随想:「旅」シリーズ
返仁 1995年春号 掲載

トルコ・イスラエルへの旅

江 尻 啓 子


はじめに
 2年ごとの国際パターン認識会議がイスラエルのエルサレムで開催されると聞き,主人について私も参加させていただくことにしました。主人は長年,その主催団体であるIAPR(国際パターン認識連盟)という組織の副会長や日本代表理事をつとめておりました関係で,私も今までにこの会議に時折出席する機会があり,同じように世界各国から集まってくる大学の先生方やその奥さん達とも顔なじみが多く,久しぶりにお会いできるのが大変楽しみでした。とは言っても,複雑な歴史事情のあるお国柄ですし,緊迫した中東地域ということで,訪問に一抹の不安があるのは否めませんでした。

ラスベガス
 主人の仕事の都合で,まずラスベガスに飛びました。IEEE(米国電気電子学会)主催の国際会議で,晩餐会(バンケット)でのキーノートスピーチを依頼されていたためでした。食事のあと主人が紹介され,いよいよスピーチが始まろうとした瞬間,係の人の手違いで,既にセットしてあったスライドフィルムが床に落ち,バラバラになってしまいました。

 200名を越す参加者が皆「アッ」と声を上げ,私も一瞬ドキッとし主人がどうするのかしらと心配しておりましたら,彼はつかつかと自分の席に戻り,紙袋から別に用意してあったOHPを取り出して,何食わぬ顔でスピーチが始まったのです。近くのテーブルに居られた日本の大学の先生方から「さすが……」という声があがり,皆感心しておられましたが,私も主人の用心深さにほっと胸をなでおろしました。

イスタンプール
 イスラエルでは,金曜の日没から土曜の日没までがシャバットといって安息日になるとのことで,この時間帯を避ける意味もあってトルコのイスタンプールに立ち寄りました。ラスベガスからシカゴ,フランクフルト経由でイスタンプールへと,連続して3回飛行機を乗換えて一気に地球を半周したわけです。金曜日夕方のイスタンブールは,男性ばかりで女性の姿をほとんど見掛けず,不思議な街と思っておりましたが,急拠予約したディナーショウでのトルコ女性たちの美しさには見とれてしまいました。とくにべリーダンスが始まると,主人は食事も忘れてビデオカメラを廻し続けておりました。

 ショウが佳境に入り,テナー歌手の司会者が客席に向かって英語で,「ようこそトルコへ。これから私が呼び掛ける国の方々は拍手をして下さい。まず日本!」といいますと,満員の会場のあちこちから拍手が起きました。ついで次々と国名が呼ばれ,15ケ国以上の観光客が集まってきていることを知りました。そしてそれぞれの国の言葉で,なつかしい「ウスクダラ」の歌が紹介されました。しばらくして「今からべリーダンスを教えるから,私の選ぶ各国一人ずつの女性は舞台に上がるように」ということになり,何人目かに「ジャパン」といったかと思うとつかつかと私たちの席にきて私に手を差し伸べたのです。私は驚いて何度もNoと断ったのですが,主人は笑っているだけで止めてくれませんでしたので,とうとう舞台の上に引っ張り上げられてしまいました。

 次々と舞台に引き上げられるそれぞれの国の女性たちは,ボディコンスタイルやロングドレスに身を固めた,背が高く,若くて美しい女性ばかりでしたので,穴があったら入りたいような気持ちでしたが,覚悟を決めて私も教えられたとおりに音楽に合わせて皆と同じように結構うまく踊ったつもりでした。ところが音楽がストップして,今度は思いがけずも「では一人ずつ,舞台の中央に出て踊っていただきましょう」というのです。私の前に四人ほど踊りましたが,どうやら皆ディスコで鍛えたような振り付けで,踊りながら中央まで出ていき,堂々とべリーダンスを踊りますが,ディスコの経験のない私は,「はい,次はジャパン」と呼ばれた途端に足がすくみ,前に歩いて出るのがやっとで,うまく踊れなかったと思うのですが,それでもすごい拍手でした。席に戻り,主人にビデオを撮ったかどうか聞きましたら,こんなハプニングがあろうとは知らなかった主人は,その前に美女を撮り過ぎて,私のときには電池がなくなってしまったとのこと,撮られなくてよかったという思いと,一生の思い出にビデオに収めて欲しかったという思いの入り混じった複雑な気持ちでした。しかし確実に,トルコの忘れられない思い出の一つとなりました。

エルサレム
 テルアビプ空港からの乗り合いタクシーの窓外に見た初めてのイスラエルは,「ごろごろとした石の山」という感じでしたが,街に入ってからは「建設の槌音響く活気のある国」といった印象でした。会場のホテルには,世界各国からの懐かしい顔があり,旧交をあたためることができましたが,中でもアメリカのある大学教授の奥さんであるジョアンさんには,主人が会議や委員会に出席している間に,いっものことながら一緒に観光したり,ショッピングに付き合ってもらったりしました。

 エルサレムの聖地である嘆きの壁や,キリストが処刑されたゴルゴダの丘などを見て歩き,また観光バスに乗ってマサダの岩山まで行き,ケーブルカーで山頂に昇って,死海とその対岸のヨルダンの山々の雄大な眺望を楽しむことができました。ここはその昔,ユダヤ人がローマ軍に追われて立てこもった最終の地ということで,ここからユダヤ人の放浪生活が始まったという,歴史的な場所とのことでした。ほとんど雨の降らない荒れ果てた山頂で,城壁を巡らし,食糧と水を蓄えて2年も戦い,とうとう力が尽き果てて自害したという悲惨な歴史の説明を聞き,あまり馴染のなかったこの国に興味が湧いてきました。

 このマサダ山からの帰途,死海のほとりの,とある保養地にも立ち寄り,海抜マイナス400mという世界最低地の湖での浮遊を体験しました。25%とも言われる極めて高い塩分濃度のため,身体は自然に浮き,舌にあたった塩水は,塩辛さを通り過ぎ,痛いような感じさえしました。

ベドウインフイースト
 学会の晩餐会は,ベドウインフイーストと称して,エルサレムからバスで2時間ほどの荒野のなかにあるベドウインのテントの中で行われました。ベドウインとは,中東アジアにまたがって生活する遊牧民のことで,聖書にも出てくる古くからの民らしく,皆温和な顔つきの中にも何か精悍な感じが溢れていました。今でも羊を追いつつ,簡単なテントで遊牧生活をしておりますが,争いの多い中東で国境を自由に往来出来る唯一の民であり,死海の近くの,とても人が生活出来るとは思えないような岩山の洞穴の中から,世界で一番古い聖書の写本を発見したのもこのベドウインの子供とのことでした。見つかったこの写本は,死海写本と呼ばれ,エルサレムのイスラエル博物館の特別展示館の中に大切に保存されているのを,学会の歓迎パーティがこの博物館を借り切って開催された折に拝見することができました。

 さて,このベドウインの大きなテントの中で繰り広げられた晩餐会は,羊のシシカパブ(串炊き)が主体でした。いわゆる羊肉料理は,その独特の匂いから主人も私もあまり好きな料理ではありませんでしたが,ここの羊は実においしく,どうやら同じ羊でも,中東の羊は餌の違いで臭みが少ないらしいということを,あとで本で知りました。ベドウイン料理と踊りの余興を楽しんだあとに,学会の公式行事として表彰式がありました。主人は学会論文賞の審査委員長をしていたとのことで,論文賞を取られた方々に賞状を渡す大役を果たしました。

 前日にエルサレムの旧市街でテロ事件が発生したというので,エリコの街の近くを通る当初の予定が急に変更され,より安全な道ということで少し遠まわりをしてこのベドウィンの地にやってきましたが,道中,普段は人っ子一人いないと思われるようなところにも警備の兵隊が銃をもって立っているのを見たり,ガザ地区まで15キロという交通標識を見たりしますと,世界の紛争地の真っ只中に来たのだなという実感が湧いてきたりしたものでした。

おわりに
 学会も無事終了し,パリ経由でシべリア上空を経て帰国しましたので,まさに世界一周の旅ということになりました。帰国した直後に,ガザ地区でバスが焼き討ちされて十数名の死者が出たというニュースを聞きましたが,滞在中はとくに危険を実感したことはありませんでした。今では,すごく遠い神秘の国に旅をした思いですし,また,帰国して水道の水が飲めることの幸せを実感しております。

 2年後には,今度はウィーンでこの国際会議が開催されます。主人は引き続きこの学会の役員に選ばれているようですので,また2年がかりで「へそくり」を貯めて,できればまた彼について行ってみたいと密かに考えています。