技術の散歩道 11
 知能ロボットの夢と現実  
   
 ロボットという言葉が学界・産業界で真剣に取り沙汰されるようになってから、もう四半世紀以上が経った。私のロボット技術についての紹介記事が計測自動制御学会誌に掲載されたのは、たしか1963年のことであった。その5年後にはアメリカからバーサトランとユニメートという初期の工業用ロボットが初めて日本に輸入され、さらにその2年後の1970年には、本邦初の人工知能ロボットが実現され公開されたのである。これを契機に日本でもロボットの開発機運が高まり、その後、世界を先導するまでに技術が大きく進展し、生産の自動化と産業の発展に多大な貢献をした。

 ところで1970年代の研究の黎明期には、このロボットの工学的な研究活動を表現するいい言葉が存在しなかった。バイオロジーとの類推でロボットロジーという言葉を宛てようという提案があったが、私にはどうもしっくり来ず、むしろエレクトロニクスからの類推で「ロボティックス」という言葉を勝手に作り、「ロボット工学」という意味で使っていた。この言葉は、当時、辞書にもなく、あまり自分でも自信が持てなかったので、世の中にそれほど強い提案をしては来なかった。そうこうしているうちにアメリカでこの言葉が使い始められ、あれよあれよという間に世の中に定着してしまったのである。

 このロボティックスという響きのいい言葉に比べて、ロボットという言葉には、未だに何か胡散臭いものを感じさせる何かがあるようだ。人類は紀元前のギリシャ神話の時代から、下僕として働く自動機械を夢見てきた。20世紀になってからも、ロボットという言葉の発端となったカレルチャペックの「ロッサム万能ロボット会社」という戯曲で代表されるように、意識を持つようになったロボットが人間に反逆するという非現実的世界が数多く描かれている。こういう歴史がどうやら胡散臭さの原因のようである。現在でもロボットの研究者が夢を語ると、理想のロボットとして鉄腕アトムが登場するし、理想社会として、自律型の移動ロボットが街を闊歩する未来社会が描かれるようである。

 しかしこのような夢に対して、現実はそう甘くない。2足歩行などの制御技術は最近大きく進歩してきたし、視覚や知的判断技術にも長足の進歩が見られるとはいえ、電源をどうするかという基本的な課題があり、これについてはまだ解決の糸口すら見えていないようである。研究者の興味は、パワー系よりも情報系に集中しがちであり、未だに長い尻尾(電源コード)を引きずったロボットしか作れないのが現実である。電池を搭載すると途端に体重が重くなり、自分の体を動かすことだけでかなりの体力を消耗し、1、2時間で動けなくなる。その後はその数倍の時間の静養と栄養補給(再充電)を必要とするのである。しかもこの電池の進歩は10年に2倍程度であり、もしこの傾向が続けば、ようやく移動ロボット用として使える電池が出来るまでにあと60年は掛かる計算になる。残念ながら私には、そのようなロボット社会の到来を見届けるほどの余寿命はないのである。

 また、たとえ将来自律型の移動ロボットが出来たとしても、街を闊歩させるのには問題が多い。やはり人間に対する危害が心配である。完全な機械は存在しないので、完全なロボットも存在しない。とくにロボットと車と人とが共存する社会は、考えられないという以前に、考えたくないのである。どうしても街に出したければ、体重を人間の1/3、速度を人間の1/4程度にして、運動のエネルギーを人間より二桁小さくする必要があろう。

 ところで、街を闊歩させて一体ロボットに何をさせられるだろうか。人間にとって有用なことをこれらのロボットはやれるのだろうか。ロボット研究者の間にも、まだ、きちんとした回答を持っている人は少ないようである。物を運ぶには遅過ぎることになろうし、人間への情報伝達の役目を担わせるだけなら、何も動き回るロボットでなくても、固定の情報ポストでいい筈である。多分、電子技術がもっと発達し、ポケットに入れた電子カードや手首にはめた新型電子ウォッチで十分に対応できるようになると思われる。

 自律型移動ロボットは技術的には確かに面白い。しかも他に応用可能ないろんな波及効果も期待できないわけではない。また、人間の機能や行動の理解にも役立つ。とくに大学教育では、学生に夢を与え、メカニズムの面白さを教え、物を作る喜びを味わわせるのに好適であろう。けれどもこの夢は、例によって鉄腕アトムになりがちで、非現実と現実の混同が起こり兼ねないのが心配である。しかも悪いことに、試作されたロボットは、一回だけ動いてビデオテープにでも撮れば、あとは二度と動かなくてもいいわけで、学生が社会に出たときに最も重要な筈の「信頼性」についてはほとんど考慮されない場合が多いようである。

 自律型移動ロボットの典型的な応用例として、センターラインや路肩を視覚で認識しつつ自動走行する知能自動車の研究も活発になされてきた。ここではパワーの問題は比較的少ないが、どうも研究の先行きが暗いように思う。私の個人的な趣味で言えば、すいすいと走れるような道路では自分で運転をしたい。本当に自動運転に委ねたいと思うのは、にっちもさっちも行かない渋滞時なのである。渋滞時に自動運転モードに切り替えておけば、直前の自動車が少し動けばそれに追従して自車も少し移動し、その間運転者は新聞でも読んでいられるような機能なら興味がある。一般に自動車の高速自動走行は、製造物責任上からも問題含みであり、もっと人間の運転を安全の面から支援するような運転支援システムの研究の方が、社会的意味が大きいように思うのである。
(平成10年6月)