参考記事: 茨城の魅力の背景 4
芸術界・文学界の俊英たち ―



 茨城では、数多くの分野で多彩な人材が輩出されてきました。戦国期には、佐竹氏一族の出自ながら武家を継がず、画僧となった雪村がいます。彼は、雪舟の画法を独学で習得し、人物画・花鳥画・山水画などで独自の画風を確立して、我が国の水墨画史に特異な地位を築きました。雪舟を超えるといわれる多くの名画を残していて、今も、ゆかりの地に、雪村筆洗いの池(常陸大宮市)が残っています。

 明治期には、日本美術院の主宰者の岡倉天心が五浦海岸(北茨城市)に邸宅を構え、敷地内の岩場の一画に六角堂を造り、以後この地を本拠地として日本画創作活動を本格化しました。多くの俊英を集めて日本画の創作活動の中枢となった歴史があります。その弟子に、水戸藩士の子として水戸に生まれた横山大観がいます。東洋の伝統に基づく近代日本画の創成を目ざした画家で、日本美術院の再興に尽くしてその統率者となりました。代表作には「生々流転」「瀟湘八景」や、富士山を題材とした多くの絵があります。

 また、洋画家としては、下館町(現、筑西市)に生まれた森田茂がいます。原色を多用し、色を塗るというより絵具を擦り付けるという感じの力強い筆致、重厚な画風が特徴です。初期の作品には人形や人物の絵が多く、のちに風景画も多く描くようになり、その後、偶然目にした山形県羽黒山地方の郷土芸能である黒川能に強く惹かれ、この黒川能を描き続けることがライフワークになりました。そのシリーズ作の1つで日本芸術院賞を受賞しています。

 また、北茨城市生まれの詩人 野口雨情は、「船頭小唄」「七つの子」「赤い靴」「青い眼の人形」など、童謡を中心に日本人の心を揺さぶる数多くの作品を残しました。さらに後世には、作詞家 高野公男が歌謡曲の世界を開拓し、親友の作曲家 船村徹とコンビを組んで「別れの一本杉」「男の友情」「早く帰ってコ」「ご機嫌さんよ達者かね」など、多くの歌謡曲の名作を残しました。郷里の笠間市にはその一本杉の碑があります。また、作曲の巨匠 吉田正は、もとは日立製作所が創設した工業専修学校を卒業した技術系の人だったようですが、のちに音楽で身を立て、「いつでも夢を」「潮来笠」「有楽町で遭いましょう」など、生涯で2400曲を作曲したといいます。その記念館がかみね公園(日立市)にあります。

 一方、江戸後期に利根町で生まれた医師 赤松宗旦は、利根川沿いの各地についてその歴史・風土・風習・民話などを調査し、「利根川図志」を著しました。挿絵には、本人以外に葛飾北斎、歌川広重らも協力しているとのことです。今も宗旦の旧居跡が利根町に残り、また彼の墓も近くの来見寺にあります。また、幼少時代を利根町で過ごした柳田國男は、この宗旦に心酔し、さらに徳満寺(利根町)の絵馬(間引きの悪習を描いたもの)にも触発されて学問の道に進み、民俗学の開拓者として活躍しました。

 日本文壇では、農民文学の不朽の名作「土」を著した歌人 長塚節や、「草燃える」などで著名な歴史作家 永井路子がいます。一方、我が国マンガ界の重鎮である手塚治虫は、そのルーツが茨城にもあるようで、府中藩医をしていた先祖の墓が清凉寺(石岡市)にあります。

 最近ではアニメ「ガルパン」やゲーム「艦これ」により、その物語の舞台となった大洗町がアニメ愛好家・ゲーム愛好家の聖地となっています。日本三大民謡の磯節で有名な大洗磯前神社(大洗町)の境内には、これらのアニメやゲームに因んだ萌えキャラクターや戦車が描かれた数多くの絵馬(通称、痛絵馬)が奉納されています。

 他にも、この芸術・文化の分野での有名人は数多いようです。例えば都々逸節で名声を轟かせた都々逸坊扇歌は、江戸で一世を風靡した人気芸人でしたが、世相風刺が幕府批判とも取られて江戸を追われ、郷里の茨城に戻りました。彼の記念堂が常陸国分寺(石岡市)にあります。また、筑波山から名を取った板谷波山は陶芸の重鎮として「葆光彩磁」の技法を確立し、その伝統は今も、笠間焼き陶器の里の発展を陰で支えているようです。また篆刻では、古河出身の篆刻作家 生井子華の遺作が、全国でも例をみない篆刻美術館(古河市)の一角に展示されています。