大学を中心とした学術社会での「一番乗り」という評価は、研究論文の早さで決まる。世界最初という栄誉を求めて、世界中の研究者が論文化でしのぎを削り、大袈裟に言えば血みどろの闘いを演じているわけである。競争相手からの論文の発表に一喜一憂しつつ、自らに鞭打ってこの熾烈な競争社会を生き抜こうとする。論文こそが主役の世界である。
一方、企業を中心とした技術社会での一番乗りは、新製品の開発や新技術の実用化での早さであろう。新製品・新技術の開発競争は経済を刺激し社会を活性化するし、一番乗り企業は他社が追従するまでは利益を独占享受できる。ここでも世界最初という名誉を求めて、これまた世界中の企業研究者がしのぎを削っている。ただしそこでは、特許による裏打ちが必須となる。すなわち特許こそが主役の世界なのである。
特許は最も重要な知的所有権であり、特許なくしての新製品開発は意味がない。特許さえ事前にきちんと提出されていれば、たとえ製品開発で多少遅れをとってもまだ救われる。しかし特許の遅れは致命的である。一日遅れで権利がとれなかった事例も世の中には数多い。とくに1990年12月からは電子出願方式となったため、まだ実際に運用されているというわけではないが原理的には秒単位で勝敗を決めることも可能となった。
実はこの私にも、特許申請や商標登録の際、数日遅れで他人に権利を取られてしまった苦い経験が幾つかある。このような「負け戦」においては、どういう相手とどのような接戦を演じてきたかがあとでわかる。しかし勝ち戦だと、対戦相手が誰だったかすら一般には分からない。おそらく私にも、数日の差で勝った例は数多くあったろうと思う。
この幾つかの負け戦の経験を通して、痛切に実感したことが一つある。それは、同じような時期に同じようなことを考える者が、世界のどこかに少なくとももう一人はいる、ということである。以来、私の最大の敵は、この「どこにいるのかわからないもう一人の自分」と考えるようになった。自分と同じ頭の構造を持った者が実在し、しかも、彼の方が自分よりは少し頭がいい、と考えた方が妥当らしいのである。だからなおさら始末が悪い。彼に勝つのは容易なことではないのである。どうやら私の今までの技術開発は、この「もう一人の自分」に勝つための闘いの積み重ねであったように思われる。
ところで闘いと言えば、ここ数年、米国の個人発明家や企業から特許で日本の企業が攻められ、多額の使用料を払わされるという事例が相次いだ。当初は、訴訟慣れしない日本企業の実態から、なるべく穏便にという基本姿勢のところも多く、そこを逆につけ込まれたようである。しかし最近では、言われっぱなしの状況から一転して闘う企業へと変身し、謂われのない横槍には敢然と闘おうとする企業が増えてきた。甘い汁ばかり吸わせるわけにはいかず、日本企業もますます特許で武装し、従来の守る特許から攻める特許へと姿勢を転換してきている。
一般に企業同士の闘いは、相互に入り組んだ製品構造を持つ場合にはとくに複雑であり、ときには相討ちの事態も発生する。闘争に費やすコストやエネルギーが莫大となるので、事前の話合いによって特許の相互使用を認める協定が結ばれる場合も多い。しかし一番事が面倒なのは、相手が個人の発明家の場合である。彼らには、自分では生産していないために失うものがない。そのため相互利用の交渉が成立たず、法外な特許料を要求しかねない。
しかもこの種の個人発明家の中には、企業からの搾取だけを目的に、長い間、特許を意識的に潜伏させ、世の中の情勢に併せて巧みに請求範囲を変えてくる、いわゆるサブマリン特許の戦術にたけた者がいた。このサブマリン特許は、米国だけが持っていた不当な制度であったために各国からの非難の的となり、最近ようやくその制度が廃止された。本来ならとっくの昔に消えていた特許が、幽霊のように形を変えて現れ、もともとの発明とはまったく違う形で現在の企業に付きまとっていたのである。企業は発明に敬意を表して特許料を払うのではなく、亡霊の鎮魂のために払うようなものであった。
特許制度のそもそもの目的は、発明の保護と利用を通じて、科学技術の進歩や産業の発展に寄与することにある。その背景にある基本的な精神は、発明をした個人の偉業を称え、その個人がその発明を事業化するために、ある一定期間、独占的な権利と時間的猶予を与えることであった。もしも個人の発明家が自分で事業化できない場合には、他の事業家や企業に権利を譲渡することができる。一方、企業に所属する研究者の場合には、その業務上での発明に対して、特許を受ける権利とともに事業化する権利を所属企業に譲渡するのが一般的である。
米国でもこの辺の事情はあまり変わりないが、ただ、産業構造上、企業が消滅することがよくあり、いつの間にか特許がとんでもない無関係の会社に譲渡されていることがある。なかには特許をかき集めてそれで商売をする特許管理会社もある。そのような会社は、その特許で製品を作ろうという意志はまったくなく、ただ権利だけを行使し、それで金を儲けようとする。もとの発明者がまったく関知しないところで、権利だけが動くようである。当然、特許制度の高邁な趣旨とは大きくずれてきていると言わざるを得ないのである。
情報化が進み、メガコンペティションの時代となり、知的所有権がより大きな意味を持つ時代を迎えた。特許制度が最近国際的に見直されたとはいえ、手続きや運用上の改正が主で、高邁な発明の精神の原点にまで立ち戻った議論ではなかったようである。もう一度、世界の英知で制度を再構築する必要がありそうに思う。