技術の散歩道
 重油流出とロボット技術  
   
 中国の李白の詩に「それ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり」という一節がある。かの有名な芭蕉の「奥の細道」の冒頭の文章「月日は百代の過客にして……」にも大きな影響を与えたものと言われている。これらはともに、歳月を旅人になぞらえている。人生はまさに長旅というわけであろう。

 とくに研究者の研究人生は、まさに「旅」と表現するのに相応しい。しかも、辺境の地への孤独な旅である。そこは常に未知の世界であり、未知は往々にして渾沌である。私も永年、そのような未知の分野の開拓に携わってきた研究者の一人であり、未だに、渾沌の世界を好んでさまよう放浪の旅人である。縁あって今回から暫くの間、この欄を担当することとなった。

 私の出身地は北陸の福井県である。風光明媚で人情味に厚く、住み易さでは屈指の土地である。ところがその美しい郷里の海が、この一月、ロシア船ナホトカ号の海難事故で油まみれとなった。流出の当初は、もうこれで海は完全に死に、二度と甦らないのではないかという絶望感に苛まれたものである。幸い全国から集まってくれた多くのボランティアたちが、過酷な状況の中、手作業で油除去に従事してくれた。

 当時流出した重油の量は、2800キロリットルだという。一人が1回の柄杓の操作で汲み上げる量を1リットルとして、約300万回の操作をボランティアたちがやった勘定になる。人間の定常的な作業量としては、一日にせいぜい1000回程度が限度だろうから、汲み上げるだけの操作でさえ3000人・日を要する作業量である。しかしこれだけではない。総作業量は多分その100倍の30万人・日を越えたのではあるまいか。そして数ヶ月後、再び海が甦ったのである。

 この時のボランティアたちの活躍には、凄まじいほどの迫力があった。不可能を可能にしようとするひたむきさと、その力の偉大さを実感できたのである。私も既に、「最近の若いものは……」と不平不満を言いがちな世代の一人になってはいるが、この若者たちの活躍には爽やかな潤いを感じ、明日の日本に一縷の光明を見た思いであった。できれば私も馳せ参じたいと気持だけは焦っても、もうそれほど若くない体力への不安から何もできず、ただ陰ながら、全国から私の郷里に集まってくれた若者に感謝していた次第である。

 ところでこの事故に関して、永年技術の道を歩んできた者の一人として、一つだけ残念に思うことがある。彼らの活躍を支援して、一層大きな効果を発揮できるような技術が何ら存在しなかったことである。ここ四半世紀の間、わが国のロボット技術は世界のトップに君臨し、世界からロボット王国とまで呼ばれてきた。けれども油をすくうロボットは実在しないのである。荒れ狂う海辺で、雪の中を多くのボランティアたちが手汲みで油を処置している姿が、TV網やインタネット網を通じて全世界に発信された。技術立国を標榜するこの日本からは、出来ればこのボランティアたちの活躍と併せて、もっと画期的な技術が活躍する情景もまた発信したかったものである。

 さて、ロボット研究の現状はといえば、当面、このような悲劇的な事故に対処するだけの術がない。工場の中で、溶接、塗装、組立、箱詰めなどの諸作業を立派にこなしてはいるものの、原理的には形のあるものを対象としており、流動的で、しかも粘度が時間的に変わっていくものを取り扱う研究は皆無に近い。ましてや、荒れ狂う波に漂う対象をすくい上げたり、こびり付いた岩から油を拭いとる作業は極めて難しい。ではどうすればいいのか。ありきたりではあるが、このような事故を起こさないような手立てをあらゆる面で講じることと、事故が起こった際には早期出動して早い段階で処置することが、他の事故の場合にも共通して、やはり一番重要のようである。まだ油が海上にある段階での対策の方が結局は効率的で、被害も最小限に留められるのである。外洋型の大型回収船の配備と、冬の日本海の激浪にも負けないオイルフェンス技術が当面の課題となろう。

 今回の事故でとくに気を揉ませたのは、船首からの油の抜取りの際、船に積んだ機械は陸に近付けなかったし、陸の上からは、揺れ動く海面に近付けなかったことである。海と陸の接点での技術がないのである。研究者・技術者に新たな渾沌の世界が提示されたわけである。この現実を直視して、世界に先駆けて実践的な技術開発に挑戦することが重要となろう。このような「いざという時の技術」は一朝一夕では難しいし、定常的な産業とはなりにくいのもまた事実であるが、そのような技術がどの程度蓄積されているかが、どうやら「国力」となる時代が来るような気がしてならないのである。

 神戸の地震の際にも「いざという時の技術」が足らないことをさらけ出した。とくに災害時にも堅牢な情報通信網が欠如し、それを使った救急と二次災害防止を優先する緊急支援手法も未開発のままだった。人の手に頼るのは致し方ないとしても、そういうボランティアたちが組織だって効率的に作業できるように、まずは通信手段の確保が重要であることが指摘された。

 幸い私の近辺で、最近、バイクで持ち運べる衛星利用の緊急通信装置が開発された。地図情報を利用した災害状況把握と復旧計画支援のための地理情報処理システムも進展をみせている。災害もまた技術の発展を促す好機と捕らえ、異常時の対処と環境劣化の防止に興味を抱く研究者が増えてきたことは実に喜ばしい。

 このような新しい技術開発を通して、この地球が永遠に「万物の逆旅」であり続けられるようにしたいものである。ちなみに逆旅とは、やすらぎの「宿」のことである。
(平成9年8月)