技術の散歩道
 ウィット社会の構築  
   
 アメリカのサンノゼという街に住んでいたころの話である。近くの山間の小道をドライブしていて、奇妙な道路標識を見つけた。丸の中に19とか23とか書いてある。制限速度が19マイル、23マイルというわけである。車のスピードメータの目盛は5マイル刻みだから指定された速度で走るのは容易ではないが、幸い瞬時にこの標識の持つ意味を理解でき、これらを設置した役所のユーモアに喝采を贈りたくなった。と同時に、これが日本だったらどういうことになるのかと考えさせられたものである。

 日本で例えば49キロという制限速度の標識を見たら、多分「不可能なことを書くな」という反応となり「役所は何を考えているのか」といった投書が新聞に載りそうな気がしたのである。これを、50キロは絶対に出すなというメッセージとして正しく読み取る力が、平均的な日本人に果たしてあるのだろうか。もし、ないとすれば、ウィットに慣れていない人種の悲しい性というものかも知れない。

 アメリカは、この例が示すように、ウィットとユーモアに富んだ社会であるように思う。ハロウィンの行事で「トリックかトリートか」と子供たちが家々をまわってお菓子を集めるのも、宗教に由来するとはいえ、ウィット社会の典型的な行事のように思われる。

 私がサンノゼに移り住んで最初のハロウィンのときのことである。住む家もようやく決まり、あとは家族の到着を待つばかりという状態での一人暮らしのときだった。ハロウィン当日は仕事の都合でお菓子も準備できず、また残業で帰宅が深夜になった。そのため近所の子供たちをトリートできなかったのである。

 それから一週間ほど立ち、いよいよ家族が到着する日を迎えた。空港に出迎えるために朝早く起きて外を見たら、何とトイレットペーパーで家がぐるぐる巻きにされていた。家の前の高い街路樹の頂上までトイレットペーパーが投げ上げられ、そこから幾重にも垂れ下がっていたのである。そう簡単には取り外すこともできず、そのまま空港へと急ぐ破目となった。

 空港からの帰途、初めて見るカリフォルニアの青い空と広々とした風景に感激していた子供たちに、「ここが君達の新しい家だよ」と言って見せたのがこのトイレットペーパーで飾られた家だったのである。近所の子供たちの歓迎の印だと当座はごまかしたが、その後本当の理由を言うのにかなりてこずったことを懐かしく思い出す。もちろん、子供たちが来てからの近隣の人々の親切さは、また格別であったことを付記して置かねばなるまい。

 小・中・高と三人の子供たちをそれぞれの学校に通わせたので、授業参観などの行事のたびに先生方ともよく話をする機会があった。アメリカの教育の理念は何かという私の問いかけに対して、誰からも即座に返ってくる答えは「良い市民(citizen)を作ること」であった。日本にも、何か尊い、基本的なものがあるのだろうとは思うが、少し心配になったものである。

 学校では子供たちに、機会あるごとにサービスとレスポンシビリティという言葉が教え込まれていた。これがどうやら「よい市民を作る」という教育理念を実現するための神髄のようである。サービスは他人に対する思い遣りであり、社会に対する奉仕の心である。しかしレスポンシビリティという言葉は少し意味が難しい。とくに日本では誤解されているようだ。例えば、危険な空き地に入らないようにと柵を設けるのは、空き地の所有者のレスポンシビリティだと思いがちだが、実はそうではない。むしろ所有者のサービスであって、そういう危険な空き地に入らないことが、住民のレスポンシビリティなのである。レスポンシビリティの訳語として「責任」は適切ではなく、むしろ「義務履行能力」の方が適切のようである。

 というわけで日本の社会を見てみると、過去にこんな事件があったことを思い出す。A県の県道をB県の住民団体が小型貸切り観光バスで走っていた。折しも豪雨で崖崩れが起こり、バスは埋まり全員が死亡した。その遺族から道路管理者であるA県に対して補償の訴えが出た。A県の県民にすれば、何も頼んでもいないのに、よりにもよって豪雨のさなかに勝手に走られた上に、自分等の税金から何がしか支出されるのである。要は、道路を管理することはA県のレスポンシビリティだと主張されたわけである。

 これは、とんでもないことである。そういう道路を、危険を犯してまで通らないことがB県のレスポンシビリティなのである。道路を管理するのはA県のサービスである、とB県は考えるべきなのである。もしA県のレスポンシビリティなら、他県人を通行禁止にしてもよかったのである。レスポンシビリティは「責任」として他人に強要するものではなく、自らの義務をきちんと果たす能力なのである。その意味では、A県が危険を予知出来ていたとしたら、事故の起こる前にそれを修復することは今度はA県のレスポンシビリティとなる。レスポンシビリティとサービスは、このように裏腹の関係にあると言える。

 さてこの狭い日本を、他人に責任をなすりあう窮屈な社会から、もっとウィットとユーモアに富んだ心豊かな社会へと変革できないものだろうか。そのためには、このレスポンシビリティとサービスを正しく理解することが重要のようである。ただし、一見良さそうに見えるアメリカも、実は矛盾だらけの社会であるのも事実である。一方では他人の責任を問う訴訟社会でもあるわけである。だからこそ、サービスとレスポンシビリティが教えられているとも取れるのである。また、徹底して教えられているにも拘らず、延々と訴訟社会が継続していることにもまた矛盾を感じるのである。
(平成9年11月)