ロバート・ケネディやキング牧師が暗殺された時期、まだ暴動で騒然としていたシカゴの街に住んでいたことがある。当時私は、生体視覚の研究でイリノイ大学に滞在し、近くの聖ロカ病院の一室を借りて猫を使った視覚の実験に没頭していた。いずれは人間の目を機能的に模倣して、人工の目を造ろうというのが究極の目的であった。その後この人工視覚は、私の生涯にわたる研究の基本テーマとなり、幸いにも一応の成功を見て、生産自動化などの局面で新しい応用を開拓することができた。今では、マシンビジョンと呼ばれる各種の人工視覚装置があちこちで活躍するようになっている。とは言ってもまだこれらの装置は、人間の目とはまったく異質なものと言わざるを得ない状況であり、いずれはもっと実際の目に近い視覚装置を実現したいものである。
ところでこの人間の目には、知れば知るほど、圧倒されるような神秘さ・深遠さがある。一見単純に見えるその構造にさえ、人工的にはとても模倣できない迫力がある。たとえば目のレンズ一つをとっても、その構造はカメラ用レンズとは似ても似つかないのである。
目のレンズの内部は、玉ねぎのような多層構造を持ち、内部に行くほど屈折率の高い層が順次積層されている。人は物を見る時、その遠近に応じてこのレンズの厚さを変え、焦点を合わせる。カメラのようにレンズの位置を変えるのではなく、レンズそのものを変形する。しかもその変形には、レンズを包み込んでいる厚さ数10ミクロンの薄い膜を周りから引っ張ったり緩めたりする。この薄い膜こそがレンズの弾力の源であり、これが破れるとレンズが剥き出しになって弾力がなくなる。レンズ調節は、まさにこの薄い膜に頼っているのである。
このレンズを通した光は網膜に結像するが、光を感知する視細胞は網膜内でも一番奥まったところに配置されている。光は網膜内のいろんな細胞の間をかきわけて一番深いところへと到達し、そこで初めて感知されるわけである。そして双極細胞や神経節細胞などでの処理を経て網膜の一番浅いところに電気信号として戻され、盲点経由で視神経となって脳へと運ばれる。一般の感覚細胞は表皮部に存在し、奥へ奥へと処理結果が伝達されるようだが、視覚ではどうも逆のようで、何か不思議な構造である。
人が物を見る時には必ず目を動かす。これは網膜上で一番感度の高い「中心窩」を物のある方向に向けようとする動作であり、上下、左右、回転の計6本の拮抗筋が関与した連携動作である。物が移動している場合には、目をそれに追従して滑らかに動かすことが出来るが、止まっている物を見る時は動きが不連続となり、あちこちへと視線が跳ぶことになる。すなわち、自分の意志では連続的に目を動かすことは出来ないのである。たとえば暗闇で小さなランプを左右に正弦波状に揺らしたとき、ランプを灯している間は人間の目も追従してきれいな正弦波状に動くが、ランプを消した途端、どんなにその正弦波状態を継続維持しようとしても、階段状のガタガタした波形になってしまう。
一般に静止した物を見る場合には、その物のあちこちの部分を次々と見て、全体を認識する。行っては止まり、止まっては移るという動作の連続である。このとき、次の位置に跳ぶ直前にフラッシュを焚いても、それに気付く確率は極めて小さくなるという実験結果がある。すなわち目が移る直前は、視力が落ちて見えなくなるのである。もしこの移動期間も視力が抑制されないとすると、船酔い状態となって脳が混乱する可能性がある。ともあれ、あまりに目をきょろきょろさせている人は、その分だけ外界から取り入れている情報量が少ない筈だから、そのような学生は成績が悪くて当然なのである。
脳には、目から接続された視覚野と呼ばれる領域がある。そこでは縦線、横線、斜め線などといった基本的な図形の認識を司る細胞が確認されている。ところが脳には、もっと高位の事象に対応する細胞もあるらしい。例えば猿の側頭葉には、飼い主の顔には反応するがそれ以外の人には反応しない細胞があるという。上側頭溝には、人間の正常な歩行には反応するが後退り歩行には反応しない細胞もあるらしい。このような一般化された高位の事象の一つ一つに対応して認識細胞が出来上がるとすれば、とても実際の脳の細胞数では足りない筈である。最近、より上位の基本図形が見出され、脳での認識処理が階層的に実行されていることが示唆されている。
人間の瞳は、目に入る光量を調節する絞り機構である。明るい物を見たり近いところを見る時には瞳孔は小さくなり、暗い中で物を見たり遠いところを見る時には大きくなる。焦点深度と感度の調節に関連しているのであろう。ところがこの瞳孔は、もっと上位の心理的な要素でも開閉されるという実験結果がある。魅惑的な物を見ると瞳孔が開くのである。光学的な常識からいうと、魅惑的な物はもっと絞りを絞って分解能を上げたいように思うのだが、どうやら逆らしい。「もっと光を」ということのようである。
逆に魅惑的でない物に対しては、瞳孔は閉じることになる。この現象を利用すれば、たとえば恋人同士が、お互いに自分を好いてくれているかどうかを目の瞳孔の開閉から確かめることが出来るのかも知れない。「目は口ほどに物を言い」という言葉が、何か重要な意味を持っているようにも感じられる。一方この現象を応用し、同じ絵を見たときに男女間で目の動きにどのような差があるかを調べた例も報告されたことがある。差は歴然で、男性は絵の中の女性に、女性は絵の中の男性に興味が行き、そこで瞳孔は開くようである。
このように目にはまだまだ神秘が多く、そう単純ではない。それを真似して造ろうというのは、どうやら創造主への冒涜なのかも知れない、と考え込んでしまう程の迫力を秘めている。