コン、コン
 年季の入った木製ドアは、軽いノックでさえがしゃがしゃと音を立てる。


「はい、どうぞ?」
 ドアの向こうからその声を聞いただけで、どくんとひとつ、鼓動が大きく響いた。
 憧れのひとはすぐそばに。
 高鳴る胸をおさえつつ、ゆっくりとドアを開けた。

「…失礼、します」
 鼻につく薬品のにおいの奥に、白衣姿の背中が見える。
 長い髪をひとつに結んで、少しだけ開けた窓から入ってくる風に、それがなびくのがなんとも涼しげで。
 背中を見つめるだけでこんなにどきどきしているのに、

「どうしたのかな?」
「あの、ぼく…」

 あぁ、
 見られている、その瞳に。
 そう思っただけでなんだか、なんだかもう…。

バタンッ

 稲荷が振り向いた瞬間、その生徒は勢いよく倒れた。
「え!? ちょ、き、君、平気!?」
「すいませ…、」
「顔が真っ赤だ、ほら、ゆっくり起き上がろう、ベッドまですぐそこだから」
「せ…んせ…」
 本当はあまり好きじゃない薬のにおいも、この白衣に染み付いたものだけは別格だった。
 抱きかかえられるようにしてベッドまで運ばれる最中、思わず胸のあたりをきゅうとにぎりしめてしまった。
 今自分はいとしいひとの腕に抱かれているんだと、鼻がむずむずした。

「ほら、もう大丈夫だ」
「あ、りがとうございます…」
「君、学年とクラスと名前は?」
「い…1年A組、根岸透です…」
 







 就業のチャイムが鳴った教室では、いつものようにダッシュで駆けつけた馨が、だがいつもより必死な顔つきで義弘の腕を引っ張っていた。
「ねぇねぇ、今日は急いで帰りたい」
「じゃあお前ひとりで帰れよ」
「馨ちゃん、義弘の代わりに俺が一緒にか」
「(無視)…じゃあいい」
 馨が諦めるとはどれほどのことかと、義弘も思わず振り返って問いかける。
「なんだよ、今日なんか用事でもあるのか?」
「今日の水戸黄門のゲストが加藤剛なの…」
「おま、シブイなー…ていうか水戸黄門なんか見てたっけ?」
「大岡越前は見てたじゃない! なによお兄ちゃん、馨が越前の大ファンだって知らないの!?」
「いや初耳…」
「いや奇遇だね馨ちゃん! 僕ねぇ、こう見えても結構時代劇とか好きでね、なかでも北町奉行所が大好きなんだよぉアハハ」
「…はぁ?」
 珍しく木更津を振り返った馨は、しかし目が血走っているのではと思われるほどの力みようで。
「えっ…(こわっ)」
「馨の越前をあんな桜吹雪の遊び人と一緒にしないで!!」
「えっ、あっあのっ」
「…木更津、越前は南町奉行所。北町奉行所は、遠山の金さん」
「あああああああああ」
 頭を抱えて膝をついてしゃがみこみそうな木更津に、ふんっと鼻息を荒げながら、もはや義弘に笑顔を向けるのも忘れて馨は2年C組の教室を後にした。
「…馨ちゃん、時代劇好きなんだ」
「好き…と言うか。あいつじいちゃん子だったからな。一緒にずっと見てたから」
 自分も何となく一緒に見てはいたけれど、馨がそれほど熱心になっていたと知ったは…。なんとなく頬を掻いた。
 しばらくぼうっと虚空を見つめていたような木更津が、突然かばんを手に取って立ち上がった。
「悪いけど、俺も今日急いで帰るわ」
「は?」
「そいでダッシュで帰って、水戸黄門見るわ!」
「…あ、そ」
 熱心なことだ、とひとごとのように思った。
 しかしこれで保険医さえ切り抜けられれば、今日は久しぶりに平和に過ごせる。悪友の木更津には断られてしまったが、それでもひとりでのんびり過ごせるのならば、普通の男子高校生の普通の放課後が送れると言うもの!!
 そう思うと自然と心は弾む。このとき義弘は、ひとりが楽しいと言うことを喜ぶことが、悲しいことだとは気付いていない。
 よし何をしてやろうと思いを巡らせ始めたとき、声をかけられた。
「常盤くん」
 担任の山形みさとだった。カウンセリングの一件から、どうも稲荷信者の匂いがするようでならない。まさかと嫌な予感が頭をよぎる。
「もう帰るの?」
「え、まぁ…。今日はあとは何もないので」
「だったら、ちょっと保健室に行ってもらえないかしら」
「ほ、けんしつ!? すいませんちょっとそれは…」
 あまりにも突拍子の無い山形の頼みに、思わず目を見開いて後ずさってしまった。
 やはり感じていた稲荷信者の気配ははずれてはいなかったか。嬉しくはない予感が的中。
「稲荷先生がやってらしたカウンセリング、あったじゃない?生徒たちにはとても好評だったんだけど、連日の長蛇の列を見た教頭先生から注意を受けたらしくて…、学業に影響するだとかどうとか」
「はぁ…」
「生徒たちのことを思ってのことなのに…。きっと稲荷先生も胸を痛めていらっしゃるんじゃないかしら」
 山形が何を言わんとしているのか、義弘はぼんやりとわかってきたような気がした。しかし想像するのも嫌だった。
「常盤くんだってあの日、稲荷せんせいとはじっくりお話したのよね?」
「えっと…まぁ(馨が)」
「だったら、常盤くんからお礼の言葉をかけてあげたら、きっと稲荷先生も励まされると思うの」
 ああ、やっぱり…と思わず頭を抱えそうになった。どう断ろう、目を泳がせながら言い訳を考え始めようとしたとき、ぶらさがっていた両手を急にがっちり掴まれた。
「ねえお願いよ常盤くん」
「…はぁ」
 なんだってここまでせつない瞳で担任からお願いされなければならないのか。
 結局言い訳を考えることもできず、中途半端にYESの返事をしてしまうのだった。
(そう簡単にはいかないよな)
 本当に!?と喜び笑顔の山形を見ながら、苦笑いとため息が、連続してこぼれた。






「顔色が悪いな。1年A組の根岸くん、だっけ」
「はい、すみません…」
 稲荷に支えられながらやっとのことでベッドまで辿り着いた根岸をそのまま横たわらせると、もう一度クラスと名前を確認しながら名簿にそれらを記入した。症状の欄はとりあえず顔色にだけチェックを入れておいた。
「謝ることはないさ。これで授業は終わったし、おうちの方に連絡して迎えにでも来てもらおうか?」
「いえ、もうしばらくここにいていいでしょうか。落ち着いたらちゃんと帰れます」
「そうかい? だったら―――…」
 保健室を閉める時間を答えようと時計を見ると、稲荷は持っていた名簿を落とすほどの勢いで立ち上がる。
「っ、いけない! ちょっと出てくるけどいいかな?!」
「どうかしたんですか?」
「え、あっと…(まさか常盤くんの帰宅時間だから口説きに行きたいなんて言えない)」
「先生…!」
 まだ重たい身体をゆっくり起き上がらせ、根岸が弱い声で、だけれどしっかりと呼びかける。
 言い訳づくりのために目を泳がせていた稲荷が再び根岸に視線を合わせると、白衣をぎゅうと握りしめられた。不安そうな瞳で見上げられ、思わず理性を失いそうになる。
(い、いただいてしまいたい…)
 ごくり、と唾を飲み込む。


「…そばに、いてください」






 ふたりが保健室のある廊下までやってきたところで、ふと山形が左手首の腕時計を気にした。
「あ、いけない。これから会議があるんだわ」
「え!? 先生一緒に来ないんですか!?」
 言ってから、語尾が若干跳ね上がってしまったことに気付く。それなら逃げられる、と思ったことがあからさまに喜びになって出てしまった。それに気付いたかどうかはわからないが、山形がしっかりと釘を刺す。
「あとで稲荷先生に伺うからね。ちゃんとお礼を言わなきゃダメよ」
「…ハイ」
 やはりそう甘くは行かないかと。
「ほら、早く行って。時々振り返りながらちゃんと保健室に入るの見てるから
「(ぬかりねェ!!!)






「…根岸くん、大丈夫だからゆっくり横になって」
「先生、ぼく…」
「何も言わなくていいよ、大丈夫だから」
 迎え入れはいつでも可能だ、そう示すかのように稲荷の目をしっかりと見つめた。
 そしてそれに応えるかのように、稲荷はそっとその白い肌に手を伸ばす。少し熱く感じるのは、体調のせいだけではないかもしれない。
 根岸がそうっとまぶたを下ろした。ゆっくりと顔を近づけていく。得ようとしているものはあと数センチで簡単に手に入る。
(ああ、常盤くんもこう素直になってくれれば…、)
 そこで稲荷ははっとして手を止めた。


「と、常盤くん忘れてた!!」


 すると、その言葉を聞くや否や、まるで音が聞こえてきやしないかと言う勢いで根岸の目が開かれた。
「常盤…?」
「ご、ごめ、ちょっと行ってく、」
「…先生」
 そう言ってゆっくり起き上がる根岸から、ここから去ることは出来ないであろうと、稲荷は感じた。

「え、あの…」
「先生、行かないでください」
「いやあの、」
 さきほどとは打って変わって強い口調の根岸に戸惑っていると、業を煮やしたような根岸がその腕を引き寄せるようにがっしりと捕まえた。
「先生!」
「ちょ、待っ…」
 バランスを崩し稲荷がベッドに倒れこむ。次の瞬間、稲荷は自身のとんでもない状態に気が付く。

「失礼しまー…」
 本当にチラチラと振り返り確かめている山形。職員室へ向かうための階段を1段上ったところで、しつこくこちらを見つめている。あの様子では、本当に入るまで見張っているのだろう。
 観念したようにノックもせずガラガラと戸を空けると、悲鳴とともに目を疑うような光景が飛び込んできた。
「うわああああああああああん助けてえええええええ!!!」
「え、え!?」
 保健室のベッドでは、助けを求める稲荷を馬乗りにする、男子生徒の姿が。
「と、常盤くんっ…!!! 僕の危険を察知して助けに来てくれたんだね!!」
「え、いや、あの…お、お邪魔しました…?」
「ギャー!! 違う、違うんだよ常盤くん、助けてーーーー!犯されるーーー!!」
 そのとき、じたばたと暴れる稲荷を見下ろした根岸から、チッと言う舌打ちが聞こえたとか聞こえなかったとか。
 と言うかその舌打ちが聞こえた稲荷は、急に背筋が凍るような思いがしておとなしくなった。
 根岸はそのまま稲荷とベッドから降りると、入り口で呆然と立ち尽くしたままでいる義弘にゆっくりと近づいていき、髪を掻き上げながら口を開いた。
「…あんたが常盤義弘?」
「え? あ、まあ…」
 女の子と見間違えそうなほどの線の細さと、端整な顔立ち。その気はない義弘ですら見とれていると、次の瞬間バッと胸倉を掴まれた。
「オレの先生をたぶらかすのはやめてくれないか」
 思わぬことに、まったく同じタイミングで、義弘と稲荷は目を丸くした。



(05/10/10 up)


実は結構似たもの同士・よっしーといなりん。
基本的に保険医は優先順位でよっしーが一番なだけで、なんでもカモーンです。よっしーと無関係なときならきっとさらっといただいてしまうでしょう(推量)。
ところで2年4ヶ月ぶりの更新ですがそれが何か?体育の日にわたし何書いてるんだ…。