●印は、2003.1.10 更新部分です。
★印は、2000.1.25 更新部分です。
■印は、どんちゃんの背景からの話です。
●印は、どんちゃんの説明です。
●こんにちは! どんちゃん(表・表面意識)です。
今回、3年ぶりに、このページを更新することにしました。
前回の更新以後、時が経つにつれて、段々と自分の表でも
矛盾を感じてきました。
それは、内、つまり、背景の声(想い)を、こうして公表し、
みなさんに聞いてもらうことで…
「かえって混乱を招くことに…なるかもしれない…」
…という気がしてきたからです。
今回の更新は、不要な部分を思い切り削除して、
読みやすいように工夫をしながら修正しました。
特に新しく書き加えたところはありません。
★以下は、2000.1.25 更新部分です。
●説明・この時はまだ、どんちゃん、ではなく、どん
でした。
●ここからは、どんの背景の「私達」 からの話です。
■私達は、どんの背景です。
私達は、みなさんと同じ霊です。
みなさんが霊のように、私達も、どんも霊です。
つまり、我々人間は、皆が霊ということになります。
私達の声は、こうして、どんを通じて
みなさんに伝えられています。
しかし、これは特別な現象ではありません。
皆さん方が普段、日常で感じている自分は、
私達と同様な、「霊の集団」 としての共同体の自分なのです。
私達は、どんと同一の意識の元に、
同一の共同体として存在しています。
みなさん方においても、これは全く同様です。
少しだけ違うところがあるとすれば、それは…
聴覚というような感覚としての声としては聞こえてはいない。
ということだけです。
これから、どんを通じて話すことは、
誰もが十分に承知していることです。
そのため、特に注目するようなことは一つもありません。
注目する必要はありませんが、私達の意志を、
あらためて伝えることによって、みなさん方が、
より安定した気持ちで物事を考え行動できる。
そのための、お手伝いには、なるかもしれません。
■私達が、「知らない世界」 の話
これから話すことは、私達の世界でのことです。
私達以外の世界について、私達は何も知りません。
私達が確認できない他の世界のことを、ここでは、
「知らない世界」 と呼ぶことにします。
知らない世界、それは、私達にとって憧れの世界でもあります。
それは、どんや、みなさん方が、こちらの世界に憧れるのと
似ています。似ていると言うよりは、同じ人間ですから、
私達も同じ、「自然な人間の感情」 を持っているわけです。
私達が、こうして、どんと通じるように、私達の世界へも、
知らない世界からの「知らせ」 が入ってきます。
それは、どれも大変に興味深いものばかりです。
この感覚は、皆さん方が、こうして私達の話を
興味を持って聞いている姿と全く同じものです。
知らない世界では、実に様々な面白いことがあります。
今日は、その中から二つの出来事を話すことにします。
一つ目の話です。
私達はいつも、自分達が感じる感覚の他にも、
たくさんの感覚が存在していると思っています。
もし、全てを知ることが出来るのなら、
全ての感覚が備わっていなければならないはずです。
すると…
私達が知らないことばかり、という現実の状態は、
知らない世界、を知る感覚が無い。
…ということになります。
ここから、私達の体験話です。
ある日のことでした。
私達という、「集合意識体」 にとっては、この日は特別な日でした。
それは、私達の意識体に新しく入って来る「個の意識」、つまり、
個人の霊が来る日だったからです。
彼は、私達とは同じ意識を持つ同様な霊です。
私達は、彼が来るのを待っていました。
その時の、ソワソワ としている気持ちは、みなさんが
恋人を待っているときの、その感じによく似ています。
彼は、私達と同じような感覚の人ですから、
彼が来ることは自然のうちに、こちらにも伝わっていました。
そして、その時が来ました。
しかし、彼は私達の集合体に入ろうとしません。
彼と私達との間には意識が合わないところがあることに、
全員がすぐに気がつきました。
彼は、まだ地上の意識を引きずっていたからでした。
彼のその意識は肉体を持っていた時のものです。
しかし、それも段々と薄くなり、私達と同化する時が来ました。
しかし彼は、意識の上で、こう言いました。
これは、地上でいうところの「言葉」 にあたります。
「ちょっと疑問があります」
これは意識上のものですから、地上の感覚では無言の言葉の
テレパシーのようなものです。ですから、そういう言葉を発した
わけではありません。「そういう明確な意思が伝わって来た」
ということです。
「僕は、みなさん方と違うような気がします。
それは、みなさんのように、一体化した経験がないのです。
だから、一体化できる自信がありません」
私達は大笑いしてしまいました。
それというのは、彼が地上でいた時に、すでに我々と
一体化していたことに彼自身が気がついていたのに、
それが感じられなくなっていたからでした。
彼は、彼の地上時代で、すでに我々と一体化していたことは
十分に承知していました。しかしそれは、より物質的な肉体を
持っていた上での感覚ですから、地上の肉体を脱いだ今とは
違う感覚のものだったのです。
彼は、そのことに気がついて、少しずつですが、我々の意識体と
同化することが出来ました。同化行為が終われば、少し前の
彼の感覚は、単なる記憶としてあるだけで、私達と同じような
感覚に戻ることができました。
彼が同化行為に馴れて、すっかり落ち着いたとき、
私達も、ようやく落ち着くことが出来ました。
それは、彼の意識は私達の意識でもあるからです。
この落ち着いた瞬間から、
知らない世界の声が聞こえ始めました。
聞こえるというのは、地上での聴覚ですから、
こちらの世界の感覚では、「内からの感覚」
そのものです。
次のような内容でした。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
同化は自然のものです。
自然は神(宇宙の意識) そのものであり、
私達人間の自然な一つの出来事に過ぎません。
みなさんは、意図的に同化したと感じていますが、
そう感じるのは、自然の出来事に躊躇して、
ためらっていたからです。
ためらいが無ければ、
単なる、一つの自然な出来事として
素直に受入れられたはずです。
受入れは、人間を含めた全てのものにある意識の一つです。
人は皆、こうした行為によって、自分とは異質なものを感じ、
それを理解することが出来ます。
受入行為は、神(宇宙の意思) の行為であり、
その行為を自然に素直にできる人間は、
神・宇宙の意思そのものと言えます。
我々人間の行為は、自然に決まってきます。
それは、神の意思であり、みなさんの意思でもあるからです。
我々人間には、受け入れ行為と共に、出て行く行為もあります。
それも自然な行為であって、それも神の意思、宇宙の意思です。
つまり、みなさんの意思なのです。
こうして、みなさんが聞いている話は、
みなさん方が言う、知らない世界からの声ですが、
この声を聞くのも、極自然な受入行為の一つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
私達は、この話を聞いて十分に納得できました。
「受入れる行為」、「出て行く行為」
これは、両方共に自然なもので、
私達と、みなさんとの間でも同様だと思いました。
もちろん、地上での人間の相互関係でも同じことです。
何も特別なものではありません。
普通の、日常の出来事でしかありません。
その、「普通のこと」 が自然の行為ですから…。
我々は、普通に生きる、ただそれだけで十分。
…ということになります。
二つ目の話です。
私達は、いつものように、
いつものような日常生活をしていました。
しかし、ほんの少しだけですが変わったことがありました。
それは特に変わったものではなく、
日常生活では普通に起きる、
単なる出来事の一つに過ぎないものでした。
それは、私達の仲間の一人が、
一時的に集合体から離れて行ったことです。
しかし、これはよくあることです。地上でもよくあります。
こういう一時的な、「場を離れる行為」 が、
大きな収穫になることは、地上でも、こちらでも同じです。
その人が、集合体の意識から個の意識に戻り、
個の意識として、集合体の外の何かを感じ、
それを受け入れて戻るということは、
集合体の誰もが承知していることでした。
ところが、その人は、私達の集合体の意識としての
予想期間を過ぎても戻って来ません。
そのため、私達の集合体としての意識として、
その人に、どうして戻らないのかを尋ねました。
その人は、意識上で、次のような返事をしました。
「個の意識としての個性を、もう少し自分で眺めてみたい」
…というものでした。
これは、地上の人が個性に応じて
個人的な行動をする様子によく似ています。
私達は、それを了解し、待つということなしに待ちました。
やがて戻ってきたその人は、
さっそく、次のような奇妙な話を始めたのです。
私は、自分の個性が向く方向に、
ただ自然と流れて行ったところ、ある人に出会いました。
その人は、私に会うとすぐ、こう言ったんです。
「待っていましたよ、あなたを…」
私は、その意味が分かりません。
また、その人も知らない人でしたから、ちょっと驚きました。
その人は、次に、こう言いました。
「あなたが、ここに来たがっていたのです。
だから私は、あなたが来るのを待っていたんです」
そう言われても、
そういう意志を自分が持っていたとは思えません。
そこで、そのことを伝えると、その人が次に言った言葉が…
「私は、あなたです。あなたは私です」
「あなたは、違う世界の自分に会いに来たのです」
「あなたにとって、この私は、あなたの意識の一部なのです」
私は驚きました。
しかし、少しずつその意味が分かるような気がしてきました。
その人といると、自分が普段はあまり感じてはいないが、
確かに自分にある部分を持つ人だと理解できたからです。
私と、もう一人の私は、
別な私の個性が赴くままに移動しました。
そして、着いたところが、ここだったんです。
つまり、このいつもの、この集合体だったんです。
話を聞いた私達は驚きました。
その人は、その人自身に導かれて戻って来たからです。
私達は、その人が辿った道、
その経過に大変興味がありました。
その人は、こんな話をしてくれました。
私は、何となくここから出たくなって出て行きました。
もう一人の自分に会ってから移動した所は、
間違いなく自分の世界でした。
そう思ったのは、全く異質なものを感じなかったからです。
その世界は、間違いなく自分の世界だったのですが、
少しだけ違うところがありました。
それは、感じるものの全てに奇妙な影があるのです。
その影は、実にきれいな虹のような影で、その影には、
ここの集合体の世界が映し出されていたんです。
そして、影の中にいた人達は、ここの人達でした。
私は、自分の集合体と、個である自分を、
別な世界(角度)から見ていたようです。
私は、それに気づき、そのことを尋ねようとした、
その時、何処からともなく声が聞こえてきました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
あなたの見ている世界は、自分の可能性の世界です。
あなたは、自分の発展を望み、現状の世界に期待と
夢を乗せて見ているのです。
つまり、あなたが見たかった世界が、
今、あなたが見ている世界なのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
私は、「なるほど!」 と思いました。
確かに、私は進歩を願い、それに期待していました。
しかし、その世界は、自分の世界に付着している
垢のようなものでしかなかったんです。
虹のように見えたのは、それは自分の希望でした。
希望というよりは、欲、というようなものでした。
欲であっても、期待している願望は綺麗に見えたのです。
その虹のような影を取り除けば、
それは、全く、今の自分の世界そのものでした。
こうして、その人の話を聞き終わった私達は、
一つの共通の想いを感じました。
願望は欲である。
欲は自然を素直に受け入れられない証である。
みなさん方には、この話が極普通の話として聞こえたと思います。
それは、私達も皆さんも同じ人間であって、こちらと地上の世界は、
何も変わらない世界であることを示しています。
私達は、どんを通じて話すことは、何一つ新しいものはありません。
あるはずがありません。私達は、どんや皆さんと同じ共通の意識
の元にあるからです。その意識は、神の意識・宇宙の意識であり、
私達の意識であり、一人一人の個々の意識でもあるのです。
これで、私達の話は終わりです。
●ここからは、表の、どんの話です。
人の考えは、実に様々です。
それは、その人の個性と体験が違うためですが、
奇妙なことに、それを十分に承知しているのに、
誰もが自分を主張しています。どんもそうです。
そのことは、「そういう状況を知りながら、自分以外の
人のことはあまり考えていない」 ということにもなります。
これも、どんの姿です。
しかし、未熟な我々は、自己主張が、「出て行く行為」
に
なっていますから、我々の進歩の段階では、
「これでも…いいんだ…」 ということになるようです。
逆に、「受け入れる行為」 については、
「いつも素直に受け入れている」 とは、とても言えません。
受け入れることが恐いんです。…きっと。
素直な自分になって、素直に自分を出し、素直に受け入れる。
そんな人間になりたいと思いました。
二番目の話についてです。
願望は欲望であり、希望は可能性、と話していました。
すると、前記の、「そんな人間になりたい…」
という願望は、
欲望、ということになります。
こういう想いは、自然なものとして社会から認められています。
しかし、そういう現実にはならない状況です。
ですから、やはりこれも、欲望だと思いました。
必要なこととして現実にならないからです。
我々は、欲望の世界の中で、
「不自然な欲望を捨てたい!」
という欲望を持って生きているようです。
この矛盾を一掃する方法は、
昔から言われ続けてきたことですが、
「より自分を知る」 ということだと思います。
自分を知ることは全てを知ること。
だとも思いました。
自分を知ることは、他人を知り、社会を知ることですが、
我々の、「知る」 という方向には無理があったようです。
我々人類は、「見える世界」 を中心に生きざるを得ない。
そう思い込んで、この世界に長く留まっているようです。
●ここで、どんの話は終わりです。
★ここで、2000.1.25 の更新部分は終わりです。
●ここからは、2000.1.25 の更新前のものです。
●以下、文中の、「私達」 というのは、どんちゃんの背景です。
■私達の話、「お菓子の箱」
私達の世界では、眠ることと食べることは必要はないのですが、
時々、食べてみたい、という欲求も出ることがあります。
そんな時は、私達の仲間で、食べ物を作ります。
それは、見た目には食べ物でも、中味は私達の好みの話や、
色々な出来事が入った箱のようなものです。
その中には沢山のお菓子があって、
それらのお菓子には面白い話が一杯詰まっています。
そのお菓子の一つ一つには、それぞれの味があり、
とても魅力的なものばかりです。
こうした食事を、私達は、お菓子の箱、と呼んでいます。
これは、時々、行われてます。
地上での、お菓子を食べながらの楽しい話をする、
というものと同じような雰囲気のものです。
しかし、食べ物は話であって、
口に入れて食べるわけではありません。
また、食べられないから、
そういうものに無理に替えているわけでもありません。
それは、私達には必要な栄養として、
お菓子の箱を作って楽しむのです。
私達の世界の食事は、こうしたものを指しています。
しかしこれは、私達の集まりでのことですから、
他の集団では違うやり方をしています。例えば…
食事の時間は、皆が集まることを意味するところもありますし、
食事は共通の話題を話すための団欒のひととき、
という意味で使われているところもあります。
私達の集団では、お菓子の箱は、
それらの意味も含まれていて、情報交換の場にもなっています。
お菓子の話は、ここで終わりです。
●ここから、表の、どんの想いです。
このページの訪問者から、「お菓子の箱」 が…
「おもしろい!! もっとやって!」 という声がありました。(笑)
この話は、どんの作り話のように感じる方が多いかと思いますが、
どんは、聞こえたように書いているだけです。
みなさん方には色々な意見があると思います。
しかし、これが、彼の潜在意識からの創作だとしても、
それが与える悪影響はないはずですから、
気楽な気持ちで読んで頂いて、
忘れてしまうことをお勧めします。(笑)
実は…、この種の話は、
その気になれば、いくらでも出てきます。
しかし、信憑性は薄いもののような気がしますので、
今までは削除してきました。これからは…、
どうしたらいいのかなー …?
信憑性と言うと…
このHP自体が、それを問われてしまいますので、
そういう方向からでは、結論は出せないような気がします。
では、どうしたらいいのかな?
作家が、特に何の準備もなしに、
思いつきで、一気に原稿を書き上げる、
ということをよく聞きますが、
そういう話は信じられるようになりました。
作曲家も同様ですね。
でも、どんの場合は、特別な歌ですので、
商売にはならないと思っています。(笑)
お菓子の箱、のことですが、
この世界に興味のある方なら、
「ふーん…、ありそうな話だな…これは…」
という反応を示す人も、きっといるのでは、と想像しています。
「こういう軽い話題も捨てがたい…」、そんな気もしています。
●ここからは、背景からの話です。
■私達の想い
地上で生きる人間に必要なことは、
今までの体験から学んだものを活かし、
自分の個性に応じた生き方をすることです。
それが、人間にとって自然なことであり、最良のことです。
その指針となるものは、自分自身の内からの声です。
その声に従い、感じるままに動くことです。ただそれだけです。
そして、地上生活をおくる方法は、
感じるままに動き、思うままに生きることです。
●これで、背景からの話は終わりです。
●このことに関連した話が、訪問者の声 にあります。
●ここからは、更に、その前の更新です。
内からの感覚
99年5月25日
●文中の、「貴方」 という表現は、どんちゃん、のことです。
この当時は、どんちゃんではなく、「どん」
でした。
また、貴方、彼、というのも、どんちゃんのことです。
どん〜どん の間は、特に、どんちゃんの表の感覚です。
それ以外は、私達という背景・内からの話です。
■私達からです。
「内からの感覚」、それは潜在意識からの声です。
潜在意識からの必要な声、つまり必要な指示は、
必要なときに必要に応じて聞こえてきます。
このことは、誰もが皆、同じです。
それを声として感じるか。
何となく気配を感じて自然に行動に移るか。
その違いがあるだけで、
誰でも、常に潜在意識の声を聞いています。
聞いている、というより感じている、という状態です。
私達は、貴方の潜在意識と結びついている「意識の集団」
です。
しかし、この表現を貴方は、とても嫌っています。
「霊が話している」、という印象を与えることになるからです。
しかし、このことは明確にしておく必要があります。
何故なら、このことを曖昧にしたままでは、
「内からの感覚」 を、これ以上進めることが出来ないからです。
一般に、この感覚は、なかなか信用されません。
私達は信用されることを特に望んではおりません。
信用、信頼というものは、「信用はしていない」
という
「疑い」 から出てきているものだからです。
みなさんが、私達の話を聞いて、
これが、何かの役に立つことを期待しているだけです。
地上で重要な信頼関係は、私達には必要はありません。
その言葉が強調されるほど、
信頼関係は崩れやすい状況にあるという事実を、
誰もが数多く体験し、よく知っています。
私達にとっては、この話の内容が地上の人達に
受け止めてもらえるか、ということだけが重要なことです。
これが彼独自の潜在意識からのものでも、
私達「霊」 からの話でも、それはどうでもいいことです。
●ここから、表の、どんの想いです。
どん
「私達」という集まりには、表である、どんも含まれるのか?
という質問をしてみる。返事は、「もちろん含まれます」
だった。
すると、この話は…、どんの潜在意識と、私達の意識との合作。
ということになるが…
「合作ではありません。これは、共通の意思による共同製作です」
…と言われてしまった。
うん…。まあ…、そういう現実も、今ここにあるのだから、
いや、あるとすれば、それも、現実として認めざるを得ない。
…というところで、ここでは一応は認めておこう。
しかし、読者はこれを「参考まで」、としておくことをお勧めする。
何故なら、どんにも…自信がないのだから…。(苦笑)
それと、ちょっと状況を説明すると…
これは、聞こえるままに書いている。
もちろん後で、修正、加筆、それに全体の文章を
読みやすいように整理はしているが、聞こえるままに
書かれたものだと思ってくれて、ほぼ間違いない。
どん(終わり)
●ここから、背景に戻ります。
前回の続きです。前回は…
思うがままに生きる、感じるままに行動すればいい
…という話でした。
我々は常に、こういう状態の連続のはずです。
私達があえて言う必要はないことです。
ここで提案です。
混乱を避けるため、「私達」 と表現した場合は、
彼の背景の霊の集団とし、「人間」 と表現した場合は、
地上の人達と、こちら、つまり、「あの世」 と呼ばれる人間の、
この両方の人間を示すものとします。
私達は、この人を通じて話しています。
彼は、「どん」 と名乗っています。
彼は、私達の意見に素直に従うこともあれば、
真正面から否定することもあります。
しかし否定は肯定の始まりです。
今は、肯定することに表が抵抗している状態です。
いずれは、私達の意見を受け入れるときが必ずやってきます。
いままで、ずっと、否定と肯定、そして納得の繰り返しでした。
こうして話している言葉や、内容についても同様です。
今、これは、本人、つまり、どんには気がついていません。
何故なら、私達の言葉は、始めは全て異言で話されます。
話している間は、 彼は、ただ聞いているだけで、
その意味は全く分かりません。
また、彼も、できるだけ意味を聞かないように努めています。
これも私達からの指示で、 彼はこれに応じています。
●ここから、表の、どんの、その時の想いです。
どん
読者が、もし、この会話を聞けるなら、
外国人の二人の会話の様子がよく分かると思う。
二人というのは、「私達」と、どんの潜在意識。
話の内容は分からないが、普通の日常会話と同じ雰囲気だ。
穏やかなときもあるし、議論しているようにも感じるときもある。
また、長い会話を、ただ聞かされることも多い。
二人の外国人の会話が終わるのを、ただひたすら待つのは、
結構つらいものがある。
会話の意味が分かれば、時間は気にならないだろうが、
全く理解できない言葉では、どうしようもない。
「ボー… ……」 として、何も考えないようにしているのがコツだ。
何かを考えてしまうと会話が止まってしまう。
このように、どんが何かを考えたときは、彼等からみれば、
「他人が話に割り込んできた」 という感じがするようだ。
つまり、表である「どん」 は、他人だということだ。
何も考えず、ただ待つこと、そして日本語で意味を教えてくれる、
その時が到来するのを唯一の楽しみにして、じっと待っている。
「何かを考えてしまうと会話が止まってしまう」 と言ったが、
この理由は分かるだろうか?
彼等の想いは、潜在意識から表面意識に伝わってくる。
つまり、表の、どんにも伝えられている。
そして、どんが何かを考えるということは、
同じ表面意識の場でも考えるということだから、
「二人の会話に、もう一人が割り込んだ」
という状態になってしまうらしい。
割り込んだ者は、表面意識のどん、つまり表のどんで、
その表の どんは日本語で何かを考えているのだが、
ただ普通に考えるだけでも、割り込む結果になってしまい、
彼等と、どんの潜在意識との会話が止まってしまうわけだ。
読者も想像してみるといい。
二人の外国人がお客様として来訪し、
二人の長い会話が分からないからといって、
その場から逃げ出すわけにもいかず、
全く理解不能な言語を、ただ聞いていなくてはならない…。
これは、かなり苦痛なことだ。
しかし、いよいよ書く段になって、彼等は翻訳に苦労しながら、
日本語で熱心に説明してくれるのだが、これを聞くことは、
さほど苦痛ではない。待ちに待った、という状況もあって、
そう感じさせるのだろう。
どんの記憶にある日本語の言葉から、
その場の会話に最も適した語句を捜してきて話している。
一生懸命に話すのを聞くことは難しいことではない。
むしろ簡単なことだ。そして楽しい。「快感」に近い気分だ。
彼等の日本語は、外国人の、その言語のなまりが
強く表れていて、「外人さんの日本語」、という感じだ。
この現象の始めの頃は、とてもヘタだった。
不適当な単語と感じるものもあって、ときどき、
こちらから別な単語を提案するが、その提案は
ほとんどが採用されたことがない。
日本語の発音は実に下手だが、
言葉の的確さにおいては一流だ。
やはり心の奥底、つまり潜在意識からの
間違いの無い言語の記憶の中からの、
的確な語句の選択能力には、いつも驚かされている。
人間の記憶とは何だろうか?
「思い出せない」、ということがよくあるが、
精神世界の本には、
「記憶は消えない、思い出せないだけ」
という意味のことが書かれている。
また、年老いて記憶が薄れていくのは脳の機能低下であって、
心、つまり意識の機能低下ではないとも書かれていた。
ここで、重複説明
表面意識の、どんが何かを考えてしまったとき、
つまり、二人の外人さんの会話に割り込んでしまったとき、
二人の会話が続けられなくなってしまう、という状況を
想像するのは読者から見ても納得がいく話だと思うが…
どうだろうか…。
彼等が異言で話した会話の内容を日本語に換えるとき、
どんの潜在意識の中から、異言の言葉に対応する日本語を
捜してきて、それを、何とか日本語に換えている様子が感じられる。
そしてそれが適当なものかどうか調べ、
不適当なところを修正し、また同様に繰り返し、また修正する。
この作業が、適切な日本語になるまで繰り返えされるため、
どうしても時間がかかってしまう。
しかしこれは、これしか方法がないようだ。
どん(終わり)
●ここから、背景の話に戻ります。
異言での説明が終わると、「始めます」、 と声をかけて、
私達の話す日本語を、このように文章にしてもらいます。
こうして書かれるときになって、
ようやく彼にも異言の意味が分かります。
それまでは、彼には全然わかりません。
そして彼は、私達の指示どうりに仕事をする「物書」
です。
●ここから、表の、どんの、その時の想いです。
どん
物書、というのは、文筆家という職業の意味ではなく、
ここでの役割のこと。
どん
●ここから、背景の話です。
意識、それと同じ意味の魂、霊について、
三つのことを強調したいと思います。
一つ目は、
物質に意識が無くては形にはならないし、
また、その維持もできない。
二つ目は、
物質の世界も意識の世界も、
同時に同じ場所に存在する。
三つ目は、
人間の目的は、「人間の進歩」。
それは人類の全てに共通であって、
それは、いつの時代にも、どんな環境でも同じだった。
この三つです。
私達の活動の目的は、この人を通じて、
みなさんの何かの役に立ってもらうことです。
伝えるべきことを正確に伝えられるように、
十分な練習をする必要があります。
彼には私達の基本的な考えを常に感じてもらい、
このような場面に備えてもらっています。
しかし、彼は、このことは、あまり感じてはいません。
しかし、現実には、このように書いています。
私達は…
感じるままに生きればいい
自分の思うように行動するだけでいい
…ということを、ただ伝えるだけのことです。
人間の目的は一つです。
そして、個々の人間の個性に応じて、
大きな目的から分けられた目的の一部を、
それぞれの人間が受け持っています。
各自が、個性に応じた動きで、感じるままに生きることが、
各自に分散された大きな目的を達成することになります。
そして、このことによって全体の目的も達成に向かい、
全体も、個々の人間も進歩することになります。
一般的な見方では…
人は、個性や環境が違うために、生き方も違っている。
だから、人生の目的が人それぞれに違うのは当然のこと。
…というものです。
これは、狭い意味では、確かに事実です。
しかし、ここまで説明を読んで頂いた方々には、
そのように見えたのは…
「分散された個々の目的だけを見ていた」
…ということに気がつかれたと思います。
我々は、皆が同じ目的を持った同じ人間だということです。
このことは、同時に…
我々は共通の意識を持っている人間同士
…ということでもあります。
人間の個性は、
大きな目的を分散することによって、始めて活かされます。
逆に、「目的の達成のためには分散していなくてはならない」
と言うこともできます。
また、このことが、
人間の個性が、人それぞれ違う理由でもあるわけです。
それぞれの、その個性に応じた素直な生き方をすること。
つまり、各自に分散された、それぞれの目的を意識せずとも、
その個性に応じた素直な生き方をするだけでいいわけです。
そうすることによって、人間の共通の大きな目的の
達成の方向に自然と向かうことにもなるわけです。
すると、我々は、やはり…
感じるままに生きればいい。
思うままに行動するだけでいい。
…ということになります。
自分の個性に素直になって、
感じるままに、思うままに行動することが、
人間の生きる目的であり、進歩のための条件でもある。
…ということになります。
私達が、この人に伝えた最初のものは、
「好きなことだけ、とにかく、やってみたらどうか…」
という提案でした。
彼は、抵抗を感じながらも、この方向に進んで行きました。
好きなものを、やりたいだけやったわけです。
そして、その限界を知ります。
そして、このように、私達との共同作業が
一緒に出来るようになってきました。
これは、よく言われている、「進歩のための奉仕活動」
というようなものです。しかし、私達の奉仕活動は、
自然の法則に沿ったもので、単純な人助けではないことは、
みなさんも、よく分かっていることと思います。
私達は、彼が自力で気がつくのを待ちました。
十年以上かかりました。この年数は、彼が、
この世界に本格的に接してからの期間のことです。
その前に、私達が彼に仕向けたことは、
この世の実態を出来るだけ短期間に体験させることでした。
そのためには、より効率的に、より大胆に、そして大げさに、
世の中を学習させることでした。
そしてそれは計画どおり、全てが成功してきました。
うまくいくのが「運命」 ですから、
それが当然でなければなりません。
「運命」 という言葉の説明は別の機会にします。
ここでの運命は…
そういう計画が実行され、計画どおりに、ことが運ばれた。
という意味にしておきます。
彼には好きなことをさせる。
できるだけ早く効率的に世の中を体験させる。
そして、社会の実態から地上的なものの空しさを知り、
真の喜びとは何か、ということへの興味を抱かせる。
そして、時期が到来し、この世界と接する。
これが、私達の大まかな計画でした。
しかしこれは、これからが本番です。
私達は、
この人の、この個性に見合った方法で計画し実行しました。
みなさん方も、それぞれの個性に応じた、
分散された目的を持っているはずです。
それは、みなさん自身が、一番よく知っていることです。
私達は、彼の個性に見合った分散された目的のために
活動をしてきました。
これからは、さらに具体的な行動をすることになります。
私達の、この話に興味を持たれるようでしたら、
それはきっと、みなさん方も、ご自分の分散された目的を知り、
もうすでに、その目的の方向に進んでいるものと思われます。
私達の今回の話はこれで終わりです。
私たちが地上の人達に、最後に伝えたいことは…
自分の気持ちに素直になって、
ただ、ひたすらに素直になって、
感じるまま、思うままに生きてほしい。
…ということです。
全ての問題は、簡単に解決してしまいます。
ただ素直になって、感じたままに生きる
ただこれだけでいいんです。
●ここから、どんの想いです。
どん
彼等の意志と自分の意志の割合が気になっている。
彼等の意志がどの程度で、自分の意志がどれだけなのか。
そこを知りたいと思って聞いてみた。
異言で聞こえてくる会話の内容は、
背景と、どんの意思が統合されたものだそうだ。
その意思を、表の、どんに日本語に換えられるとき、
どんの表の部分が入り込み、完成度は落ちてきて、
それは、70〜80%くらいになるという。
始めから、ここまで幾度も読み返してみた。
やはりこれは、どん自身の潜在意識からの声、
ということにして頂いた方がいい…。そう思った。
背景の霊の声も潜在意識を通ってくるから、
それが自分のものか、背景のものか、
それとも、それらの混在なのか…。
未だに、判断ができないでいる。
実は、この文章の三倍の量があったのだが、
潜在意識の想いが中心だと思われるものを削除した。
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ここは、内からの感覚 の最終行です。