どんちゃんの現実

御案内マガジンどんちゃんの現実旧マガジン掲示板

このページは、発行済の旧マガジンの内容について
そのときの「環境・状況・心境」について説明します。

発行された マガジンと、この 「どんちゃんの現実」 を
重ね合わせることで読者の皆さんに必要な【何か】が
発見できるかも しれませんね!! (2004.5.28 更新)

これは
旧マガジン『生きて・活かして・逝きましょう!』
つまり……【実践編・体験版】ではない
古いものです。

このページは、新マガジンの発刊のため修正しました。


配信された旧マガジンの各号と、
ここの、
どんちゃんの現実とを並べて、
重ね合わせるように読んで頂けると嬉しいです。


20号(これは旧マガジンで、別なウインドウが開きます)

どんちゃんの現実−20 (2004.5.22)

旅での疲れを、最近、特に感じるようになりました。

しかし、個人的な対話やオフ会のときは、
それほど疲れを感じません。
お互いにエネルギーが回っているからですね。

疲れは、肉体的な疲れと、接する皆さんの内の想いを、
こちらに取り込むことによる疲れの、この2つです。

しかし、想いの取り込みは、
相手の人が解放されていくに従って、こちらも楽になりますから、
これは、その場で、ほとんど解消されてしまいます。

しかし、肉体の疲れは、どうにもなりません!(笑)

しかしこれは、
とにかく休養することでしか解消されませんからね!(笑)

19号

どんちゃんの現実−19 (2004.3.12)

無理な行為が原因となって、期待はずれの結果となります。

何もしないで、流れに任せておいた、その結果は、
どんな結果でも自然に受け入れることができます。
つまり、「運命」 というシナリオのとおりになります。

私達は、自然の動物のように、
ただ、ひたすら 「自然の流れ」 に任せるだけで十分なんです。

不自然に仕組まれた人間世界でも、
自然の法則・宇宙の法則の中にあって、
不自然ながらも、自然に動いているようですからね!

18号

どんちゃんの現実−18 (2004.1.18)

人との縁とは、不思議なものです。

今回の、内との対話の旅で、
沖縄や各地を一緒に回る、イギリスの友人マイケルは、
我が家の次女が、イギリスにボランティアとして 1年間滞在して
知的障害児の施設で働いていたとき知り合いました。
彼は、その施設の職員でした。

それが縁となり、彼は2回目の来日となります。
今回もまた、彼の個性が活かされたものになるでしょう。

想いの世界は、世界中の人々に伝わっています。

全然知らない外国の人にでも、
今の、あなたの気持ちは伝わっています。

ただ、伝えあっている、という想いが双方に無く、
焦点が合わせられないために、
「伝わっている」 と感じないだけなんです。

焦点をいつでも合わせられる身近な人たち同士で、
伝え合っていないはずがありません。

17号

どんちゃんの現実−17 (2003.7.1)

活かされる人、活かせない人…。

でも、何も活かされない、という人はいません。
しかし、現実では、私達はいつも、

「活かされない」 という感覚を持っています。

私達の、活かし切れないで生きている、という感覚は、
素直になって、自分の内の想いに沿っていないからです。

「内には、自分の本当の姿と想いがある」 と思うだけでも、
少しだけでも、表は内の方向に向くことができます。

悩み、苦しみ、矛盾は、内と表との落差によって起こります。
当然、肉体の痛みや苦しみは、その落差の結果として、
私達に、その状況を知らせてくれています。

16号

♪どんちゃんの現実−16
(2003.2.13)

いつでも、私達は 完全な行動をしています。
いつでも、私達は 完璧です。

それは、私達は…

必要なことを、必要なときに、必要に応じてやっているからです。

…そう感じていないだけです…

15号

どんちゃんの現実−15 (2002.11.5)

いつもの日常での出来事が、
本当に必要なものかどうかを思案することがよくあります。

でも、「必要なものしか現れない」 という観点から
それに従順に従うと、その意味がわかってきます。

しかし、必要なことではあっても、必要としたくなければ、
それは不必要なものとしても構いません。
それは、必要としない必要があったわけです。
…そのときは…

14号

どんちゃんの現実−14 (2002.9.12)

表の想いが、もし正しいものなら
世の中は、もっと明るいものに、なっているはずです。

内の想いには、表の世界を暗くする意志はありません。

しかし、表では、地上の様々な歪んだ想いを受けているため
誰もが不調和な想いを抱いてしまい、
お互いに暗い世界を作り上げています。

内からの感覚に、ただただ素直になるだけでいいんです。
それが、全ての問題の、唯一の解決策のようです。

13号

どんちゃんの現実−13 (2002.6.30)

どん、から、どんちゃんに改名しました。

生きるためには工夫が必要ですが
活かすには、何もしなくていいんです。
なぜなら、生きるだけで 「活かして」 いるからです。

「生きる」 その瞬間が、その時を活かしています。
ただ生きる、それだけでいいんです。

12号

どんの現実−12 (2002.2.15)

この頃までは、どんちゃん、ではなく、
自分のことを、「どん」 と呼んでいました。


動かなくても、動いている。
動いていても、その意味がわからない。
そんな状態でも、何一つ、無駄がないようです。

11号

どんの現実−11 (2001.12.19)

感じられるものは、その必要があって感じています。
感じられないことには、それなりの理由があります。

私達の世界では、必要なことが必要に応じて与えられ
不必要なものは、必要とされない事情により与えられません。

どんの周辺でも、これらの原則は守られています。

それは、本人にもわからない形をとっているため
いつ、どのように感じられるのか
必要なものが与えられるのか
それは、まるでわかりません。

しかし、そういう 「わからない」 状態が
内の想いを受け取るのに、とても好都合なのです。

わからないという現実が
自然に内の想いを感じる方向へと
導き出すことになるからです。

私達は、不必要なものを求めて
必要なものを見過ごそうとしているようです。

10号

どんの現実−10 (2001.11.14)

我々が目指すものは 「真理」 ではありません。
真理は 「宇宙の法則・神の意思」 の地上での法則のことです。
我々が、その法則を、この地上で真理と感じているだけです。

内から感じる 「適正なもの」 を、地上で表現することが
「それぞれの人の真理に沿った行為」 ということになります。

必要なことは、必要な時に、必要に応じて現われます。
それは、計画をすることによって現われるものではなく
願望によって現実のものになったものでもありません。

必要なことを 「計画という形」 として表に現したに過ぎません。
未来に必要なものを 「願望という形」 として捉えたに過ぎません。

我々が目指すものは何もありません。
「内には全てが用意」 されています。
それを 「ただ感じる」 だけでいいのです。

9号

どんの現実−9 (2001.10.9)

対話は、主に口と耳を使って行われています。
「内と内との対話」 を、表の肉体でも感じるために、
わざわざ、そうしています。

内同士では完璧に分かっていても、
内から離れてしまった表では、
それを感じることができないため、
「言葉」 で伝えあっているわけです。

言葉が不完全なものであることを
我々はよく知っています。

幼児は、言葉がなくても 「完璧」 な動きをします。
彼らは、言葉を必要としていません。

我々が言葉を必要とすればするほど、
内から遠ざかることになります。

8号

どんの現実−8 (2001.9.12)

どんは、体の移動によって、
その度に新しい体験をしています。

新しい体験で、新しい感覚を再発見しています。
人は皆、そういうことを繰り返すことによって、
お互いに勉強しあっています。

新しい体験から、新しいものが生まれます。
実は、生まれるのではなく、「再現」 されるのです。

私達は、元からあるものを表で感じるようになったとき、
「新しい発見」 と感じているだけです。

人との出会いによって、新しい発見をするのではなく、
すでにあったものを、ただ 「再現」 したに過ぎません。


7号

どんの現実−7 (2001.8.16)

体は、内の想いによって動いています。
想いがあって、体が動きます。

表で感じている想いは内側からきています。
しかし、その想いを素直に受け取れないため、
表の想いは、内とは違うものになってしまいます。

その表の想いが体を動かすことによって、
体は、その不調和な想いの違いを現すことになります。

私達に必要なのは、表と内の想いの統一です。
内の想いに、ただ素直になるだけで、
内と表は同じものになります。

体は、その一致を常に歓迎しています。

6号

どんの現実−6 (2001.3.12)

「内側には何があるのか?」

その内には、本来の自分が眠っています。

自分の内にある、その自分は、本当の自分です。
それは、決して迷わない、惑わされない完璧な自分です。

その自分の、その声を、表で感じ取ることが、
より適正な行動の元になります。

5号

どんの現実−5 (2001.2.21)

こんにちは!

今回からは、だいぶ雰囲気が変わります。
どんの想いを表面的なものに変えて、実用的な形にしました。

我々人間は、直接接することで、
お互いに理解することができます。

しかし、現実は、言葉や文字を介することで
「理解しあっている」 という 「錯覚状態」 にあります。

言葉は、現実には実に都合がよいものですが、
しかし、言葉だけでは、
気持ちがよく伝わらないというのも現実です。

これから、毎回のマガジンで、
このことについて、少しずつ伝えていきます。

内と内が通じるためには、言葉は最大の障害物であることを、
みなさんも実感するときが来るかと思います。

4号

どんの現実−4 (2000.11.27)

どんは、私達でもあります。
彼は私達でもあり、彼は私達の中にもいます。
どんと私達は、共通の意識の中にあって、
共通の想いを抱いているからです。

地上に肉体を持って、私達と共に生きる彼が、
私達の共通の意志を感じることは普通のことです。

今日は、どんと私達が、最初に伝えるべき、
一番重要な、地上での基本について表しました。

それは、本当の想いに近づき、表面でも、
その想いを表すことができる人間に変わることでした。

これが、私達が一番伝えたいことです。

私達は、どんの全てではなく、
彼が私達の全てでもなく、
私達と彼が、彼の全てです。

私達と 「どん」 は、共通の意識体として存在しています。

3号

どんの現実−3 (2000.10.30)

私達の世界では、現実は 「想いの世界」 でもあります。
地上では、想いの世界と現実は違っています。

しかし、その「想い」が、私達の世界に近づけば、
想いと現実が同じものとなります。

私達は、こちらの世界と地上の世界の二つを
同時に感じるということを幾度か話してきました。

しかし、皆さんの世界も、実は、全く同じです。
肉体があっても、霊にとっては私達と同じです。

しかし、こちらの世界、つまり、本人の霊の世界、
言いかえれば、「本来の自分」 については、
表面では、なかなか気がつくことができません。

誰もが、本当の自分を知りたがっています。
そして、いつも迷いながら生きています。

「迷い」 は、本当の自分を感じながらも、
その自分を拒否するために起こります。

感じるものを素直に受け取るだけで、
迷いは自然に消えていきます。
迷いの元は、本当の自分を遠ざけたことです。

私達の想いは、あなた (皆さん方一人一人) の
霊の想いでもあります。

2号

どんの現実−2 (2000.10.15)

今日の内容は、彼(どん) にとっては、
いつもの内容でしかなく、珍しい話ではありませんでした。
また、特に面白い話でもありませんでした。

地上に暮らす、肉体を持つ人間にとっては、
現実が一番の関心事ですから、現実の出来事、
特に、その本人に関わることが一番重要になります。

彼にとって、今、一番の関心事は・・・

どうしたら、この世界と、あの世の世界を
上手に説明することが出来るのか、

どうしたら、こちらから、あちらに行く時までの、
人間の不安や、不満、恐怖心を取り除くことができるのか…。

・・・ということです。

私達の世界は、肉体から離れた霊の意識の実感と、
地上で肉体を着ている霊の実感の、
その両方について明確な現実として感じることができます。

それは、彼が地上にいることで、
地上の肉体から得られる感覚が、
はっきりと伝わって来るからです。

私達にとっての現実は、こちらでの現実と、
彼を通じて感じる現実によって、
より深みのある現実になっています。


1号

この頃までは、どんちゃん、ではなく、
自分のことを、「どん」 と呼んでいました。


どんの現実−1 (2000.9.21)

今日から始まりました。
発信は、もう少し先ですが、用意はできました。

私達は、彼(どん) を通じて発信することは、
ずっと前より計画してきたことです。

その時期は、彼が納得するときが、
その時であることも決まっていました。

私達にとって、彼が感じる 「内なる感覚」 は、
私達の意志でもあり、彼の意志でもあります。

しかし、こうして伝える相手の人が、彼(どん) ですから、
私達は、彼が それを受け入れる時になって、
私達の意志を伝えることになります。

私達は彼であり、彼は私達でもあります。
私達の一部ではなく、私達自身が彼であり、
彼も、私達自身です。

伝える人は彼しかいません。
伝える人が 、彼ですから、
私達は彼の行動に合わせることになります。

彼は、私達に合わせてもいます。
私達と彼との関係は、そういったものです。

私達と彼は、見かけ上の位置の違いがあるだけです。
しかし、その位置は同一のところです。

位置の違いは、これを受け取る側での感覚でしかありません。
また、その位置と、これを受け取る側の位置とも同じです。
ただ、違うように感じるだけのことです。
位置は、全て同一です。

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