その昔、常陸国と呼ばれたこの地は、都の勢力が及ぶ最北の地でもあり、さらに北へと国土の統一を狙う足がかりの地でもありました。古くは倭武(ヤマトタケル)がこの地を訪れ、そのときの逸話が常陸国風土記に数多く描かれています。往時の日常生活はもちろん、旅先でも、やはり水の確保は最重要な課題だったようで、風土記には、玉井の泉、蜜筑の泉、椎井の池など、泉の話が数多く出てきます。その遺称地は今も数多く残っていて、昔の様子を偲ぶ縁(よすが)ともなっています。常陸の名も、直通(ひたみち)に由来し、都から陸路にて行けることから名付けられたという説と、倭武が泉の水を愛でて手を洗った際に、衣の袖が水に浸った(ひたった)ことからこの国の名としたという2説が書かれています。
後世になって平将門が出現し、新皇を名乗ったため都から疎んじられ、幾度となく激戦が展開されました。北山古戦場(坂東市)で流れ矢を額に受けて絶命した将門の霊は、国王神社(坂東市)に祀られています。都へと運ばれて晒し首となった将門の首は、大声をあげて関東に飛び戻ったという話もあり、その落ちた先という武蔵国柴崎村(東京神田)には神田明神が護持する首塚があります。また延命院(坂東市)には胴塚があり、将門の愛妾の桔梗御前が住んでいたという朝日御殿やその墓という桔梗塚(ともに取手市)もあります。東国の独立を標榜した関東の暴れ者とはいえ、往時の民衆の支持は大きく、死後もまた民衆の信仰は厚かったようで、多くの逸話とともに、居館跡や記念碑などの史跡もかなり残されています。
平安後期には、源義清がこの常陸国への進出を図って武田郷(ひたちなか市)に土着し、武田姓を名乗って武田氏の始祖となり、武田冠者と呼ばれましたが、その後、土地の豪族との間で問題を起こし、甲斐国に配流になりました。そして、その第18代目として武田信玄が輩出されました。このように茨城は、甲斐武田氏のルーツの地とも言えるようです。
また、筑西市中館にあった伊佐城の第5代当主 伊佐朝宗は、源頼朝の奥州征伐の際に参戦してその功により頼朝から奥羽伊達郡(福島県)を拝領し、以後、そこに移って伊達氏の始祖となりました。独眼竜の異名を持ち、のちに仙台藩を樹立した伊達政宗は、伊達家の第17代目の当主に相当します。このように茨城は、伊達氏のルーツの地でもあったようです。
戦国時代には、当地の豪族間にも争いが増え、それぞれが城館を構えて戦った凄まじい歴史があります。県南には多賀谷氏、結城氏、岡見氏、小田氏などが群雄割拠し、県北の佐竹氏、大掾氏などとも勢力争いが続きました。とくに南朝に味方した者が多く、吉野からやってきた南朝の重臣北畠親房の軍勢と協力して善戦したものの、北朝方の軍勢さらには豊臣秀吉の軍勢に敗れて落城し、地方に移封されたり、非業の死を遂げた者も数多く出たようです。県内には、往時の城址・城跡が数多く存在しています。
こういう戦乱の中で、大掾氏の流れを汲む鹿島神宮神官の子として塚原卜伝が生まれました。生涯不敗の剣豪で剣聖と呼ばれ、鹿島新当流の開祖として「戦わずして勝つ」の無手勝流を標榜した人物でした。梅香寺跡(鹿嶋市)には墓が、鹿島神宮駅近くの鹿詰公園には、その功績を記した碑と銅像が建っています。一方、大掾氏の流れを汲む小栗城(筑西市)の城主 小栗氏の悲劇は、小栗判官物語として説経節(中世に興った語りもの芸能)の代表作となりました。餓鬼姿で恋人の照手姫に付き添われて熊野詣でをし、湯の峰温泉の壺湯で快癒する話は、史実半分・創作半分の物語ながら涙を誘うものです。今も熊野街道の一部に、小栗街道という名を残しているようです。
また、火薬を用いる集団を率いた軍勢がその戦勝記念にと、村の鎮守などでからくり人形を操った火祭りの歴史が、無形民俗文化財「綱火」(つなび、つくばみらい市)として今に伝承されている例もあります。総じて茨城は、強者どもの夢の跡だったように思われます。
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