技術の散歩道 30
 国際化と国際人  
   
 メガコンペティションの時代を迎え、新たな国際化の方策が求められている。市場がグローバル化し、一国の経済政策が他国に大きく影響を与える時代となり、世界は確実に小さくなった。企業間の国際競争はますます熾烈になったが、その一方で、技術が高度化して一社の研究開発では経済的に見合わなくなり、投資とリスクとを分散するために何社かで共同して国際規模で研究開発を遂行することも当たり前の時代となった。また、得意技術を持ち寄って、新たな製品を共同開発する例も、以前よりははるかに多くなった。その結果、企業間では、右手で握手をしつつ、左手で殴りあうという事態も発生している。ある分野では共同開発で協調しつつ、別の分野では特許の訴訟合戦をやるような場合などである。まさに競争と協調が併存する社会となったのである。

 この新しい「国際競争と協調の時代」においては、企業活動の基本として「グローバル社会への貢献」という視点がより重要となる。とくに企業進出では、その国の「よき市民」としての行動が不可欠であり、地域に密着した喜ばれる製品・サービスの開発提供だけではなく、地域の文化・経済・教育活動などへの市民としての参画や支援が重要な意味を持つ。すでにそのような高邁な奉仕精神のもと、地域に溶け込んでいる企業も数多い。要は、基本と正道を守る愛される企業であることが必須である。

 このような国際化は、日本の経済成長に伴い、ここ30年で急速に進展したものであり、私の学生時代には想像すら出来なかった。学生寮のコンパでよく歌ったデカンショ節(兵庫県民謡)に、たしか「丹波篠山、山家の猿が、花のお江戸で芝居する」というのがあったが、当時、この文句に刺激されて花の東京へと出てきた人は、私を含め、かなり多かったに違いない。しかしこれからは、花の海外に出て研究開発やビジネスをやる時代であり、歌詞も変更しなければなるまい。もっとも、この歌が今でも学生の間で好んで歌われているとは思えないが。

 企業に就職後、海外留学のために横浜から船でアメリカへと初めて渡航したのは1967年のことであった。当時はまだ1ドル360円の固定為替レートのときで、日本としての外貨準備高は極めて少なく、渡航に割り当てられる外貨も窮屈を極めていた。1年間の海外滞在で持ち出せる外貨はあっという間に無くなるので、家族送金という非常手段を使って送金してもらう以外に手がなかった。留守家族に生活の困窮ぶりを切々としたためた手紙を送り、その手紙を添付した申請書で初めて送金が認可されたのである。このように異国での初めての生活は、お金は乏しかったが夢と希望は多かった。今、懐かしく思い出されるのである。

 同様に企業からの海外出張も、1970年代前半まではまだ珍しく、どこの企業でも誰かが海外出張となると掲示板に名前が張り出されるほどの大事件であった。職場から見送りにいくことが習慣化されていたようで、当時の羽田では、海外出張者をバンザイで見送る光景もよく見られたものである。

 1980年代に入ると日本の輸出ビジネスが一層活発化し、それに対応して国際人の育成が急務となった。この国際人というのは、単に外国の言葉ができるというだけでは不十分で、願わくは「違いのわかる人」であるのが望ましい。すなわち自国の文化と同様に他国の文化にも深い興味を持ち、人々の生活様式や思考方式、さらには価値判断の仕方などで、彼我の差がわかる人である。さらにその違いの知識を、日常生活や技術開発やビジネスに有効に活用できる人が真に国際人と呼べるように思うのである。

 この場合、他国の文化を単に知っているというだけでなく、それに対する深い尊敬の心もまた重要であろう。世界のどこの文化をとっても、その文化が生まれ育った背景にはそれなりの必然性があるわけであり、どこの文化の方が上だとか、優れているとか、進んでいるといった比較はおかしいわけで、そのような比較の目で見ると尊敬の念というのはおぼつかない。従って国際人の資格は失せてしまうように思う。

 ところでこのような国際人の特徴は、以下のようなものであろうと思われる。第一に、広い視野で多様な発想ができるので、新しい概念を提案し、革新的に仕事を遂行できる可能性が高い。第二に、自分の知らない仕事へ挑戦する際に抵抗が少ないので、物事をシステム的に組み合わせて新たなものを創造するというような「統合型」の仕事ができる可能性が高い。第三に、時間の重要性を自覚し、情報収集能力や情報発信能力が高いので、効率よくかつ円滑に仕事を遂行できる可能性が高い。

 1990年代にはこのような国際人に対する期待がますます大きくなり、そのため各企業では国際人養成に多くの施策を講じるようになった。その中でもやはり一番効果的なのは外国への派遣であり、研修、留学、実務、研究発表などの機会をとらえ多くの従業員を海外に派遣している。誰がいつどこへ行ってきたかは、本人が口にしない限りわからないほど出張者が多くなった。昔、東京〜大阪間を出張したのと同じような感覚で海を渡るのである。とくに研究開発の分野では、留学というような一方向的な形態よりも、共同研究のような双方向の技術交流を伴う形態の占める割合が大きくなり、若い技術者にとって国際的な活躍の場が大きく広がっている。

 近年経済が減速しているとはいえ、国際経済上重要な地位にある日本としては、学術・技術を含むそれぞれの分野で国際的にもっと指導力を発揮することが期待されている。そのためには「人間到る処青山有り」という心境が重要で、これが真に国際化を目指す場合の、人の持つべき基本的な精神のような気がするのだがいかがだろうか。
(平成12年1月)