「だからね、差し出がましいとは思ったんだけど、できれば常盤くん、今度稲荷先生とお話してくれないかしら…。ほんとに、いい先生なのよ。だからお願い、そんなに頑なにならないで…」
「いや、でも僕は別に稲荷先生のことは…」
「いいえ、何もひとりで対面しなさいって言ってるんじゃないの。そうだわ、馨ちゃんとふたりでカウンセリングに行ってあげたらどうかしら? ね? それだったらそんなに気負うこともないでしょ?」
「…はぁ、」
「うん、じゃあお願いね。…あ、何なら今からなんてどう? ふたり揃ってるし、稲荷先生もいらっしゃるし…」
「…はぁ」





「あの、稲荷先生? 常磐くんが先生とお話したいと言っているんですが…」
 職員室まで連れてこられたふたりは、稲荷に電話をかけると言った山形を見ながら、ヒソヒソ話し始める。
「…なんで反抗しなかったわけ?」
「…けど、こーゆーめんどくさいこと先に終わらしちゃったほうがいいだろ? 今日だったら山形先生も同席してくれんじゃないの? 要はこのひとの疑いを晴らせばいい訳で…」
「…そっか、まー稲荷と対面とかゲロ吐きそうだけど、第三者いたらアイツだっけいやらしいことしてこないもんねぇ」
「…オマエもうちょっと言葉づかい直したほうが…」
「常磐くん、馨ちゃん? さっきから何を…」
「いいえ! なんでも!」
「稲荷先生がね、保健室にいらっしゃいって。さ、行きましょ」


 そう言って二人の前を揚揚と歩いてゆく山形の背中を見ながら、二人はなんとなく顔を見合わせて頷きあった。








会話9割…。