俺の想い出格納庫


最終更新日:2008.09.23

豊羽鉱山の雄姿
 

 北海道札幌市。言うまでも無く、北海道の中心都市である。
 その中心部から南西へ約40km。「札幌の奥座敷」と呼ばれる定山渓温泉から更に山奥へと突き進むと、其処に豊羽鉱山がある。

 豊羽鉱山は、鉱量枯渇などの理由で2006年3月31日を以て閉山(操業休止は同年2月末)。そこで俺(-_-)y-~は、国内でも少数となった金属鉱山である豊羽鉱山の雄姿を見届けようと、操業休止前年の2005年9月某日、カメラ片手に単身で乗り込んだのである。

 そしてその後も、時間を見つけては豊羽へ出向き、その雄姿を撮影し続けてる。



 ※注意
  豊羽鉱山へ通じる道路は、損傷が激しい場合があります。
  仮に改修されてても、今後も安全である保証はありません。
  訪問される方は、あくまでも自己責任で御願いいたします。


旧無意根山荘へ通じる道路(2008年5月)

 舗装面が著しく損傷し、大きな段差を生じてる道路(旧無意根山荘へ通じる)。
 2008年9月に訪問した時は、改修済みであった。


道道京極定山渓線(2008年5月)

 現在は改修されてる道道京極定山渓線。しかし、2007年8月は大変危険な状態であった。

道道京極定山渓線(2007年8月)



豊羽鉱山 全景(2005年9月)

 観光ルートとして交通量の多い道道小樽定山渓線からひっそりと分岐している道道京極定山渓線を進むと、突如として鉱山の雄姿が眼に飛び込んでくる。それまでの沿線の景色からは想像も付かない程の大規模な施設群は、見る者も思わず息を呑む程の迫力である。


豊羽鉱山 全景(2005年12月)

 こちらは、ほぼ同じ位置から2005年12月某日に撮影した物。何処かもの悲しさが漂う。


豊羽鉱山 全景(2007年8月)

 2007年8月撮影。樹木の成長により、本社社屋等が陰に隠れてしまっている。
 定点観測が困難になってきた模様。


豊羽鉱山 全景(2008年5月)

 2008年5月撮影。草葉が生い茂る前であれば、まだまだ定点観測が可能。


豊羽鉱山 近景(2005年9月)

 中央の四角い建物が、豊羽鉱山株式会社本社社屋。道道京極定山渓線から案内板に従って坂道(丁度軽自動車が走ってる道)を登ると、建物正面に出る。向かって左側が正面玄関。向かって右側には豊羽本山簡易郵便局が入っていた。

 左側の三角屋根の建物は、労働組合事務所。その脇に社員及び来客用の駐車場がある。晩年は社員の大半が鉱山敷地外から通勤してたらしく、自家用車が多数駐車されてた。

 道道と坂道は鋭角で交わっており、本社から道道へ戻る際は左折禁止となっている。なので鉱山方面へ左折したい車は、一旦右折して定山渓方面へ向かい、やや先にある転回所で方向転換をして鉱山方面へ向かう事となる。当然、転回所には駐車禁止の案内看板が立てられている。

 本社社屋の奥に見える丸い屋根の建物は、選鉱場。この日は、鉱石を積んだダンプトラックが頻繁に出入りしていた。豊羽鉱山は主に亜鉛や鉛を産出しているが、その一方で世界有数のインジウム産出量を誇る事で有名であった。


豊羽鉱山 近景(2006年7月)

 ほぼ同じ位置から、操業休止後の2006年7月に撮影。この段階では、本社社屋や廃水処理棟は別にしても、労働組合事務所や選鉱場等の解体は進んでいないようである。


豊羽鉱山 社屋(2006年8月)

 本社社屋を、丘の上から眺める。此の手の撮影は、草木が生い茂る前の春か、草木が枯れた後の秋にするべきだ…と反省。



豊羽鉱山 標語(2005年9月)

 道道の脇に立てられてる安全標語(?)。鉱山に限らず、どんな仕事にでも通用しそうな、素晴らしい標語である。


豊羽鉱山 標語(2006年8月)

 安全標語のその後と、施設解体の様子。よく見ると、字体が変わっている。


豊羽鉱山 標語(2007年8月)

 2007年8月の様子。「豊羽鉱山」と書かれた部分が崩壊してしまっている。


じょうてつバス看板(2005年9月)

 安全標語の脇に残る、じょうてつバスの看板。嘗て此の地にじょうてつバスが乗り入れていた事を証明する物。最晩年は一日1.5往復と、寂しい運行数だったとか。方向幕式のじょうてつバスには、今でも「定山渓−豊羽元山」の駒が残ってるとか。



豊羽鉱山 案内図(2005年9月)

 鉱山地域の案内図。以前は、道道から本社へ分岐する交差点の近くに立てられていたと思われる(中央下部の、消えかかった「現在地」と矢印の辺り?)が、現在は右側中段の赤い矢印の辺りに立っている。最後まで残存した唯一の鉱山住宅「中央A棟」へは、車では此処から通じていた。

 嘗て多くの関係者が生活した周辺一帯は、本山地区と呼ばれる。何故バス停留所名が「豊羽”元山”」となっていたのかは不明。


豊羽鉱山 倒壊した案内図(2006年7月)

 2006年7月に再訪した時は、この案内図は倒壊したまま放置されてた。こうして、嘗ては5,000人以上が暮らしてたとされる豊羽が少しずつ消えゆくのだろう。


豊羽鉱山 案内図跡地(2007年8月)

 2007年8月には、倒壊した看板は既に撤去されていた。代わりという訳ではないが、工事用車両に向けた案内看板が設置されていた。



豊羽小中学校を崖下から見上げる(2005年9月)

 現在は廃校となっている札幌市立豊羽小中学校の校舎を崖下から見上げる。校舎へと通じる道路は、「立入禁止 警備中」と書かれた紙と単管パイプにて厳重に封鎖されていた。

 これは、あくまでも俺(-_-)y-~の個人的主観ですが、仰々しい警告文が書かれてる場所程、警備はヌルい事が多いです(笑)。例えるならば、小さい個人商店の壁に貼られた、手書きで「万引きするな!防犯カメラが撮ってるぞ」と書かれた紙…と云ったトコロでしょうか。


豊羽小中学校警備 1(2006年7月)

豊羽小中学校警備 2(2006年7月)

 厳重な警備の、その後の醜態。「センサー有」の殴り書きが涙を誘う。

 大阪・道頓堀には「飛び込み禁止」の看板が立てられてるが、それを見た大阪市民は「ワシらはこれを”御自由にどうぞ”と読むんや」と茶化す。そんな大阪市民がこの醜態を目にしたら、一体どんな反応を示すのだろうか?


豊羽小中学校を眺める(2006年7月)

 別の角度から豊羽小中学校を眺める。なかなかの規模を誇る校舎である。
 因みに、撮影場所は↓此処。

豊羽鉱山 ゲート(2006年7月)

豊羽鉱山 機械群(2006年7月)

 豊羽小中学校への分岐点を超えて少し進むと、こんな場所に出る。鉱山の激務を終え、静かに身体を休める機械たち。もう二度と働く事は無いのだろう。

 因みに、此処の直前にはこんな看板がある。

豊羽鉱山 ゲート予告看板(2006年7月)

 登山愛好家のサイトによると、以前はゲートよりも更に先にある選鉱場まで車を乗り入れる事が出来たらしい(鉱山関係者の御厚意による黙認との事)。つまり、このゲートと看板は、操業休止後に設置されたものと推測される。看板は豊羽鉱山株式会社名義になってるが、ゲートは日鉱探開株式会社の名義になっていた。



 作業中だったので撮影しなかったが、やはり日鉱探開株式会社の発注による白井川護岸の復旧工事も行われてた。ゲート設置や護岸復旧が既に行われてるのを見ると、建物や施設の解体は後年次に廻されてるのだろう。


豊羽鉱山 東系流送ポンプ室(2006年7月)

 護岸復旧工事の工事標識によると、「ポンプ室等解体工事」とある。そしてこれが工事看板の向かい側にあるポンプ室。これが解体されるポンプ室?
 しかし、このポンプ室の真横には廃水処理施設が並ぶ。操業休止後も当面の間は廃水処理を続けるはずなので、このポンプ室が廃水処理施設用だとすると、解体はまだ先と思われるのだが…。

豊羽鉱山 廃水処理施設 1(2006年7月)

豊羽鉱山 廃水処理施設 2(2006年7月)

豊羽鉱山 廃水処理施設 3(2006年7月)

 しかし、廃水処理施設が稼働してる様子は無かった。素人判断で恐縮だが、施設全体の劣化も進行してるように見える。


豊羽鉱山 廃水処理施設跡(2007年8月)

 しかし、2007年8月には跡形も無く解体されていた。


豊羽鉱山 廃水処理施設跡(2008年5月)

豊羽鉱山 廃水処理施設跡(2008年5月)

 2008年5月の様子。状況に変化はないが、ダムのような物が構築されている。


 後志管内仁木町にあった大江鉱山の廃水処理施設も、閉山後(と云っても15年以上経った後だが)に建て替えられていたので、豊羽鉱山でも同様の施設更新が行われるのかも知れない。尤も、真実を知る術は無いのだが。

大江鉱山 廃水処理施設(2007年1月)

(参考)大江鉱山の廃水処理施設。


大江鉱山 事務所跡地(2007年1月)

(参考)大江鉱山の事務所跡地。
 手前に残る建物と比べると、廃水処理施設が如何に真新しいかが解る。



 工事と言えば、捨石堆積場でも工事が行われている。
 入口は豊羽鉱山本山地区の少し手前。もちろん、道道沿いの入口より先は立入禁止となっている。地図で見ると、堆積場はかなり奥まった場所にある。


豊羽鉱山 おしどり沢看板(2006年7月)

豊羽鉱山 おしどり沢ゲート(2006年7月)

 立入禁止を示す看板とゲート。こちらは相当以前から設置されていたらしく、劣化が激しい。ゲートの奥には、「右側通行」の看板が立てられている。


豊羽鉱山 番犬(2006年8月)

 此の辺りをウロウロしてたイヌ。多分、豊羽鉱山お抱えの番犬。最初は人懐っこそうな態度を取るが、餌をくれない人間だと認識した途端噛み付いてくるので注意。



無意根山荘(2005年9月)

 札幌市が管理していた、無意根山荘。嘗て登山者の拠点として賑わっていたであろう山荘は、現在は見るも無惨な姿となって其処に佇んでいた。向かいにはスキー場の跡地があり、リフトの鉄塔が朽ち果てた状態で残っている。


無意根山荘(2006年7月)

 2006年7月の状態。以前より倒壊が進んでるように見受けられる。


無意根山荘(2007年8月)

 2007年8月。無意根山荘は既に取り壊され、立入禁止の措置が執られていた。
 以前は山荘前が登山者の駐車場となっていたが、立入禁止となったため、このバリケードの左手前が新たな駐車場として使われているようである。

登山口駐車場(2007年8月)



NHK No.37 施工 全日本テレビサービス(株)(2008年5月)

 2008年5月。立入禁止バリケードの位置が若干奥へ移動しており、旧無意根山荘前まで再び行けるようになった。この写真は、その時に撮った物。
 写真では小さくて読み取れないが、「NHK No.37 施工 全日本テレビサービス(株)」と書かれている。全日本テレビサービス株式会社とは、現在の株式会社NHKアイテック。よって、此の施設はテレビ難視聴対策施設と思われる。このことから、本山地区では少なくともNHK地上波は視聴可能であったのだろう。


スキー場のリフト(2008年5月)

スキー場のリフト(2008年5月)

 スキー場のリフト。同じく2008年5月に撮影。


 無意根山荘の手前には、豊羽鉱山の診療所や消防本部、プールなどが並んでいたはずだが、現在は封鎖若しくは取り壊されてる。火災が発生したら、一体どうするのだろうか?


豊羽鉱山 診療所(2006年7月)

豊羽鉱山 診療所(2006年8月)

豊羽鉱山 診療所(2007年8月)

 無意根山荘手前の建物(診療所)。上は建物斜め向かいから、中は崖下から、下は壁際からそれぞれ撮影。「積雪限界20m」の文字が見える。20mまでは大丈夫なのか??見た目だけなら診療所のような気もするが、今や判断材料は何処にも残されていない。



豊羽鉱山 診療所・無意根山荘・リフト跡(2008年9月)

 2008年9月訪問時の様子。
 残念ながら診療所もリフトも、全て解体・撤去されていた。



豊羽鉱山 鉱山住宅 中央A棟(2008年5月)

 最後まで現存した鉱山住宅「中央A棟」。今迄幾度と無く草木に阻まれて撮影出来なかったが、草木が生い茂る前の2008年5月、遂に撮影に成功。


豊羽鉱山 鉱山住宅 中央A棟(2008年5月)

 望遠(?)撮影。「中央」の文字が一際鮮やかに見える。


豊羽鉱山 鉱山住宅 中央A棟(2008年5月)

 同じく望遠(?)撮影。僅か二年前まで居住者が居たとは思えない程の荒廃具合。


豊羽鉱山 鉱山住宅 中央A棟跡(2008年9月)

 2008年9月の様子。
 こちらも、残念ながら解体。これで鉱山住宅は全て姿を消す事に。



豊羽鉱山 立入禁止看板(2007年8月)

 無意根山荘や診療所と思われる建物の近くからは、山神社や鉱山住宅が多数建ち並んでた地域へと通じる道路がある。以前はバリケードが設置されていただけであったが、いつの間にか立入禁止看板が新たに設置されていた。不法侵入者が後を絶たないのが原因だとしたら、大変悲しい事である。

豊羽鉱山 立入禁止看板(2008年5月)

 2008年5月、同じ場所を撮影。バリケードは仮設の物から固定式に変わっていた。やはり不法侵入者が?



豊羽鉱山 寮(2006年7月)

 先程のポンプ場前から見上げると見える建物。寄せて頂いた情報に依ると、寮母さんが居る寮だったとの事。

豊羽鉱山 寮(2008年5月)

 2008年5月の様子。ガラス窓が一部割れている。
 そしてこの独身寮も、2008年9月の訪問時には解体されていた。


 案内図を見ると、現存する建物の他にも体育館やストアー、神社と云った、嘗ての隆盛を彷彿とさせる建物の存在を示している。果たして、これらの建物はどうなっているのだろうか?

 居ても立っても居られなくなった俺(-_-)y-~は、最初の訪問時に、失礼を承知で社員の方に尋ねてみた。操業中であり且つ来春の操業休止を前にした多忙な時に、突然やって来ては「写真を撮らせろ」などと言い出す失礼極まりない不審人物・俺(-_-)y-~に対して、社員の方は忙しい時間を割いて親切に説明して下さった。


 「ストアーや鉱山住宅等の建物は全て取り壊され、残っておりません」


 応対して下さった社員の方、大変有難う御座いました。普通なら門前払いされても可笑しくない訪問者に対して、これ程までに親切にして下さった御恩は忘れません。


 本社玄関ロビーに飾られた航空写真(1982年撮影)には、案内図に書かれた建物の全てが写っていた。頂いた親切とその写真を胸に焼き付け、俺(-_-)y-~は帰路に就いた。


 操業休止後も排水処理等の業務が残るのが、鉱山の宿命。次に来る時は、辛うじて残っていた一棟の鉱山住宅も、排水処理施設を除いた鉱山施設も、全て無くなっているのだろうか?

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