参考記事: 茨城の魅力の背景 3
― 水戸徳川家と尊皇攘夷の思想 ―
江戸時代、水戸藩は善政を敷き、数多くの施策で地域の安定と発展に力を注いできたようです。とくに第2代藩主の徳川光圀は、藩内各地を整備し、多くの寺社に寄進して再興を図り、また久慈川などに堰を設けたり、山寺水道を拓いたりして、民衆の生活の安定に大きな貢献をしました。さらに、懸案の「大日本史」の編纂に向け、御岩神社の奥宮「かびれ神宮」(日立市)で筆初めの儀を行い、その資料集めに助さん・格さんなど多くの学者を雇ってその執筆に取りかかりました。後の明治維新での中心的思想となった「尊皇攘夷」は、この光圀による大日本史の編纂を通じて次第に形作られてきたもので、編纂に携わった儒学者 藤田幽谷により、「水戸学」としてその基礎が整いました。
江戸後期、第9代藩主徳川斉昭は、藤田東湖(幽谷の子)を藩士に登用し、水戸学の実践として藩政改革を実施しました。斉昭は文化的素養も高く、日本三公園の一つである偕楽園(水戸市)を造ったり、中国湖南省の瀟湘八景に倣って水戸八景を選定したりしました。また、近辺に異国の船が出没するようになった当時の情勢を踏まえ、海防のための砲台を設置したり、そのための反射炉型溶解炉(ひたちなか市)を造ったりしました。
斉昭は、ペリー提督浦賀来航の際には幕府の海防参与を務め、水戸学の立場から攘夷論を主張して当時の幕府大老 井伊直弼の弾圧に対抗しました。緊迫した政局下で、家臣の高橋多一郎らは脱藩し、決意の証として断髪して土に埋め、江戸へと出立して「桜田門外の変」を起こし、直弼を殺害しました。この断髪した髪の毛を祀った「水戸浪士の毛塚」(茨城町)が、史跡として今も残っています。
その後、藤田小四郎(東湖の子)を中心に「天狗党」が結成され、攘夷の実行を幕府に促すため筑波山で挙兵しました。一部が暴徒化して「天狗党の乱」を引き起こしたりしましたが、その後、京都にいた徳川慶喜(斉昭の子)を通じて朝廷に尊王攘夷を訴えようと、800余名の大部隊を編成して京都を目指しました。しかし幕府追討軍に行く手を阻まれ、越前経由へと大幅な迂回を余儀なくされました。
暫くして、頼みの慶喜が幕府追討軍の指揮を執っていたことを知るに及び、天狗党はついに降伏し、越前敦賀で鰊蔵に幽閉された後、計352名が斬首により処刑された歴史があります。往時の鰊蔵は回天神社(水戸市)に移築され、また天狗党烈士の墓もここに建てられています。
その後、江戸幕府第15代将軍となった徳川慶喜は、二条城での藩議を経て大政奉還し、長い幕府政治が終焉しました。水戸藩は、水戸学の発展で多くの学者を輩出し、尊王攘夷運動の中心ではあったものの、内乱などで多くの有能な人材を失い、大政奉還後の明治新政府で要職についた者は皆無だったということです。
ついでながら、当時の人材の一人、赤浜村(高萩市)の農民の出の長久保赤水についてもここに記載しておきます。のちに地理学者・儒学者として水戸藩に仕えた人で、20年以上を掛けてそれまでの日本地図を精査し、「赤水図」と呼ばれる正確な日本地図を作り上げました。
その42年後の1821年には伊能忠敬(千葉県九十九里町出身)が大規模な測地を経て「伊能図」を完成しました。また間宮林蔵(つくばみらい市出身)は、蝦夷地(北海道)に渡って函館で忠敬と会い、師弟の約を結んで測量学を学んでいます。2度にわたるサハリン(樺太)探検で間宮海峡を発見し、サハリンが島であることを証明したのは1809年のことでした。その後も、蝦夷地に10年ほど滞在して地図作成に携わり、蝦夷全図を完成させました。
当時幕府は、「伊能図」はもちろん、林蔵の蝦夷全図も、国家機密として厳重に管理したため外部には出ず、上述の「赤水図」が広く一般に流布して明治初期までの100年間に5版を重ねたと言います。赤水は日本の地理学者として近世史に不滅の足跡を残したものの、残念ながらその後の知名度は、忠敬や林蔵ほどには大きくはないようです。