技術の散歩道 25
 個性の源と独創性  
   
 「改造が要望せられるか、而してそれがあなたによってなされるのか。改造が宏大なものであればあるほど、それを成就するためのあなたの個性も宏大でなければならない。」 これは永年私が好んで口にしてきた米国の不遇の詩人ホイットマンの、詩集「草の葉」(有島武郎訳、岩波文庫)の中の「一人の弟子に」という詩の一節である。ただし時には自分好みに多少変造し、「改造」を「創造」と読み替えることもある。創造もまた、その原点は個性にあると考えるからである。

 かなり前のことだが、個性のある人がとみに少なくなったと新聞などで議論されたことがあった。以来、事態が改善されたという話は聞かないし、実感としてもまだまだ少ないように思う。社会の情報化が進展すると、ますます個性が均質化する危険性もある。この個性の均質化は、確実に創造の芽を摘み取ってしまうのではないかと危惧される。

 個性は、新しいものの創造には必要不可欠であり、そのためには、他の人とは質的に異なった自分自身の「意見」を持つ努力が必要となろう。そうしないと個性も発揮されないし、創造へもつながらない。個性は知恵のある意見を作り出すし、知恵のある意見からまた新たな個性が形成されるものと思う。

 とくに研究開発の面で欧米の研究者としのぎを削っている者にとっては、日本人の持っている創造力の根源すなわち独創性がつねに気になるものである。狩猟民族を祖先とする欧米人に比べ、四季の移り替わりに逆らっては収穫が得られない農耕民族を祖先とした日本人は、もともと独創的ではあり得ないのだとする説も世の中にはあるようだ。しかし私は、この独創性はむしろ後天的であり、教育などの社会環境に大きく支配されるという考え方を実感として持っている。

 ある事件が起き、ニュースレポーターが街に出て通行人にマイクを向けて意見を聞くとする。予想だにしない意見を、きちんとした筋道で堂々と喋る人は、米国のテレビでは何度も目にしたが日本のテレビではあまりお目に掛かれない。彼らは事実を捕らえる目も、それを加工して自らの意見として表現する方法も、すべて我々とは違っているように思われる。どうやらその根本には、教育の差があるようだ。

 日本では、教育の原点は昔から「読み・書き・算盤」と相場が決まっていた。今でも大差はない。問題は「話す」が欠けていることである。私の娘が通っていた米国のある高校では、「読み・書き・話し・演じる」(reading, writing, speech, drama)という4つの独立した科目で国語(すなわち英語)が教えられていた。このスピーチの授業では、一人10分ずつの宿題が課され、週に一度ずつ自分の順番が来る。試験では、先生の机の上に2組に分けて積み重ねられた紙片群からそれぞれ1枚ずつ取って、まず廊下に出て2分間考える。そのあと教室に入って2分間皆の前で喋る。この間に次の人がまた紙片を取って廊下に出る。これを繰り返す。

 もちろん喋るテーマは、2枚の紙片に書かれたそれぞれの言葉を組み合わせて、この2分間の間に自ら考え、しかもその内容は、問題提起から始まって3つの主張を入れ、それらをまとめた結論、という形に構成されることが要求される。もちろん、先生の予測しなかったような話をする生徒に高い点が付く。否応でも自分で考え、かつ独創的に話す基本が身に付くようになっている。そしてこの訓練が、強烈な個性を形作る源のように思えてならないのである。

 個性は一様性を貴ぶ社会からは生まれにくい。例外をよしとする社会への変革が重要である。義務教育での競争が撤廃され、「優等生」という言葉も死語になってしまったが、これは差別化を嫌ってのことらしい。ところが、人一倍努力した優秀な人を優等生として評価しないのは、その人にとっては逆差別ではないだろうか。努力した人と努力しない人とが同じというのはよくないのである。どうやら日本の社会では、正しい評価と、何も評価をしないこととが混同されているように思えるのである。

米国の社会では、学業成績以外に、もっと多様な評価が日常行われているようだ。昔、日本から転校した小学生の息子が、転校して1週間目くらいに学校から紙切れを貰ってきた。読んで見ると「今週の生徒 (The Student of the Week)」と書いてある。校庭の石拾いをしたことを称賛しての先生の手作りの賞状であった。このような些細なことでも、これを取上げて皆の前で盛んにエンカレッジするのがどうやら米国の教育の極意らしい。他人とは異なったことを率先してやることに称賛を惜しまない社会のようである。

 高校では飛び級が認められ、1年早く大学へ進学する者もいる。公立高校に通う生徒が、夏休みに別の私立高校の夏期講座を受けて単位を取得したり、放課後に学校の事務を手伝って「ビジネス」の経験をしたということで単位を取得し、卒業に必要な所定の単位を早めに取得できるような融通性がある。

日本でももっと柔軟な教育制度へと変革できないだろうか。4〜5才くらいから就学させるなど、思い切って教育を早めるとともに、融通性を高めることで大学教育を20歳までに終えるような制度に改革し、これにより社会人として自覚する時期を早め、早い時期から社会に参画させて能力を発揮させるのが望ましいのではないか。個性を持った独創性豊かな若い力で多くの「創造」が生まれ、40歳代の若い指導者が一杯出て来る社会にしたいものである。また競争も遠慮なくやった方がいい。でないと国際競争には初めから勝てない。ただし、倫理・道徳・哲学・宗教などといった精神的基盤の希薄な我が国では、能力のある者の心の奢りが心配となる。したがって「心の教育」にも重点を置く必要があるように思う。
(平成11年8月)