技術の散歩道 22
 ふ る さ と の 山  
   
 ここに一つの短歌がある。ある中学生の力作であり、国語の授業の宿題として創作された。

   暁の日野の峰より流れくる
     清き川面に金色の矢射す

早朝の川辺をそぞろ歩きつつ、ふと心に浮かんだ、ということになってはいるが実は嘘である。本当は用語、表現上での少しばかりの盗作を含み、かつ四苦八苦して作られた。もちろん彼にとっては最初で最後の作品であり、苦労したせいか45年後の今もまだ彼の心の片隅に残っている。古今の歌人の数々の名歌と伍して、これだけ長い年月にわたり彼の心に住み着いていたのだから、駄作といっては可哀想である。その彼とは、言うまでもなくこの私である。

 ここに詠まれている「日野の峰」は正式名を日野山というが、別名、越前富士とも呼ばれている。私の郷里の山であり、標高はたったの795mに過ぎない。新幹線を米原で北陸線に乗り換えると、敦賀を過ぎた直後に列車は北陸トンネルに入る。その長いトンネルを抜け出てまもなく、右手に日野の秀峰がその姿を表わす。「ああ帰ってきたな」と実感する郷里の山、私にとっての父なる山であり「兎追いし彼の山」なのである。

 その山麓を周り込むように一筋の川が流れている。夜叉ヶ池という、おどろおどろしくもまた神秘的な名の小沼に端を発すると言い伝えられているが、真偽のほどは知らない。名を日野川といい、私にとっての母なる川である。その昔、鮎を追った川であり「小鮒釣りし彼の川」でもある。普段は「清き」流れではあるが、今と違ってこのころは良く荒れた。今でもこの川を見ると、好んで濁流の中を泳いだ無謀な少年時代のことが甦る。この山と川とを詠んだのが、上記の歌というわけである。

 私の郷里は武生と言い、その昔、紫式部が、父、藤原為時の国司任官とともに訪れて一年余を過ごしたという土地柄である。当時府中と呼ばれ、国府が置かれていた。そこには彼女が詠んだという歌も幾つか残されており、これが中学で短歌教育に熱心だった理由の一つかと思われる。最近は私の家の近くに式部公園が作られ、どの程度本人に似ているかは定かでないが、そこそこ美人の紫式部の像が建てられている。

 さて、この日野山の麓の村で、夏のある夜、祭が催される。近隣から人々が集まり、笛や太鼓で賑わったあと、真夜中過ぎたころから三々五々山に登り始める。手に松明を掲げ、暗闇の山頂を目指す。数時間の苦闘の後頂上に辿り着き、そこで日の出を迎えることになる。夜明けの白みの中、一面の雲海を突き破って立ち昇る民のかまどの煙が、万葉の世に詠まれた舒明天皇の和歌の情景「……登り立ち国見をすれば、国原は煙立ち立つ……」と(煙の解釈に異論があるとは言え)そっくりであることに気付いたりする。このような山登りが昔日の夏の夜の慣わしであり、私の強烈な思い出でもある。

 武生の街並みを挟んで、反対の方角に鬼ヶ嶽という山がある。日野の陽に比べて陰の印象は免れないし、子供のころはその恐ろしい名前が災いして、未だに一度も登った経験がない。その昔、山腹の岩屋に住みついていた鬼が、南麓を川沿いに都へと上る旅人を襲い、ときには府中の町(武生市)まで荒らしに出かけたという伝説がある。珍しくも女の鬼で、今でも日野川に白鬼女橋という名の橋がある。このあたりで首尾よく退治されたと言い伝えられている。

 さてこの標高533mの山にも、昔、松明登山の行事があったらしい。その復活を記念して、地元の登山愛好者で山頂に碑を建てる話が出た。その中に私の幼友達がいて、彼から手紙が届いた。地元の中学に英語教師として赴任していた英国の若い女性を一度この山に案内したとのことで、その時に山頂の祠の登山者名簿に残していった彼女の感動の手記を碑に刻みたいので翻訳して欲しい、というわけである。送られてきた英語の手記は普通の散文ではあったが、未だ登ったことのない私にも、山頂での印象が心地良く描かれているのが分かった。私も一緒に登った気分になり、遊び心も手伝って何とかこれを詩にしたいと考え、中学時代の短歌のときと同じように悪戦苦闘して意訳したのが次の文語定型詩である。所詮は工学屋の作品だから、翻訳には自信があっても日本語表現には自信がない。でも、郷里の山の様子が少しは伝わってくれるものと思う。

   悪魔の山と人の呼ぶ その頂きに佇みて
   微かにそよぐ松が枝の 穏やかな影目にすれば
   似つかぬ名ぞと思わるる

   登る山路の道すがら ふと出会いたる老人の
   千度に亘る山行きは 妻を亡くせし残り日の
   生き甲斐とぞや知らさるる

   日がな一日我も又 尽きぬ景色に酔いしれむ
   右に横たう日本海 左に秀峰日野の山
   霞むは福井の街並みか

   頭上の雲はまだ消えず 僅かばかりの雨足も
   あれど眼下の武生市は 秋光浴びて大いなる
   陽だまりのごと輝けり

   綾と織りなす田園に 藁焼く煙緩やかに
   立ち昇るさま美わしき 我をここへと誘いし
   友の情けぞ偲ばるる

 ところでこの英国女性の紀行文が、詩となって山頂に刻まれたという話はその後聞いていない。しかし、私の知らなかった郷里の山に再度愛着を持たせてくれた貴重な手記であったし、またこの意訳詩も、駄作とは言え、工学屋の私にとっては大事な作品となった。
(平成11年5月)