娘が独身最後の思い出に、家族みんなで音楽会に行こうとブルガリア民族合唱団のチケットを買ってきたことがあった。農民の地声が響くような特異な歌唱に圧倒され、以来、いつの日かこの国を訪れてみたいと思うようになった。
その後数年たったある年の春、私はスウェーデンからの招待を受け、ウプサラの町にいた。そこでスカンジナビア国際会議が開かれることになり、特別講演を依頼されていたのである。スカンジナビア諸国からの参加者に加え、他のヨーロッパ各地からの参加者も多く、その中にブルガリアのある教授がいた。開会初日の冒頭に予定された私の講演が無事終わったあと、彼が話しかけてきて、秋にブルガリアにも招待したいという話が持ち込まれたのである。半分は外交辞令と思っていたが、それから数ヶ月のうちに具体化してブルガリア科学アカデミーからの正式な招待状が届き、首都ソフィアへと旅立つことになった。
この教授とはとくに深い付合いというわけではなかったが、数年前からの顔見知りではあった。その最初のきっかけを作ったのは実は私の妻で、アメリカのアトランティック・シティで開催された国際会議のときに、学会主催の観光プログラムに参加して知り合ったという。そのため妻も一緒に招待を受けたのである。
同じく招待を受けてやってきたポルトガルの大学教授らとともに、到着の翌休日、ソフィア郊外のヴィトシャ山へのピクニックに誘われた。次々とケーブルカーを乗り継いで登った海抜2300mの山頂で、心地良い秋風のもと、遠くにバルカン山脈を望みながら、教授の持参したブルガリアの秋の味覚の数々を味わった。山頂の山小屋で振舞われたハーブ紅茶の甘い味は、当地の名物の一つらしく、今では忘れられない味となっている。
翌日、ブルガリア科学アカデミーで一回目の講演を行い、そのあと晩餐会が持たれた。その席上の挨拶の中で、私が以前に日本でブルガリア民族合唱団の歌を聞いたことがあることと、それ以来一度は是非来て見たいと思っていたことを話した。かつて日本に行ったことがあるという科学アカデミーの中年の女史が隣に座り、にこやかに頷いてくれていたが、この時は彼女のこの頷きの意味がわからなかった。
私たちは、あまり奇麗とは言えないブルガリア科学アカデミーの専用宿舎に滞在しつつ、この女史とその女子大生の娘さんの案内でソフィアの街を見物し、この国が共産圏から自由圏へと脱皮しようとする苦悩を垣間見ることになった。物価は驚くほど安く、コーヒー一杯が十数円というところもあったが、当地の民衆の収入レベルもかなり低いようで、それなりに生活は厳しい様子であった。共産時代の象徴であった銅像はすでに取り払われ、ブルガリア人民共和国の父と呼ばれた初代大統領ディミトロフの廟は取壊しが決定し、その遺体はすでに火葬されたという。変わりに自由圏の象徴として、マクドナルドとKFC(ケンタッキーフライドチキン)が賑わいを見せ始めていた。国全体が豊かな自然に恵まれてはいるものの、基本的には農業国で、これ以外に主要な産業がないために財政状態は悪く、建物の補修も街頭の清掃もままならない様子が散見された。
黒海沿岸の都市バルナでの講演のために、小さな車でバルカン山脈に沿って西から東へと国土を横断することになり、途中、コプリフシュティツァの町に宿泊することになった。この町は歴史的に古く、町全体が建築記念物といった風情であり、ブルガリア精神の古里といった趣の美しい町であった。この別荘の町は、夜ともなるともう冬の訪れの気配が感じられ、吐く息も白く、人影もまばらであった。町一番のレストランでは、訪れる人もなく、私たちが唯一の客であった。強い地酒で何度もナズドラヴェ(貴方の健康のために)と乾杯を繰り返しながら、話が弾んで大騒ぎした夕食だった。
翌日は、見渡す限りの見事な紅葉の中をさらに東へと車を走らせ、黒海沿岸の都市バルナに着いた。初めて見た黒海は、その名からの印象とは全く異なり、青く澄んだ奇麗な海だった。バルナ工科大学で二度目の講演を行ったあと、学長主催のレセプションに招かれたが、その席上でも、何人かの大学教授から学問の現状やこの国の窮状をいろいろと知らされ、逸早い経済の再建と民衆の幸福とを願わずにはいられない気持ちに駆られたりした。
私が大学などを訪問している間に、妻は、道端で店を開く主婦たちの手作りの刺繍織物に興味を持ち、土産用も含めてかなりの量を買い込んでいた。いつもの海外旅行の習慣で、かなり値切って買ったらしい。滞在が慣れるに従い、この国の民衆の生活困窮振りが次第に実感出来るようになり、どうせ大した金額ではなかったのに何故あのとき値切ったのかと、妻は今でも自責の念に駆られているという。
夜の山中の幹線道路で、跳びだした大イノシシに一撃を喰らいそうにはなったものの、無事ソフィアに戻り、いよいよ帰国の途につくこととなった。見送りに来てくれた例の女史がそっと手渡してくれた紙袋の中には、彼女の論文とともに、ブルガリアンポリフォニーと呼ばれているあの民族合唱団の音楽テープが添えられていた。歓迎晩餐会のときの私の話を聞いて、帰国の日までにわざわざ自身の手でダビングしてくれたらしい。また、海に潜るのが趣味という科学アカデミーの学部長からは、自ら黒海で採取したという貝の殻を土産に頂いた。この貝には、30年ほど前に日本人が黒海に持ち込んだといううわさ話があるらしいが、真偽のほどは判らないという。日本では見たことのない、内側がピンク色の奇麗な貝で、今、我が家の応接間の棚に新たな装いを加えてくれている。